ロバの耳は王様の耳
福田 吹太朗
ロバの耳は王様の耳
1
ある日ののどかな午後でした。
一匹の若い雄のロバが、田舎のゆるやかな坂道を、鼻歌まじりに歩いておりました。
辺りはまさに陽光に溢れ、そのロバならずとも口笛の一つでも思わず吹いてしまうような、そんな心地よい按配なのでした。
若いロバはただゆっくりと、さほど周りの風景などは気にならずといった具合に、むしろ鼻歌のメロディの音程を外さないことに気を取られていましたので、そのままゆっくりと、ゆるやかな坂道をただまっすぐに進んで行ったのでした。
その道はやがて、一個の真緑の森の中へと続いておりました。その森はまるで、木々のかたまりがグシャッとひとかたまりに集まったような、というよりも何か無理矢理にでも超自然的な力のようなもので引っつけたかのようにも見え、ロバはこの森を見るたびいつも、かつて人間の家で一度だけ味わったことのある、あのテンプラという、それも何だったでしょう、確かカキアゲとかいうやつを思い出しては、いつもよだれを垂らしそうになるのでした。
そのロバは毎日通い慣れているのでしょうか、何の気なしに平然と鼻歌まじりに森へと入って行きました。
森の中は外の世界とは対照的に暗く、ヒンヤリと静まりかえっていました。が、若いロバはそんなことはお構いなしに、足を踏み入れて行ったのでした。
と、そこへ一羽の青い小鳥が挨拶とばかりにロバの眼前を横切りました。
いつものことなのでロバは大して気にも留めず、軽く会釈しただけで通り過ぎようとしました。
小鳥は軽やかに去っていきました。と、突然ここでロバに不安がこみ上げてきました。小鳥は笑っていたのです。それも声を立てて。小鳥が笑うことなど珍しくはありませんでしたが、声を立てていたのはロバには初めてだったので、何か特別な、とても不安な気持ちにかられたのです。
しかし小鳥は風のごとくあっという間に去っていってしまったので、結局そのワケは聞けずじまいなのでした。
ロバは気をとり直して、また歩き出しましたが、いくらか不安な面持ちのロバの前を、今度は一匹のウサギが横切りました。
ウサギは森の小道の真ん中辺りで一度立ち止まり、そうして一瞬わずかな時間でしたが、ロバの方を眺め、そして大きくクスリと笑ってから慌ただしく、つむじ風のように走り去って行ってしまいました。
ロバはまたしても笑われた、一度きりなら気のせいかもしれない、しかし二度続くとなると・・・。
ロバは不安感というより、何だか気味が悪くなり、ゆっくりだった足取りが、その心臓の鼓動をそっくりそのままなぞるかのように、速まっていったのでした。
「チェッ・・・! なんてこったい! 今日はついてない、ついてないや。二度も馬鹿にされるなんて・・・!」
ロバは脇目もふらず森の中を歩きましたが、今度は目の前の頭上に飛び出した木の枝に、スルスルっと何かが姿を現わしました。
それはロバとは割と仲の良い、一匹の小さなリスでした。
リスは楽しそうに軽く笑った後、ロバに向かって何かを差し出しました。
それは一つの手鏡でした。
リスはまた嬉しそうに笑った後、
「これはね、ここに迷い込んだ人間が置き忘れていった物なんだよ? なあキミ、ロバ君てば、悪いことは言わないから、これでちょっとその顔を眺めて見てご覧なさいよ。」
リスは嬉しそうにケタケタ笑いながら、手鏡をロバの顔の前に差し出しました。
ロバはたいそう迷惑そうに、それでも嫌々ながらもその手鏡を恐る恐る覗き込んでみるのでした。
そこに映った良く見知った顔・・・しかしどこか何かが違います。よくしげしげと見てみると・・・顔の一部分だけ、両耳だけが自分のものとは違っていたのでした。
それはそう、見覚えのある形状をしていました。ロバにとっては森の動物たちよりも良く見知っていると言っても言い過ぎではない、あの、人間という輩の物に間違いありません。
ロバは驚いたというより、むしろ滑稽な気持ちになって、おかしくて吹き出しそうになったぐらいでした。
「な、ホラ、いつものキミとは違うだろう? それはいったい何なんだい? 何かのイタズラか何かかい? それとも気分転換とかいうやつかい? ところでいつもの長い立派なやつはどこへ行ってしまったんだろう?」
その点はロバにとっても不思議なことでした。
これはいったいどういうことだろうか?
