連弾

祥之るう子

連弾

 どうして私は、ゆきじゃないんだろう。


 先を歩くゆき緒の後ろ姿を見て、そんなことを思った。

 まっすぐにのびた茶色ちゃいろのブレザーの背中、一歩一歩、歩くリズムに合わせてわずかにゆれる、オレンジベージュのショートボブ。首にまいた大きめのマフラーは、赤のタータンチェック。

 顔の近くで、ふわりと現れては、すっと消える白い吐息といきでさえ、まるで雪の女王の魔法のように、キラキラ光って、私の目を奪う。

 凛とした、後ろ姿。

 楽しそうにはずんだ声で、左右のクラスメイトたちがゆき緒に声をかけている。

 ゆき緒の表情は、真後ろを歩いている私には見えない。


 ねえ、ゆき緒、今、どんな顔してるの?


 軽快けいかいなゆき緒の笑い声が聞こえて、私の心をぎゅうっとめ付けた。


 直後、タータンチェックのフリンジがふわりとゆれて、ゆき緒がこっちを振り向いた。

 いつもの、楽しそうな笑顔。

 透き通るような白い肌。ほっぺと鼻の頭に寒々しい赤色がさしていた。

「ねえ、駅前のマックでいいよね?」

「いいよ~!」

 私が何も答えられないでいるうちに、隣の友人が答えてしまった。

 せっかくゆき緒が投げかけてくれた言葉なのに、答えられなかった。

 場所をどうするかなんて、悩む必要もない問いかけなのに。ゆき緒がいるのなら、どこだっていいのだから。


文月ふづきは?」

「え?」


 不意にゆき緒が私の名前を呼んだ。

 思わず心臓が跳ね上がる。

「マックでいい?」

「う、うん」

 心の中のドキドキやいろんなグチャグチャを気付きづかれないようにって意識いしきしたら、たった一言で終わってしまった。

「よし、じゃあ行こ~」

 いつものようにアーモンドアイをくにゃりとほそめて微笑ほほえむと、また前を向いて、私に背を向けたゆき緒。

 隣を歩く友達にも、近くを歩いている他の同年代の子たちからも、誰にも気付かれないように、愛想笑あいそうわらいをして歩く私。



 ゆき緒とは、今年、二年になってから同じクラスになった。

 出席番号順しゅっせきばんごうじゅんに並んだ、新学期初日しんがっきしょにちの教室の席順で、私の前の席に座っていたのが、ゆき緒だった。

 気付けばいつの間にか親しくなって。いつの間にか六人くらいのグループになって。いつもこの六人の誰かと行動するようになった。

 そして、気付けば、ゆき緒だけが私の「特別とくべつ」になっていた。


 初めて近くで顔を見たときから、長いまつげも、サラサラのオレンジベージュの髪も、真っ白な肌も、全部ぜんぶまぶしくて、すごくきれいな子だと思ったのは事実。

 でも、今みたいに、ゆき緒のことが「特別トクベツ」になったのは、先月、学校の合唱コンクールの練習が始まってからだ。

 各クラスが課題曲と自由曲の二曲を合唱して、ステージで発表して、先生たちが審査員しんさいんをやるっていう、校内行事こうないぎょうじのひとつ。

 来週が本番のこの行事で、私は、クラスのピアノ伴奏ばんそうをすることになったのだ。


 別に、すごく上手なわけじゃない。小さい頃に習っていて、今でもときどき趣味で弾いてる程度でのピアノで、合唱の伴奏なんて初めてだったから、他のクラスの子たちに比べたら絶対に下手くそだ。

