第3話隣の他人はお呼びでない
その人への第一印象はキレイな女性。キレイに装った女だと思った。
その人は引っ越し挨拶の時、厚い化粧をした顔を笑顔の形に歪めて
「よろしくね」
と言った。年齢はわからなかった。わからないように化粧や服装で隠していた。そして、扉を閉じた後に
「ちっ。クソガキかよ」
という小さい呟きが聞こえた。そこにはまだ高級そうな香水の香りが漂っていた。
彼女は私が嫌いな類いの人だった。
朝、一階の廊下ですれ違っても挨拶の一言もない。狭い廊下なのに堂々と真ん中を我が物顔で歩いて、少しでも体が触れると
「ちょっと、狭いんだから退いてくれるぅ?」
なんて大声で怒鳴ってくる。
私が夜に職場から帰って来たとき、アパートの近くの駐車場で派手な服を着て電話をしているのを何度も見た。甲高い声で話す彼女の車は、そこにはなかったと思う。
ごみ出しの日なんて最悪だった。彼女は、分別なんて全くされていない袋を回収場所に放置するの。一度注意したことがあるんだけど、
「今日は燃えないごみの日ですよ」
「そんなの知ってるわよ。頭悪いわね」
っていう会話をしただけだった。もちろん、その後もごみの出し方は変わらない。あげくの果てに、回収日以外でもごみを出すようになった。
とうとう管理人さんから注意が入ったみたいだった。やっとまともになる。そう思ってた。でも、更に質が悪くなっただけだった。ごみ袋に名前を書いてから回収所に置くんだけど、彼女はね、私の名前を勝手に書いて置くようになったの。部屋の名札を見て書いたんだろうね、持っていってもらえないで残ったごみにはいつでも私の名前が書かれているようになった。それはすごく恥ずかしい。
管理人さんに相談した。もう、何年もお世話になっている管理人さん。呼び鈴を鳴らしてお邪魔すると、年配のお爺さんである管理人さんはソファに座るように促し、私の目の前に温かいお茶を用意してくれた。
まずは落ち着こう。私たちはお茶を啜った。
話し出したのは管理人さんの方からだった。
「彼女には本当に手を焼いています」
管理人さんは溜め息混じりに彼女について語り始めた。私としては彼女のことはどうでもよかった。でも、管理人さんが迷惑しているのはよろしくなかった。
私は一通り愚痴を聞くと、私の方はこうなんです、と報告だけしておいた。
もうそのときには、彼女のことは少し我慢すればいいかななんて思うようになっていた。私なんかより管理人さんの方がもっと迷惑していたんだ。それでも追い出せないのは、知り合いの人から頭を下げられてまでお願いされたからなんだって。ここが最後の居場所だからって。
管理人さんは言った。貴女が悪くないのはよく解っている、と。毎朝ちゃんと挨拶をして、ごみの日も出し方もしっかり守って、家賃も滞納しない。自分がぎっくり腰になった時には、彼と一緒に世話をしてくれた。隣の部屋のお婆さんが亡くなった時にはお線香をあげてくれた。本当に貴女と、二階の彼はいいこだよ。そんな風に言って、管理人さんは笑った。
ああ、管理人さん。私、貴方の白髪が禿げてしまわないか心配になっちゃう。そんなことを考えながら、私はその部屋を後にした。
管理人さんは私たちのことをしっかり見てくれていた。そのことが嬉しかった。きっと、私と十夜さんが付き合っていることも気づいているんだろう。それでも管理人さんは何も言わない。無理に踏み込んで来ないで一定の距離を保ってくれる、その優しさが嬉しかった。
私は、本当にこのアパートへ引っ越してよかった。十夜さんにも、管理人さんにも、それに十花ちゃんとも出逢えた。
だけど、あの女だけは好きになれない。ううん。好きになる必要なんてないよね。
私はあの女、大嫌い。あんな人、それまで生きてきて見たことない。できれば死ぬまで見たくなかった。でも、運悪く出会ってしまった。それも「隣人」として。
管理人さんの部屋を出て、その隣のあの女が住んでいる部屋の前を早足で静かに通り過ぎた。聞きたくもない音が扉の向こうから漏れていた。
もう! ほんと最悪!