なぜ自分にあの人間の耳が生えているのだろうか?
しかし考えても考えても謎は深まるばかり。ロバは立ち止まって首をかしげていましたが、リスの方はというと、いつの間にか音も立てずに消え去ってしまったのでした。
ロバはショックというよりは、あまりの驚きようでややフラフラとなりながら、同じようにクネクネと曲がっている道を歩いていきます。
と、ここでふとした疑問がロバの頭をよぎりました。
「ン? 待てよ? 僕の耳が人間のものだとすると、僕の本来の耳はいったいどこへ行ったのだろう? 青い空に飛んでいってしまったのだろうか? それとも土の中に埋まっているのだろうか?」
ロバは激しく首をプルプルさせます。
「いやいや、僕が人間の耳をつけているってことは、僕の耳をつけている人間もいるってことだ。」
ロバはかなり納得して、舌を思わず三周も回してしまいました。
「ウン、そうに違いない。」
ロバは思わず路傍にへたり込むと、実のところもう訳が分からなくて、腰から崩れ落ちたも同然なのですが、放心状態となりながらも、その茶褐色の脳ミソをフル回転させて考えてはみるのでした。
「・・・しかしこの耳じゃ不便だ。だいいちカッコがつきやしない。こんなんじゃ嫁さんももらい損なってしまうじゃないか・・・!」
ますます冷静になると、まるで賢者のように物事が見えてきたのでした。
「それに・・・それに大体僕のロバの耳をつけた人間のほうが気の毒だ。目立って仕方がないことだろう。夜道ですらおちおち歩けやしないことだろう。・・・まあ、どんな御身分の人間かは知らないが・・・」
ロバはここで、なぜだかは分からないけれども、突如責任感のようなものに駆られて立ち上がり、薄暗い森の中に目を凝らしながら、考えを巡らせるのでした。
「・・・ウン、これは、そうだ・・・。僕が何とかしないと。うんそうだ。この件は解決しないと。僕が全てを・・・ウンそうだ・・・! そうに違いない・・・!」
ロバはほんの少し鼻の穴をふくらませて、勇ましく歩き始めようとしましたが、すぐにまた立ち止まって、
「しかし・・・いったいどうしたもんだろう・・・? いったいどうやればいいのか・・・さっぱり分からないなあ・・・僕のこの頭ではやっぱり無理かなぁ・・・」
ロバは大変困った顔をして、しばらくそこに立ち尽くしていましたが、ふとそこへ、先ほどのリスが勢いよく駆けて戻ってきました。
「なあどうしたんだい? ロバ君。そんな浮かないを顔して。やっぱりその耳が気になって仕方がないんだろう?」
ロバは首を勢いよく振って、
「いやいや、そういうことじゃないんだ。・・・イヤ、それもそうに違いないんだけど・・・そうじゃなくって・・・」
リスは可笑しそうにただでさえまん丸い眼をさらに丸くしながら、
「そうかい? そういう時は・・・困った時はあの人に、この森の奥に住んでる、魔法使いのおじいさんに聞いてみたらいいんじゃないかい?」
ああなるほどとロバは勢いよく頷いて、
「ああなるほどそうか・・・! その手があったか・・・! なるほど・・・リス君はやっぱり賢いや。」
リスはまんざらでもないというふうにニヤけていましたが、ロバはというとまたあの陽気で勇ましい感じが戻ったのか、リスにまくし立てるように、
「なあリス君! その魔法使いのおじいさんていうのは、この森の奥に住んでるのかい? 本当にいるのかい?」
リスはただ嬉しそうに森の奥を指差すと、また例の素早さで木の枝を伝って勢いよく駆けて去っていってしまったのでした。
一方ロバはというと・・・やや不安な心持ちになりながらも、リスの指差した方向へと恐る恐る歩みを進めるのでした。
2
