第4話 シグナルとシグナレスによせて
ナユタとあなたとの出逢いは、とくにそれほどの大事件というものではなかった。
といっても、当時を知る人はナユタの母だけである。その頃の記憶は流石に完璧とはいかず、聞いた話が記憶を作り上げているところがおおいにある、であろう。時に、ナユタ3歳。喋り始め、動きもかなり活発になり、自律的になる頃、ナユタの母親もとうとうひとりではナユタを御しきれなくなった。御すということばに語弊はあるのかもしれないが、母親はこどもをそのくらいの感覚で扱ってよいと、ナユタは思っている。父親の遺したものと、政府から支給される手当、そういったもので生活はとくに困窮してはいなかったが、盲目の我が子と二人きりの生活で、さらにナユタが活発なたちであるとなると、母親もひとりでは危機や心許なさを感じる場面も多くなっていただろう。政府が実験的に始めていたその制度の、最初期のモニターに選ばれたことは幸福だった。と、ナユタは信じている。
始めのあなたは、十二歳ほどの外見年齢をしていた。それなりにしっかりしていて、それなりに覚束無くて、それでもナユタのシッターとしての役割は十全にこなした。母親はナユタを出産する以前の職に就くことができたし、ナユタは自由に「徘徊」できるようになった。つねにあなたがナユタの手を引いていたが、基本的には聡明なナユタの行き先に、あなたがノーを言わなければならない場面はなかった。
この頃、実は毎年あなたは新しくなっていたようだ。人工生命といえども、当然人間として成長するのだが、政府は、ナユタの自我が安定するまでは、いにしえの文献にあるアンドロイドのように、外見が変わらないほうがよいと考えた(内面はある程度コントロールできるらしい)。その内に、ナユタが小学校に通う年齢になった。盲人のこどもが集められた学校であったが、あなたはこの時から今のあなたである。六歳の体からは、つねにナユタと成長をともにしてきた。盲人ではないあなたは、それでも他のこども達に交じって学び、遊び、一人の人間のこどもとして振る舞うことを求められた。その内心はどうだったろうか。ナユタには実際の部分はわからないのだが、おそらく「今の」あなたと、脳の発達度合いはあまり変わらなかったのではないかと思える。それは当時六歳のこども達に囲まれて違和感のないものであったし、現在十七歳の学友達に囲まれてもなんら問題のないものであった。あなたは素直で、明るくて、運動がとくいで、恋にはあまり興味がなく、食べ物の好き嫌いをしない。
小学校より前、とてもナユタがちいさく、まだその存在がおぼつかない頃は、手を繋ぐこと、髪を撫でること、たまにやさしく抱きしめられることなど、母親がナユタにしたようなコミュニケーションの仕方が多かった。あとは、その頃のナユタはとにかく三秒と間をおかず喋り続けていたので、それに対して「うん」「そうなの?」「知らなかったな」「へえ」と平凡な相槌を打ちつつ、ナユタから問いが発されると、別の大陸に存在する大型の肉食獣の群れでの関係性や死に際しての仲間の行動だったり、冬にすずめが体を膨らますことは、旧文明の人たちも好んだ光景であったことなども、あなたはすらすらと教えてくれるのであった。この時ナユタが爆速で話し続けていた内容もおそらくあなたにとっては既知であったろうが、知識と意識の領域は別なようで、新鮮に驚いたり感心するふりではなく、十二歳の少女は、「お嬢様、よく思いつくね、そんなこと!」とこころから新鮮に驚いたり感心したりしていた。ナユタの言葉を通して知った知識は、あなたの元のバンクに貯蔵されている知識を上書き保存していくらしかった。ナユタが一度確定的に話してしまった事項については、「その事なら、前にお嬢様はこう言っていたよ」と、ナユタ製の知識しか発してくれなくなった。そのことに気づいた時には、すでにナユタも多くの知識はあなた以外から得る方法をこころえていた。