階段を駆け上がって、自分の部屋に飛び込んだ。バタンとわざと音を立てて扉を閉めた。
無性に恋人に会いたくなった。
十夜さんに、十花ちゃんに会いたい。
明日は金曜日だ。
逢瀬の夜がやってくる。
いつものように、金曜日がやってきた。
朝、早起きをして十夜さんの朝食を作る。一緒に作った自分の分の朝食を食べて、部屋を出るギリギリのタイミングで包む。それを、すぐに取り出せるように鞄の一番上に乗せる。部屋を出て鍵を閉めると、大体同じくらいに隣の部屋から十夜さんが眠そうな顔で出てくる。
いつもだったらそうなんだ。いつもだったら。
でも、その日は違った。
その日は下の階から声がしたんで、そぅっと階段を下りずに様子を伺ったんだ。そしたら、あいつがいた。しかも、よりによって私たちの十夜さんと一緒にいるんだよ?! 信じられない!!
あの女は十夜さんの腕にがっしりと抱きついて、朝から着るとは思えないやたらと胸元が開いたワンピース姿で大きな胸を見せつけていた。更には見せつけるだけではなく、自分からぐいぐいと押し付けているくせに
「やぁん、えっちね」
なんて気持ち悪い声で恥じらう振りをしていた。そして、当の本人である十夜さんはというと、顔を歪めて一言こう言った。
「……やめろ」
彼は物凄く嫌な顔をしていた。見たことのない、私には絶対にすることのない表情だった。
多分、二階から見ていた私も同じような表情をしていた。
彼も、私も、あの女を嫌がっていた。
その晩、私と十花ちゃんは緊急会議を開いた。と言っても、いつもの女子会なんだけど。題材はもちろん、あの女のこと。
十花ちゃんはレモンパイをつつきながら一言こう言った。
「あのクソババア、許さない」
その顔は今朝の十夜さんとそっくりだった。さすが兄妹だね。私は十花ちゃんがあの女のことをババアと言ったことには追求しなかった。
「ほらそこ。女の子がクソなんて言わない」
「じゃあなんて言えばいいの?」
「キモ」
「合わせて?」
「「キモババア」」
バカな話だった。でも、笑顔でいることが大切なんだよ。どんなに嫌なことがあっても、好きな人と笑えれば全部吹き飛んじゃう。
もちろん、この日もたくさん笑った。
結局、あの女には何を言ってもだめ。できる限り関わらないようにしようということで落ち着いた。
十夜さんには明日、話してみるよ。
そう言って、私たちはベッドに潜り込んだ。
抱き締めた十花ちゃんからは、今日も花のいい匂いがしていた。
まさか次の日、あの女がとんでもないことをやらかして私たちの逆鱗に触れるなんて。誰も思っていなかった。
明日は土曜日。
夜は愛しの人との逢瀬の時間。
誰も邪魔しないで。もうひとつの愛しの花以外、私たちの間に入ってこないで。
いつものように、土曜日がやってきた。
今までみたいに、朝は十夜さんに挨拶して、出勤して、一日頑張り過ぎない程度に頑張って働いて、夜はまた十夜さんと二人きりで会って時間を過ごす。
そう。いつも通りだったの。
彼と二人で、手を繋いでアパートに帰るまでは。
夜、アパートに着いて二階へ上がる。静かに、静かに、気づかれないように。それは、私たちの関係が始まった頃からの秘密だった。
別に気づかれてもいい関係だったよ。でも、なんとなく隠した方がいいと思うものあるよね。特に、気づかれたくない人がいるならなおさら。
あの時ほど隠せばよかったって思うことは、きっと一生の中でもないと思うんだ。それは彼も同じだったみたい。
私たちはあの女に気づかれたくなかった。
見られたくなかったの。
通り過ぎたあの女の部屋からは、珍しく物音ひとつ聞こえてこなかった。
二階へ上がって、私と彼は一旦部屋へ戻った。机の上に鞄を置いた時だった。入り口の扉が忙しなくノックされた。私の部屋の扉を呼び鈴じゃなくてノックするのは、十夜さんと十花ちゃんだけだった。
急いで扉を開いた時、そこに立っていたのは泣きそうな顔をした十夜さんだった。
驚く私に十夜さんは震える声で言った。
「空き巣に入られた」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます