第三話

「……ん?」


 当てもなく庭園を歩いていたダレルの不意に足が止まる。夜露に濡れた芝生を踏みしめる音や冷たい夜風の音に混じって何かが聞こえた気がした――――たとえばそう、女性のすすり泣く声のような。

 いつだったか侍女が話していた怪談話の類が蘇る。どこぞの悪徳貴族に誑かされた侍女が失意のままに病死したとか、さる令嬢が身分違いの恋人と駆け落ちするつもりが失敗してその腹いせに自殺したとか。どれもくだらない与太話だと一蹴していたが、げんにこうして泣き声のような音が聞こえる。途端につまらない噂話が現実味を帯びて、闇の向こうから忍び寄ってくるような気がした。

 周囲を見渡す。カンテラの明かりを頼りにしてよく目を凝らせば、向こうの植え込みの陰に何やら白いものが見えた。すわ幽霊かと頬をひきつらせるが、迷い込んだ招待客だという可能性も捨てきれない。そして白いものの正体が後者だった場合、見て見ぬふりをするのはまずいだろう。しばしの逡巡を経て、意を決したダレルはおずおずとそれに近づいた。


「あの、どうかなさいましたか?」

「……ッ!」


 声をかけると、白い塊はもぞりと動いて顔を上げた。泣き腫らしていたのだろう、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。だが、確かに血の気が通っている。どうやら招待客の令嬢だったらしい。

 幽霊、もとい少女は慌てて目元をぬぐう。見かねたダレルはハンカチを差し出した。ハンカチはまだ予備のものが二枚あるし、生身の人間ならば怯える理由はない。


「お使いになりますか?」

「あ、ありがとう存じます……」


 蚊の鳴くような声で礼を言い、赤い髪の少女はおずおずとハンカチを受け取る。ほどなくして落ち着いたのか、少女はちらりとダレルを見た。大きなエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、思わず目がそらせなくなる。

 年の頃は十五、六歳といったところだろう。ダレルとそう変わらない年齢のようだ。纏っている白いドレスや宝石も高価なものだと一目でわかる。どこかのやんごとない令嬢なのは間違いない。しかし赤髪に緑の目など、この国の人間ではないだろう。大陸からの来客だろうか。

 なんとか彼女から目をそらし、視線を当てもなく彷徨わせる。その時にふと気づいた。少女が着ているドレスの一部に赤いしみができている。血かと思ってぎょっとするが、よく見ればワインのようだ。ワインのしみ以外に異常は見られない。恐らく誤ってワインを零してしまったうえに替えのドレスもなかったので、いたたまれなくて大広間を飛び出してしまったのだろう。

 この庭園は、客人のためのゲストハウスにも通じているので、ここを通れば誰にも見られずに客室に行く事ができる。しかし道に迷ってしまい、ここで泣いていたに違いない。


「少し待っていてくださいね」

「え……」


 その場を立ち去り、少し離れたところにある井戸を使って予備のハンカチを濡らす。冷たい水に肌を刺激されていると、ふとダレルの頭にある事がよぎった。


(……まさか、な)


 浮かんだ風景を掻き消してダレルは笑う――――確かにカミラはとある夜会で自分と同じ色のドレスを着ていた下級貴族の令嬢に、偶然に見せかけてジュースをかけた事があるが、それは今から五年も前の話だ。先の少女のドレスを汚したのが、人為的なものだとは限らない。

 戻ってきた時、少女は変わらずそこに座っていた。失礼します。そういってドレスの裾を取り、しみになってしまった部分を濡れたハンカチと濡れていないハンカチで挟みながら優しく叩く。しみは徐々に滲んでいった。腕のいい洗濯女に任せれば完全に消えてなくなる事だろう。


「ひとまずはこれでいいでしょう。ですが、なるべく早いお召し替えをお勧めしますよ」

「はっ、はい! あの、本当にありがとう存じます。道に迷ってしまったのですが、あなたのおかげで助かりました」


 少女は何度も頭を下げた。人に礼を言われたのは一体いつ以来だろう。驚くほどあっけなく謝礼の言葉を次々と口にする少女を前にして、ダレルは思わず口元を綻ばせた。


「お気になさらないでください。……そうだ、なんなら私が送ってさしあげましょうか?」

「本当ですか!? あ、そ、その前に、あなたのお名前をうかがっても……?」

「ダレルです。貴方は?」


 名前を告げると、少女はわかりやすく固まった。頼れる者もいないまま迷子になってしまってしどろもどろになっていただろうに、さらに彼女はうろたえた様子を見せる。


「ダレル……王子殿下……?」

「……ご存知でしたか」

「も、申し訳ございません! わたくし、つい最近アルエス帝国から来たばかりで、まだ右も左もわからず……! まさか殿下のお手を煩わせてしまっただなんて……!」


 アルエス帝国とは、大陸にある大国の名前だ。その名は半島の片隅にあるグレーツェン王国にまで轟いている。アルエス帝国は、不夜の国と言われるほど栄華を極めているらしい。グレーツェン王国とアルエス帝国の関係は希薄だが、確か数日前にアルエス帝国の者が縁故を辿ってやってきたと父王が言っていたはずだ。


「ああ、貴方がウォーカー伯爵の?」

「はい。コーディリア……コーディリアです」


 現ウォーカー伯爵の弟は、どういった経緯かアルエス帝国に移住したという。そして彼の伝手を辿ってやってきた者が伯爵邸に滞在しているそうだ。彼女がその滞在者なのだろう。確かに今日の夜会には、ウォーカー伯爵夫妻は一人の少女を連れていたはずだ。どうやらそれがコーディリアだったらしい。

 コーディリアを立ち上がらせ、ダレルは彼女をゲストハウスへと案内する。その間、二人は会話を続けたが、ダレルはすぐに話題が尽きてしまって聞き役に徹する事になった。もともと私的な理由で人と接する事があまりないダレルは、話の引き出しがほとんどないのだ。

 だが、人の話を聞くのは決して嫌いではない。ダレルが帝国の話を聞きたいと言えば、コーディリアは嬉しそうに笑いながら祖国の話をしてくれる。そうやって弾むような笑顔で自分の国の事を話せる彼女の事が、少しだけ羨ましかった。

 そうしているうちに時間はあっという間に去っていく。いつの間にかゲストハウスの前まで来てしまった。少しの名残惜しさを覚えながら、ダレルはコーディリアに別れを告げてその場を去る。

 振り返る事はしなかった。一度振り返れば、妙な未練が湧き上がる気がしたからだ――――だからダレルは、コーディリアが熱っぽく潤んだ瞳で自分を見送っていた事に気づかなかった。

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