第四話

「殿下。ウォーカー伯爵家のコーディリアという少女からお届け物です」

「コーディリアから?」


 政務中に執務室にやってきた近侍から渡されたのは、綺麗に畳まれたハンカチだ。傍らには栞とメッセージカードが添えてあり、感謝の言葉が書いてある。

 そういえば数日前、夜の庭園で出会った少女にハンカチを貸していた。この押し花で作られた栞は、そのお返しという事だろう。釣鐘草の花言葉は‘感謝’だったはずだ。そういえば庭園からゲストハウスに向かう途中、読書が趣味だと話した記憶がある。コーディリアはそれを覚えていたらしい。

 王子に贈られる献上品としてではなく、個人的な理由で人に何かをもらうのは随分と久しぶりだ。しかも贈り主が同年代の少女、それも少なからず好ましいと思える相手からともなれば、いやがおうにも心が弾む。

 しかしそんな内心の喜びを押し殺し、ダレルは冷たい眼差しを栞に向けた。ここで感情を露わにするのはまずい。執務室には多くの者達がいるのだから。


「……ふん。なんですか、これは」


 つまらないと言いたげに鼻で笑い、汚いものに触れるように栞をつまむ。そして投げやりな動作で引き出しの中に入れた――――自分が喜んでいると知られれば、きっとこれは奪われてしまう。それだけは絶対に避けなければ。これはコーディリアがくれた物だ。たとえ誰であろうと渡さない。

 ハンカチも同じようにして引き出しにしまった瞬間、目を光らせていた侍女がふっと緊張の糸を緩めたのがわかった。もしも栞を大事にする素振りを見せたなら、少し目を離した隙に彼女が栞を掠め取るのだろう。翌日には切り刻まれているか、灰になっているかのどちらかだ。

 ダレルの大切なものはすべてそうやって奪われてきた。だから彼には私物と呼べるようなものが必要最低限のものしかない。大事なものが増えすぎると、守る事も隠す事も難しくなるからだ。やがてダレルは感情を制御するすべを学び、喜びや悲しみといった心の動きを決して顔に出さないようになった。それもまた自分が疎まれる理由になっていると知った時は、さすがに笑ってしまったが。誰のせいでこうなったと思っているのだ。


「ところで、この書類は――――」


 もう栞の事など忘れてしまったかのように、ダレルは書類仕事を再開する。声をかけられた文官はびくりと肩を震わせ、しどろもどろになりながら立ち上がった。



 自分は城一番の嫌われ者だ。ダレルはそれをよく知っている。

 味方などどこにもいないと気づいたのは、物心がついてすぐの頃だった。

 自分の母は、もともと貧しい下級貴族の令嬢だったという。それを父王ライアンが見初め、身分差を無視して王妃の座に据えたそうだ。もっとも、見た目だけは美しかった母が金と地位に目がくらんで、ライアンを誑かしたのだと城の女達は口をそろえて言い添えるが。

 王妃となった娘のおかげで没落を免れていた母の実家だが、その家もすでにない。母がダレルを生んでそのまま命を落としたため、援助する者がいなくなったからだ。

 妃を溺愛していたライアンは、母を殺して生まれてきたダレルをいないもののように扱った。ダレルは母親似だったが、それが父の神経を余計に逆なでしてしまっていたかもしれない。ダレルを見ると、今は亡き妻を思い出してしまうのだろう。最愛の妻を殺したモノが妻と似た顔をしている事に、耐えられなかったに違いない。

 そんなライアンも、ほどなくして新しい妃を娶る事になる。それが現王妃のミッチェルだ。名門公爵家の一人娘である彼女を支持する者は多く、ライアンもミッチェルを丁重に扱った。たちまち前王妃の存在は疎ましいものとして扱われ、前王妃を感じさせるものは邪険にされるようになった。忘れ形見であるダレルも例外ではない。

 長年自分の世話をしてくれた、もとは母のお付きの侍女だった者達が、自分や亡き母の陰口を叩いているところを聞いたのは一度や二度ではない。遊び相手として紹介された者達が無邪気に振りかざした言葉の刃に切り裂かれた事もあった。周囲の大人がひそひそと喋っているのを聞いた彼らは、深く考える事なくそれを直接ダレルにぶつけるのだ。

 母の悪評や自分への中傷。実の伴っていない第一王子の肩書などでは、罵声と暴力から身を守る事はできない。王妃や異母弟の第二王子が率先して自分を軽んじ、そのうえ国王は見て見ぬふりをしているのだ。抑止力になるような者など何もなかった。家臣達は表だってダレルに直接的な悪意をぶつける事は少ないものの、そのぶん陰からぐちぐちと突き刺してくる。次第にダレルは疲れてしまった。

 王家の名はダレルの背に重くのしかかる。ダレルが何をしても、誰も認めてはくれない。挙句の果てには「第一王子が婚約を破棄したらすべてが丸く収まるのに」と囁かれる始末だった。フォーサイス公爵令嬢カミラとの婚約を解消する事でフォーサイス公爵の怒りを買い、後ろ盾を失くしたうえに公爵の報復によって失脚する。それがダレルに求められている事なのだ。第一王子というのは果たして何なのか、もうそれすらわからなかった。

 幼い頃に父王が強引に結んだカミラとの婚約は、ダレルにとって重荷でしかない。カミラと婚約していなければ、ダレルが失脚するわかりやすい機会も訪れなかったのに。カミラと婚約していなければ、オーガストの嫉妬もカミラの冷淡さも知らずに済んだのに。いっそ、人々の望み通りカミラとの婚約を破棄したいぐらいだった。

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