ロバは今まで一度も、この森の奥には立ち入ったことはありませんでした。なのでもちろん魔法使いには会ったこともなく、ただたまに森の動物たちから、その噂を耳にする程度でした。何でも不思議な魔術を使うらしく、他にも空を飛ぶだとか、雨を思うがままに降らすだとか、未来のことをピタリと当てたりするなどとも聞きます。
ロバはちょっと怖かったのですが、好奇心のほうがそれを上回っていたので、どんどん森の奥へと進んで行ったのでした。
やがて道は行き止まり、どうやらここが森の一番奥らしかったのですが、何しろとても薄暗かったので、ロバが目を慣らすためにはしばらく時間がかかった程なのでした。
よく目を凝らして見ると、木々の間の奥まった隙間に、古い木の板でできた、明らかに人工的に作られた小屋のようなものがありました。木と木の間にうまく挟まっていたので、一見したところ、なかなか分からなくなっているのでした。辺りはシンと静まり返っています。ただ少し遠くの方で、小鳥たちの鳴き声が、かすかに聞き取れるぐらいなのでした。
正面にドアがあったので、ロバはノックしようかどうかと思いましたが、実はちょっとまだドギマギしていて、いったいどんな恐ろしい人が出てくるんだろう? とても悪い人だったらどうしよう? もしかすると、悪い魔法で消されるとか、たとえ運が良かったとしても、ネズミのように小さくされてしまったらどうしよう? ・・・などと、ロバの悩みは尽きないのでした。
しかし、このロバも男の子です。いつまでも女々しく尻込みをしていると、女の子ロバに嫌われてしまうに違いありません。彼はありったけの勇気を振り絞って、ドアに近付き、2、3回、ノックしました。・・・何の反応もありません。今度は立て続けに数回コンコンコンと連打しました。
オヤ? もしかして誰もいないのかな? ロバはてっきり留守かもしれないとも思ったのですが、一応、ドアに耳をつけて、中の様子を伺うと・・確かに誰かがいる気配がします。ほんのちょっと、音がしているようなのですが、なにぶん人間の耳なので、いつもの大きい自分の耳とは違って、あきれるほどに聞きづらいのでした。
すると、何だかもどかしい感じで立っていると、いきなり目の前のドアが、ギィ~・・・とかすかに軋んだ音を立てて、ゆっくりと開いたのでした。
中には一人の背の高い老人がいて、ロバには背を向けたまま、手招きをするのでした。ロバはこれは歓迎の印だな、少なくとも客人とは認めてくれたようなので、恐る恐るではありますが、なるべく静かにゆっくりと、自分は大人しい動物であることをアピールしつつ、小屋の中に入って行ったのでした。
その小屋の中は割とこじんまりとしていたのですが、意外とキレイに片付けられていて、ロバは魔法使いの住みかと聞いて、どんなおどろおどろしい所かと恐ろしい想像ばかりしていたのですが、思っていた以上に清潔で、むしろ自分のひづめのほうが汚れているのではないかと、心配したほどなのでした。
その老人、つまりは魔法使いは、背が高く、とてもガタイのいい体つきをしていて、背筋はほんのわずかばかり曲がってはいるようでしたが、ほとんどシャンとしていました。とてもゆったりとした、緑色のローブのようなものをまとい、家の中でしたが、ブーツを履いていました。そしてその顔はというと・・・魔法使いはなかなかロバの方を向いてはくれなかったのですが、恐る恐る覗いてみると・・・確かにその顔はシワで刻まれた老人の顔で、真っ白いヒゲを顔の下半分に大量に生やしておりました。目はとても細く、最初どこにあるかさえ分かりずらかったのですが、それは確かにあって、しかも異様なほどの鋭い光のようなものを放っているかのようでした。
老人、つまり魔法使いはやっとロバの方へと向き直って、そしてそばにある木のロッキングチェアのようなものにゆっくりと腰掛けました。
「・・・さて、ロバくん。君はこの屋敷にやって来た、数少ないお客様というわけだね。・・・丁重にもてなさないとね。」