 私が選ばれた理由は、ゆき緒の推薦だった。

 ゆき緒は、以前、ショッピングモールの楽器店の店頭に展示されていた電子ピアノで、私が気まぐれに演奏をしたのを見ていて、それを覚えていたから推薦したのだと言った。

 それに、クラスには他のピアノが得意だという子がいなかった。というか、いても内緒にしてたんだと思う。プロをめざしてるとかじゃない限り、誰だって嫌に決まってる。

 正直、気が乗らなかった。

 不安だし。下手くそだし。本番に弱いし。

 でも、受けてよかったと、すぐに思い直した。

 体育館や音楽室で自主練習している私のとなりには、いつもゆき緒がいた。

 私が演奏をする椅子の脚元あしもとに体育座りをして、ゆき緒は携帯をいじっていた。

 退屈そうに見えたが、ゆき緒はまぶしいばかりの笑顔で、こう言ったのだ。


「あたし、文月のピアノの音が好き」


 私は「七月生まれ」というだけの理由でつけられた「文月ふづき」という自分の名前が嫌いだったけど、このときから、それすら「特別」になった。


 そう。ゆき緒の口から発される言葉は、なんだって「特別」なんだ。

 こんな地味じみでつまらない私という存在ですら、ゆき緒がそのつまらない名前を呼んでくれるだけで「特別」になるんだ。



 駅前のいつものファストフード店。いつも空いてる窓際まどぎわの席。となりのテーブルと椅子も引っ張ってきて、六人分の席を作って座る。

 私は、ゆき緒のむかいに座りそこねて、ななめ向かいに座った。

 気をつけないと、ずっとゆき緒の指先ばかり見てしまうから、このくらいの距離きょりがいいのかもしれない。

 友人たちの他愛もない話に相槌あいづちを打ちながら、ちびちびとポテトをつまんでいると、ゆき緒が不意に私を見た。

「ねえ、合唱コンクール終わったらさ、打ち上げしようよ」

「え?」

「文月のピアノお疲れ様会もかねてってことで!」

 ゆき緒は、ぱあっと周囲を照らすような笑顔でそう言った。

 友人たちも「いいねえ!」とか「やりたーい」とか、黄色い声で同意しながら、私を見た。

「ねえ、文月、いい?」

 ゆき緒が少し不安そうな顔になって、こちらをのぞき込むように、上目遣うわめづかいで見つめてきた。

 私が無言だったので不安にさせてしまったようだ。

 ただ、ゆき緒の笑顔に見とれていただけなんだけど。

「もちろん、いいよ」

 私が笑って答えると、ゆき緒はホッとしたような笑顔になって、スマホであちこち打ち上げ会場となるお店を選び始めた。

 私も友人たちと一緒にゆき緒が差し出してくるスマホの画面を見ては笑った。

 顔は笑っていても、心の中は相変わらずぐちゃぐちゃだった。


 ゆき緒はどんな気持ちで、私を誘ったの?

 きっと特別な意味はないんだろうけど。

 他の友人が、ゆき緒のスマホを受け取って画面を見ている。

 あんなこと、私はしたことないのに。

 ねえ、ゆき緒は今どんな気持ち?

 不意にゆき緒のとなりの友人が「この前のあれ、見た?」って話し始める。

 彼女がゆき緒にすすめたらしい外国のドラマの話。

 私の知らない話題で、二人が盛り上がり始める。

 ねえ、ゆき緒は今どんな気持ち?

 他の子が、自分の片想いの話を始める。

 ゆき緒は興味津々きょうみしんしんといった態度で身を乗り出して、頬杖ほおづえをつく。


 ねえ、ゆき緒。


 ねえ、ゆき緒。


 私の頭の中はゆき緒でいっぱいになっていく。


 ねえ。ゆき緒。私には?

 私にも笑いかけて?


