第■話

 長い緩やかな階段を、ジュールと彼女は登っている。

 これは夢だと早々にジュールはすぐに気づく。無限に伸びる階段なんていうものはあまりに非現実的で、だから仮想世界でしかあり得ない。

 もちろん、元になる記憶はあるはずだ。ジュールにはゼロから何かを『想像』することができない。それは旧生殖様式によって発生したチアやカナとの決定的な相違だ。知識、記憶、潜在意識、それらが統合された産物として、ジュールはこの空間をイメージしている。はじめてのはずなのに妙に落ち着くのは、そのせいだろう。

 二三段先んじて進む彼女はまっすぐ前を向いたままで、どんな顔だかジュールには分からない。ひょっとすると彼女sheなのかheなのかについても検討すべきかもしれない。けれど、何となく、彼女だろうとジュールは認識する。それくらいは分かる。覚えている。

「覚えてるんですか?」

 彼女が言った。

 そうだ、覚えている。

 彼女が何者なのかは分からない。けれど、それゆえに、彼女があなただということだけは分かるのだ。

 歩調を緩めたジュールに、あなたもまた速度を落とす。振り返らずとも背後の気配を察知して、影のように相手に合わせる。そのように訓練されているのだと思う。思ったのだ、以前。

 この空間は虚構でも、このやり取りは過去の事実だ。あなたと出会い、会話したこと、ジュールの無意識はそれを再現している。

 ジュールは改めてあなたを観察する。美しい少女だと思う。顔を見なくとも、まっすぐに伸びた背すじが、優雅に進む足どりが、滑らかな発音が、他人を十分に魅了する。あなたの背中に翼がなくあなたの頭上に光輪のないことが不自然に思えるほどに。

 天使、というものをジュールは見たことがないけれど、知識としては知っている。それもまた、統一言語においては切り捨てられた概念のひとつだけれど、そんな古臭い言葉を引っ張り出してこなければ、この感銘は形容できそうにない。

「天使だなんて、そんな神聖なものじゃない、と言いたいところですけれど……」あなたは苦笑する。「謙遜するほうが自意識過剰ですね。きみにとっては、天使もクジラも、似たような意味しか持たないのでしょう。ここにはいない存在、現実ではない存在。それらを全部ひとくくりにしてしまう野蛮さで、この世界は成立しているんですから」

 あなたのその台詞を聞くのは二度目で、そこに含まれる諦観をジュールは今度こそ感じとる。はじめて聞いたときには分からなかった。ジュールの違和感はそこからはじまったのだ。

 『相手の言っていることが理解できない』なんて、ジュールの世界ではありえないはずだったから。

 かつて世界には言語が溢れていた。人々は言葉の洪水の中で、手探りでもがきながら意思疎通をするしかなかった。それは悲劇だ。痛ましいほどに非効率的で、醜悪だった。

 だから、言葉の世界が干上がったことは自然であり僥倖だった。と、少なくとも世界ではそのように定義されている。

 氾濫のあとの泥濘から断片を拾い上げ、つぎはぎ、撚りあわせて生まれた一つの言語。それは人類が一丸となったことの象徴だ。そのおかげで、すべての人は完璧に理解しあえるようになった。

 本当に?

 本当に。

 世界は祝福されている。

 平和は約束されている。

 安全は保障されている。

 幸福は培養されている。

 生活は整備されている。

 白い光で照らされた未来は明快で簡潔だ。余計なものは一切ない。思いわずらうことなく楽しく、そして正しく生きることができる。

「だけど――だからこそ。きみは私を忘れます」

 あなたは言った。

「私はこの舞台から退場します。ただ姿を消すんじゃない、真実の意味でこの世界の外に出ます。そうして、わたしの脱出が成功したとき、きみはわたしを認識できなくなる」

 かつての彼女がそう言った。さよならは無かった。天使のような彼女には、きっと別れの概念もないのだろう。

 あるいは、さよならを言わないから、別れを知らないのだろうか。

 言葉が先か、思考が先か。

 過去の再現でしかないこの夢で、ジュールに新たな質問は許されない。

 確かなのは、この後にあなたがどうなるかということ。

 あなたの身体が傾く前に、ジュールは手を伸ばした。それでもすべてを受け止めることはできなかった。あなたの身体のほとんどは、足元の奈落へと吸い込まれていった。その穴を見下ろして初めて、ジュールはこの階段が巨大な螺旋を描いていること。

 ジュールの両手に残されたのはあなたの身体のほんの一部で、それでもずっしりと重い。

 ああ、この重さは――本物だ。

 自分は確かに、これを手にしたことがある。

 あなたの首を。

 亡霊の首を。

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