老人はややしわがれた声で、しかしながらしっかりとした口調で、そう言うのでした。
ロバはどうしていいのかわからず、若干まごまごとしていましたが、意を決して、
「突然お邪魔して申し訳ありません。実は・・・」
「分かっておるとも。皆まで言うな。」
老人は確かに歳のいった老人には違いないのですが、その仕草の一つ一つは威厳のようなもので包まれておりました。そして・・・
「まあ、喉が渇いたろう。お茶でも飲むかね? それともただの水のほうがいいかな?」
そう言ってまた、ゆっくりと立ち上がると、ちょっとだけ小屋の奥に行くと、今度は皿のようなものを持ってきて、戻ってきました。
「さ、飲みなさい。わし特製の成分が入ったお茶だが、変な物じゃないから。・・・喉が渇いてるんだろう?」
ロバは確かに喉がカラカラでしたので、床に置かれたその皿に入った液体を、いぶかしげながらも、老人の言葉を信頼したというよりは、喉の渇きに負けて一気にペロペロと飲み干したのでした。
それはえらく苦かったので、ロバは一瞬顔をしかめたのですが、意外にもそれはすぐにすっきりとした味となって、喉にスゥーッと入っていくので、飲み干してみると案外爽やかな味なのでした。
「どうかね? 最初は苦いかも知れんが、意外といけるだろう? 茸とか、山草とか・・・いろいろな成分が入っていて、疲れを回復させるには何より一番だぞ?」
ロバさっきまでの警戒心も少しだけ取れて、喉の渇きも無くなり、スッキリとした気分になったのでした。
「・・・さてと。わしは君を一目見た時に、どうしてここへ来たかが分かった。そしてそれと同時に・・・」
老人はここで一つ二つ咳払いをしました。
ロバにはふとこの時、なぜだか老人があまり体調が良くないのでは?と感じてしまったのでした。もちろんただの勘ですし、ロバは自分でも分かってはいましたが、それほど頭が切れるという訳でもありません。それに今は魔法使いが次に何を言うかで、そちらに気を取られていたので、そんなことは些細な出来事だったのです。
「・・・ところで、実はこのわしは君が思っているような人間ではない。・・・この意味が分かるかな?」
ロバはちょっと怪訝そうな顔で、少し首を傾けていました。
「・・・残念な思いをさせてしまって悪いがな、 実はこのわしは君が思っているような魔法使いではない。」
ロバは一瞬何のことか分からず、ポカンとしておりました。老人は構わず続けて、
「・・・実はこのわしは、君らが思っているような魔法使いではないんだよ。・・・いや、せっかく来て頂いたのに、のっけから残念な思いをさせてしまって、申し訳ないが。」
ロバはますます何のことだか分からなくなり、一層口を開けてポカンとしておりました。
「・・・そもそもこの世界に、魔法使いなどというものが存在するのだろうか? ・・・少なくともこのわしはその存在を知らん。」
ロバはやっとのことで事態が飲み込めてきて、
「それではおじいさんは、いったい誰なのですか?」
老人は少しだけニヤけて、しかしすぐに真顔に戻って、
「・・・わしはまあ・・・この世の中を捨てたのだよ。少なくとも、人間界とは手を切った。あの、複雑怪奇な、ややこしい厄介物とは。例え一瞬でも油断をすると、たちの悪い蜘蛛の巣のように、絡め取られてしまうのだよ。あの代物には。そのような厄介な世界とはおさらばしたのさ。」
ロバは人間ではなかったので、何となくしか老人に言われたことは分からなかったのですが、でも少しばかり思い当たるフシはありました。確かに人間という生き物は、ロバやその他の動物に対してでさえ、いきなり怒ったり、不満を言ったり、中には石を投げたり、唾を吐きかけたり、傷つけようとしてくる者さえいます。ロバはこの老人の言葉を何とか理解しようと努めました。