 気を抜くと、そんな気持ちに支配されそうになる。


 私は、そんな自分が怖くて、大嫌いで、でも止められない。

 こんなの、初めてだった。

 他の友人たちにも、男子にも、こんな風に思ったことなんてなかった。

 この感情は何なんだろう。

 必死におさえていても、今にも爆発しそうになる「独占欲」。

 ゆき緒が他の友だちと仲良くしてると、どうしようもなく心がチクチクする。

 自分がヤキモチをやいてるんだって、気付けないほど子供じゃない。

 問題は、それが、どうしてかってこと。


 無駄話で脱線しながらも、なんとか打ち上げの予定が決まりそうになったとき、仲間内の一人がスマホを見ていて、アッと声を上げた。

「あ、ごめん、私、その日……予定が……」

 気まずそうに両手を合わせて「ごめん」のポーズを取ったその子に、ゆき緒が「ははーん」とちょっといじわるそうな笑顔で言った。

「さては、彼氏か~? デートなんでしょ?」

 他の子たちもニヤニヤし始める。

「う、うん」

 申し訳無さそうに肩をすぼめていく彼氏持ちの友人に、ゆき緒はパッと表情を変えて、にっこり笑ってみせた。

「じゃあ仕方ないっか。友達とも一緒にいたいけど、好きな人とも一緒にいたいよね~!」

「うう、ありがとう~ごめんね~」

 みんなはニコニコしつつ、ちょっとからかったりしている。

 私も、ニコニコして見せた。

 ――ゆき緒にも、好きな人、いるのかな。

 そんな考えが頭に充満じゅうまんしていくのを必死にかくしながら。

 いつか、いつかゆき緒に好きな人ができて、そしてその人とお付き合いを始めたら、もう私となんか一緒に帰ってくれないかもしれない。

 こんな風に、遊びに誘っても断られちゃうかもしれない。

 もっともっと大人になったら、恋人と同棲どうせいしたり、結婚したりして、私なんか会いたくても会えなくなったりするんだろうか。

 ずうっと遠くに引っ越しちゃったり、するんだろうか。


 嫌だ。

 そんなの、嫌だ……!


 その後はよく覚えていない。

 必死に愛想笑いをして、普段どおりをよそおって、みんなと別れた。

 でも、頭の中ではずっとずっと、こう考えてた。


 ――どうして私は、ゆき緒じゃないんだろう。


 私がゆき緒の一部だったなら、ゆき緒と永遠に離れることもないのに……!

 一生、ゆき緒といられるのに……!