「まあさしづめ、世間一般で言われているところの、いわゆる世捨て人というやつだな。一言で言うと。身を隠し、姿をやつして、この薄暗い森の奥でこうしてかろうじて息をしているのだよ。」
ロバは世捨て人の意味がイマイチ分からなかったのか、何も言葉を返せませんでしたが、老人は構わず続けます。
「・・・しかし君がここに来た理由は知っている。何も言わなくても君のその顔を見れば一目瞭然だよ。」
老人はここでやっとやや黄ばんだ歯を見せて笑いました。しかし又すぐに真面目な表情に戻り、
「・・・だが。一番の問題は、このわしにしてやれる事があるかどうかだな。」
老人はここで自分のお茶を一口すすりました。そして、
「・・・だがわしには時おり不思議な力があってね。・・・もうすぐ何かが始まって、全てが丸く収まるような気がする。」
ロバはキョトンとしつつも、きっとこれは自分のことをいいように言っているに違いない、そう考えて少し嬉しい気分になりました。
老人はそんなロバに向かって、
「・・・さあもう行きなさい。ここにいる理由はない。君はまだ若いだろうし、やる事もいっぱいあるだろう。さあ。」
ロバは少々戸惑いながらも、老人にうながされるままに開いた入り口のドアから、再び森の中へと戻ることとなりました。
と、そこで突然、老人が、
「あ、そうじゃ。これを持っていくといい。何かの役に立ちそうな気がする。」
そう言ってちょっと小屋の奥に行ったかと思うと、何かの小瓶を取り出してきました。
中には深緑色した、ペースト状のものが入っていました。それをさらに小さな革袋に入れて、
「これはとある葉っぱをすり潰して作った・・・まあ、塗り薬みたいなものだよ。」
と、ロープでロバの首に巻きつけました。
「何かあったらまた来なさい。遠慮なく何でも聞くがいい。・・・まあ、うまく答えられるかどうかは分からんけどね。」
老人はそう言って、ニヤリとまた黄ばんだ歯を見せました。
ロバは何だかよく状況が分からぬまま、再び薄暗い森の中へと、戻って行ったのでした。
老人は小屋の戸口に立って、いつまでも手を振っていました。
ロバは時折後ろを振り返りつつ、しかし確実に老人の姿は小さくなっていきました。
それでも老人はいつまでもロバのことを見送っていたのでした。
3
ロバは再び薄暗い森の中をトボトボと歩きながら、途方に暮れていたのでした。
ほんのわずかな瞬間に、木々の間から陽の光が矢のような光線となって、葉っぱの一枚一枚をキラキラと映し出していたのでした。
15分ほどウロウロと歩いたでしょうか? 遠くの方から森の小道をつたって、一頭の馬、そして一人の奇妙な人間が馬に揺られてゆっくりとこちらに向かってきました。
その人間は、黄色いキチッとした制服のようなものを着て、しかしそれが恐ろしいほどにキチッとしすぎて、肩のところは真横に広がり、全体的に真四角で、まるでトランプのカードを着ているような格好に見えてしまうのでした。
そして妙に胸を反り返しながら、手綱を握り、ずっと澄ましたように前方を見つめていました。そして段々とロバの方に近付いてきます。一方馬の方はというと、ロバから見てもとても良い毛並みをしていて、ツヤがあって、たてがみはフサフサとしていました。そしてその歩みも、ロバなどとは桁違いに、気品があったのです。
さらによく見ると、その馬を操る男には立派な口ひげがあって、先っぽがピン、と立っていました。とても威厳のあるようないでたちでしたが、どこか滑稽な、奇妙な風にも見えてしまうのでした。
ロバはこのまま真っ直ぐ行くとこの馬と人間にぶつかってしまうので、どうしたものかと戸惑っていました。そうして結局、その場に立ち止まってしまったのでした。
段々と人間たちは近付いてきたのですが、数メートル手前で馬を突然止め、人間は馬から降りて、何かの書類のようなものを手にしたまま、スタスタとロバの方に近付いてきました。
ロバはつい数十分前に、老人から人間の怖さを聞いたばかりでしたので、ますます恐ろしくなって、膝がわずかばかりか震えて、その場にただ立っていることしか出来ませんでした。
その男はびっくりするほどの小男で、目の高さがロバのそれとさほど変わりません。ロバはこのような大人の人間を今まで見たことはありませんでした。
男は素早く歩いてきたかと思うと、ロバの前までたどり着くと突然、片膝をついてうやうやしく帽子を取って、丁寧に一つ頭を下げました。
ロバは人間にこのような事をされたのは初めてだったので、却って戸惑って、目を真ん丸としながら、その場に固まってしまいました。
男は、手にしていた紙を広げると、その一文を読み上げ始めました。
「・・・わたくしは王の命により、王宮からやって来た、従者のムゾ・ド・ポーという者です。・・・わたくしは神に誓いまして、この命を全うする所存であり、その為、このパッパルデッレ地方におけるシュペートレーゼの森におきまして・・・」
実はそのあとも長々と口上は続いたのですが、ロバにはそのような小難しい人間の言葉は分からず、ただ口をわずかに開けながら、黙って聞く他ないのでした。
「・・・と、いう訳です。」
男、改め従者は、書類をクルクルと器用に巻きながら、かしずいたまま、ロバに向かって肝心の要件を、ロバにも良く分かるように、話し始めました。
ロバは少なくとも、この人間は自分を捕まえて食ってしまうレベルの人間でないことだけは理解したので、とりあえず大人しそうに聞いていることにしました。
「・・・ええつまり・・・」
ここで従者はやや声の音量を下げて、
「・・・すでにもうお気付きのこととは思いますが、つまりその・・・その耳のことです。・・・変でしょう? ・・・何かが違うはずです、いつもとは。」
ロバはやっと何となく事情が飲み込めてきました。従者は続けます。
「・・・えー・・・誠に言い出しづらいことではあるのですが・・・その耳は我が国王の耳でありまして・・・なぜそれが分かったかといいますと・・・」
ロバはここで初めて、ははぁんと軽く頷きました。
「・・・今から数日前のことなのですが、我が国王の耳が突然ロバのものになっておりまして・・・ほんのわずかな知恵者たちと秘密裏に協議を重ねた結果、ここにロバの耳があるならば、王の耳はどこぞやのロバに付いているということでほぼ間違いないとの結論に至り・・・」
ロバはようやく事情が分かりかけてきました。
「・・・そこで世界でも指折りの占い師の老婆に占ってもらったところ・・・」
従者はオホンと一つ咳払いをして、
「・・・この森にいる一頭のロバに、国王陛下のお耳が付いているのが見える、そう言ったのであります。」
なぜだかは分からないのですが、ロバは何だか少しドキドキしてきました。
従者はというと、やや感極まったような表情になり、
「・・・でもまさか、こんなにも早く見付けられるとは・・国王陛下万歳・・・!!」
そして持ってきた荷物の中から、一個の木の小箱を取り出しました。
「これがその・・・つまり・・・あなたのモノということになります。」
そう言って中から取り出した布の包みを開くと、確かにそこには良く見慣れたロバの耳が一組、姿を現わしたのでした。
ロバは思わず、目を見張りました。
「・・・これが王様の顔に付いていたものであります。・・・どのように取り外したかは・・詳しい事は申せませんが・・まあ、それはいいじゃありませんか。・・・それより、その、あなたの頭に付いているものを・・・」
ロバはあらぬことを想像し、思わず一瞬後ろに二、三歩下がりました。