 自分でも意味のわからない考えだと思う。

 でも、私がゆき緒の一部だったなら、ヤキモチをやく必要もないし、片時も離れることもない。

 だから、寂しさも、不安も、怖さも、全部全部なくなるのにって。


 どうして、私はゆき緒じゃないんだろう。


 毎日毎晩、そんな想いをねじ伏せて、ゆき緒からの他愛もないSNSのメッセージに、学校で会うゆき緒の仕草のひとつひとつに、一喜一憂した。


 音楽室でピアノの練習をしてる間。二人きりのこの時間だけは、ヤキモチも何もかもがなりをひそめて、私はただただ幸せな気持ちでいっぱいだった。

 ずうっとこうしていたい。

 私がどんなにそんな風に願っても、時間は止まってくれない。

 あっという間に、発表会は二日後に迫った。

 明日は予行演習のようなもので、当日の順番通りに、各クラス一回ずつ体育館で通し練習ができるだけで、あとは早く帰るように言われている。

 もちろん、音楽室や体育館でのピアノの練習はできない。


 だから、私の幸せな時間は、今日が最後。


 放課後、教室でのクラス練習の後、帰宅するみんなと別れて音楽室へ向かう。

 ゆき緒も、私が誘わなくても、当然のように漫画本を片手に一緒に教室のドアをくぐる。

 この瞬間が、私にとってどれだけ幸せか、きっと、ゆき緒は知らないだろうな。


「ねえ、文月」

「なあに?」

「明日ってピアノ練習、できないんだよね?」

「うん」

「じゃあ、練習、今日が最後かあ」


 ゆき緒はそう言うと、私を追い越して、少し先を歩きだした。

 また、凛とした背中が見える。

 私の心臓のドキドキが鳴り止まないうちに、くるりとゆき緒は振り向いた。


「じゃあ、早く行こ」


 にっこりと笑った顔は、すぐ横の窓からさす光に照らされて、とってもきれいだった。


 音楽室の大きな窓からさす西陽は、あまりに眩しいので、少しだけカーテンをひいた。

 私とゆき緒は、カーテンが作り出した影の中にいる。

 ピアノのふたを開けて、譜面台をたてる。

 ほとんど暗譜あんぷしてるけど、一応楽譜を置く。

 ピアノの前にある椅子は、黒くて、背もたれのない、長方形のタイプ。

 それをひいて、そっと座る。

 指先を鍵盤の上に置く。

 一応準備運動みたいな感じで、軽く指の運動になる音を鳴らしてから、曲の練習を始める。

 ゆき緒はいつも、私が座る椅子の脚元に座ったりしゃがみこんだりしている。

 けど、今日は座らない。私のすぐ後ろに立っている気配がする。

 変なの。

 ゆき緒が座ってるか、立ってるか程度のちがいしかないのに、すごく緊張してる。

 指が、うまく動かない。いつもはスラスラ弾けるところで、指がすべってしまった。

 どうしよう。今日で最後なのに……私のピアノの音が好きだって言ってくれたのに……上手に弾けない。

 落ち着け落ち着けと、思えば思うほど、指が強張こわばってくる。


 不意に、左側にゆき緒が座った。

 反射的に、ゆき緒にスペースを分け与えるように、右にずれる。

 ずれながら、ドキドキがどんどん強くなる。

 どうして?

 そう思っても、鍵盤から目を離せないし、演奏も止められない。

 視界のすみに、そっと細くて白い、きれいな指が見えた。

 ゆき緒の指先。

 驚いて演奏を止めそうになると、ゆき緒が「そのまま弾いててね」とささやいた。


 弱く、そっとゆき緒が鍵盤をおした。

 低く、落ち着いた和音が響く。

 それは私の演奏を支えるように響いて、私の高音のか弱い音に、重厚感を足してくれている。

 単調なリズムで、ただ二つか三つの音で構成された和音を奏でるゆき緒の指。

 緊張がふっと消えて、気付けば私の指は羽が生えたように軽くなった。

 曲は、パッヘルベルのカノン。

 何度も何度も繰り返される音が、すこしずつ空への階段を駆け上がるように。

 ちょっとのミスなんか気にならない。

 まるで、ゆき緒が私を、空へとき放ってくれるみたいに。

 そうして、羽を広げて風を楽しむ私を、下で両手を差し出して待ち構えていてくれるみたいに。


 心地よい瞬間。

 簡単で単調で、難しくもない、基礎の基礎みたいな連弾。

 それでも、こんなに楽しくて、こんなに幸せなことは初めてだった。


 やっぱり、ゆき緒は私の特別だ。

 私にたくさんの「初めて」と「特別」をくれる。


 ――ああ、どうして私は……


「どうして、あたしは文月じゃないのかな」


「――え?」


 曲が終わると同時、小さな小さな声で、ゆき緒が呟いた。

 もしかして聞き間違いかとも思ったくらい、小さな声だった。


「あたしが文月だったら、ずっとずうっと、文月のピアノを毎日だって聞ける……」


 ゆき緒の長いまつげが震えて、私の目を見つめた。

 私の心臓は、大きな音を立てた。


「毎日、ずうっと一緒にいれるのに」


 ゆき緒の手が、指先が、私の手に触れた。


 オレンジ色の夕日から隠れるように、影の中で、私達は鍵盤の上の手を重ねる。

 視線も、心臓の音も、重なっていく。


 ああ。

 この触れた指先から、二人が溶けあってしまえばいいのに。


 私はまた、そんなバカなことを考えたまま、ゆき緒と指先を絡めあった。

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連弾 祥之るう子 @sho-no-roo

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