「・・・いやいや、手荒な事は決して致しません。神に誓って申し上げます。」
従者はまた荷物の中から、何かを取り出そうとしました。
「・・・ですからこれを・・・アレ?・・・確かにここに・・・」
何を探しているのかはわかりませんが、なかなか見つかりません。
「・・・シュールストレミングの葉というものがですね・・・確かにここに・・・あるはずじゃ・・・」
従者は汗をかきながら懸命に探していましたが、どうやら出てこない様子でした。
「・・・ええと・・・あれがないと・・・緑色の葉っぱをすり潰した、軟膏なのですがね・・・」
ロバは思わずハッとなって、自分の体の横にぶら下がっている、小袋を体をよじって従者の鼻の前に突き出しました。
「・・・ン? これはどこで嗅いだような・・ちょっとよろしいですか?」
と言って、ロバの体にくくりつけてある、皮袋の中から小瓶を取り出しました。
「・・・あ! まさしくこれは・・・!」
そして蓋を開けると、辺り一帯に物凄い形容し難い臭気が立ち込めました。
従者は顔を歪めながらも、
「・・・これこそまさに・・・わたくしの探し求めていた・・・それにしても・・・」
従者は一回えずいて、オエッという声を出した後、
「・・・これを少々いただいてもよろしいですか?・・・いやありがたい。」
ロバにしてもこのような臭いを嗅いだのは、生まれて初めてでした。グビヒッ!という今まで出したことのないような奇妙な声を思わず発してしまい、さらには顔はどこかの有名な画家が描いたような、グニャリというような風になってしまったのです。
従者はロバの顔に付いている、王様の耳に手を伸ばし、
「・・・ちょっと失礼しますよ?・・・気持ち悪いかもしれませんが少し我慢してくださいね。」
と、そのペースト状の恐ろしいほどの臭気物を両耳の付け根に塗りたくりました。
ロバは一瞬のけ反りましたが、これも仕方のない事だと腹をくくり、必死に堪えたのでした。
4
どれぐらいの時間が経った事でしょう。ロバがふと気が付くと、辺り一面には霧が立ち込め、ただ小鳥のさえずりだけが聴こえます。
ロバはいつの間にやら、立ったままウトウトとしてしまっていたようです。従者の方はというと・・・これは完全に馬にもたれかかって座り、眠りこけていました。一羽の鳥が頭上でさえずり、そして従者の額に糞を落としてから、どこかへ飛び立って行きました。
従者はようやく目を覚まし、そしてハッとなって、慌てて懐中時計を見ました。
「・・・ああもうこんなに経ってしまったのですね。では・・・」
と言いつつロバの、いやロバに付いている王様の耳に手を伸ばしました。ロバは思わず数歩後ろに下がりました。
「・・・あ。心配しないでください。大丈夫ですよ。王様もこの方法で・・・」
と言い終わらぬうちに素早く両方の耳をつかんで、思いっきり引っ張りました。
ロバにはほんのわずかな衝撃があったものの、ポンッ!とコルク栓の弾けるような音がして、なんと王様の耳はロバの顔から、キレイに外れてしまったのでした。
「全く問題ないですよ。これで正しいのです。ではお次は・・・」
と、言いつつ、王様の二つの耳を丁寧にハンカチに包んで小箱の中に入れ、今度はロバの長い耳を取り出し、それから耳の付いていたであろう位置を慎重に手探りで探して、
「・・・またこれを塗ります。またしても物凄い事になりはしますが・・・昔から言うじゃありませんか、良薬、口とか耳に苦しとか何とか・・・」
と、言うが早いか、また例の臭い物質をロバの頭の辺りに塗りたくりました。またとてつもない臭気が辺りに広がります。
ロバはまたも顔をしかめ、思わずブルッと一つ身震いをしました。何だかとてもむず痒く、しかもものすごく臭いのです。
従者は耳を所定の位置に取り付けると、ちょっとだけ後ろに下がってウーンと唸り、微妙に位置をずらしながら、そうしてようやく納得いったのか、手鏡をロバの眼前に取り出しました。
「いかがでしょうか? こんな感じでしたでしょうか?」
ロバはまあこんな感じに違いないと納得して頷くと、今度は従者は包帯を取り出して、グルグルと手際良く耳ごと頭に巻き付けました。
「これで万事オッケーです。四、五日もしたらあなた様の本当の耳は、綺麗に元の場所に、うまいこと張り付いていることでしょう。」
ロバは何だか訳の分からないままでしたが、何となくひと段落ついた気がして、気分は落ち着きを取り戻していました。
従者は満足気な表情で、もう一度王様の耳がちゃんと小箱の中にあるか確認をし、納得してとても嬉しそうな表情を浮かべました。そして、
「・・・これは蛇足ですけれどもね・・・実はこれから隣国とドンパチやる予定でしてね・・・戦争ですよ、戦争。人間の世界にはつきもののやつです。・・・それで・・・」
ロバは相変わらずキョトンとしていましたが、従者は素早く馬に跨りました。
「・・・どうしても勝たなくちゃならんのですが、それには王様自ら戦場に立ってもらわねばならず、それがロバの耳を生やしていたとなると、士気に関わることでして・・・あ、決してロバの耳をバカにしているわけじゃないんですけどね。」
従者は素早く手綱をさばいて、馬を元来た方向へ回転させて、
「・・・あ、これはオフレコですからね。・・・あくまでも。世間話というやつで。・・・いやあ普段は無口なわたくしも、なぜだか饒舌になってしまいましたな。ま、動物に言っても分かりはしないかな。」
ロバには確かに、戦争や政治の話など、分かるはずもありませんでした。
「・・・ではごきげんよう! ご縁がありましたらまた是非・・・まあないだろうけど。・・・大変失礼いたしました。・・・さようなら!」
従者と馬は、来た時とはまったく対照的に、物凄いスピードで駆け出して行きました。
一方ロバはというと・・・それをポカンとしながら眺めつつ、しかし何だか先ほどまで胸につかえていたものが取れたような気がして、少し気分が楽になったのでした。ただ、耳の付け根の辺りが妙にむず痒いのだけが新しい悩みの種だったのですが・・・。
5
あのようなことがあってから、一週間ほど経った時のことです。
ロバはまた日課のように薄暗い森の小道を歩いておりました。
もうすっかりロバの頭の上には二つの長い耳が元のように伸びており、力を入れれば動かすこともできました。ロバはもう何もかも元通りになったので、とても満足した気分でした。
よく耳をすますと、遠くの方でラッパの音や、ドーンという鈍い低い音、大勢の人間の声などが聞こえてきました。ロバは何となく納得して、あれが戦争というやつだな、と一つ賢くなった気分なのでした。
今日はある目的がありました。またあの魔法使い、いや世捨て人、ロバにとってはどっちでもいいことなのですが、に会いに行こうかと考えていたのでした。軟膏のお礼を言わなくちゃいけないし、何より、初めて出来た人間の友達なのでした。
ロバは陽気に鼻歌なんか歌ったりしていました。そんな気分だったのです。いつものように青い小鳥が笑いながらロバの頭上を翔け抜けて行きました。しかしロバはそんな姿など全く目に入らず、ゆっくりと、あくまでも同じペースで歩こうと気を払っていたのでした。
太陽のまぶしい光が木々の間からもれ、葉っぱたちはやさしく揺れていました。
ロバは一定のリズムで歩いて行きました。何だか気のせいでしょうか? 今度は妙に鼻がむず痒くなったりしていたのでした。
終わり
ロバの耳は王様の耳 福田 吹太朗 @fukutarro
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