盲人と、他にはあなたしか生徒が存在しなかった小学校を卒業すると、さまざまな健常者あるいは障害者がみなでひとつの学びを形成する場、狭域の公立中学校に進学した。そこではナユタは白杖を所持して移動していたが、数ヶ月もするとそれはいらなくなった。小学校に続き、ここでもあなたはナユタとは単なるクラスメイトの関係を維持し、学校では「ナユタさん」と呼ばせる事にしていた。クラスメイトとしての必要以上の接触や会話は学校内では行わないこと、あなたもできる限り「自分の時間」を作り、とくに授業にはよく励むこと、などをナユタは要望し、政府もあなたもそれを受け入れた。今更人間と人間の付き合いができるのだろうか、とははなはだ疑問だったが、六歳からはあなたの記憶は地続きである。(もちろんそれ以前の記憶もきちんといまのあなたのバンクに内蔵されているのだが。)あなたは明るく素直な性格で、もともと盲目のナユタの生活補助のためという名目で派遣された人工生命だったが、あなた自身、もはやその記憶も薄れ、政府から給金をもらってナユタの家に仕える使用人のような立場だと、すっかり自覚が出来上がっていたようだった。よって、高等学校に進学して、今度はクラスが分かれて、ナユタが白杖を基本的には必要としなくなっても、その登下校はかならずあなたが途中までは同行していたし、また学内では「友人ではない」という距離感で落ち着いていた。単純に、ナユタの性格や性質と、あなたのそれがだいぶん離れたところにあり、クラスも違えば接点がないのだった。
そのうちに、と濁すこともないのだが、高等学校入学直後であったか、ナユタがこの街の最強と言われる女を肘と脚の二発の撃ち込みで倒してしまうと、喧嘩の申し込みも増えた。そういう時はいつも一応裏であなたは待機していて、何があっても対応できるように、との備えはしていた。喧嘩で死ぬ事も当然ある。それは申し込みを受けた時点で誰もが了承していることだ。ただし、喧嘩の終了後にまれに起こる多人数による私刑などは犯罪であった。非力なあなたが備えてもとくにそれが防げるわけでもないのだが、警察への連絡は迅速に行えるし、逃走経路の確保だけは、昔からあなたは得意だった。初めての場所でも、なぜか土地勘がある。バンクが関係しているのかもしれなかった。
ナユタが乗車していると、「
「お嬢様!」
「はいはい」
「今日も御学業、お疲れ様でした」
「【あなた】も、ご苦労様」
元気に、はなやかさを振りまきながら列車にあらわれたあなたは、ナユタの隣にふわりと腰掛ける。それから二人は会話をするでもなく、またしないでもなく、ゆらゆら、ごとごとと、終点の二つ前にある「獄門」の駅まで短かな帰路を過ごす。何時もの穏やかな時間だった。ふたりで同じ楽曲を聴きながら話をしたい時、というのもこの頃はいつもそうで、あるフィメールボーカルの音楽をイヤフォンで片方ずつ分け合っている。ナユタは指に微弱な振動が伝わることで簡単に通話したり、メッセージの送受信ができる端末を所持している。ほとんどは音声入力と読み上げ機能に頼っているのだが、楽曲を楽しんでいる間だったり、列車のなかだったりする場合は、端末の文字情報を確認できないため、この時間はあなたがナユタの端末をチェックしていることが多い。
あなたがナユタから端末を受け取ると、すぐさま不満の声が上がる。ああっ、お嬢様! せっかく私とのトークルームの壁紙、この間の猫の親子の写真にしておいたのに! なんで初期設定に戻しちゃうんですか! かしましく、落胆している。あなたはいつも楽しそうで、落胆さえも喜色を持っているものだからすごい、と感心してしまう。
「いや、余計な情報が入ると面倒くさい。俺の端末なんだから。よくそう懲りないわね」
「あっ、でもフォルダには残してある、よかった〜」
一人勝手になにやら安堵しているあなたをさておいて、読書の続きでもしようかと、耳の奥に流れ込む音の奔流を追いながら、点字本の携帯型に製本したものを鞄から取り出そうとした。
「ああ!?」
あなたが殊更に、ここが列車であることも忘れているかのような(というか絶対に忘れている)大声を出した。車両に数人いた乗客の視線が自分達に集まっているのが判る。
「……」
気配だけで怒りを伝えると、小声で即座に、も、申し訳ありません……、と返ってくる。
「お嬢様……!どうしよう!」
ささやきのように声を潜めて、大きな興奮を伝えてくるのがいかにも躍動する生物らしくて好きなところだった。
「なに」
「ち、チケット……!取れました……アリーナ……」
「え」
成程、と冷静に先程の大声を反芻している暇はナユタにもなかった。
「本当に……?」
「は、はい……。座席番号は、発券してみないとわかりませんが……、当選、だって……」
「凄いね。すごい」
発券期間になったらその日に発券しましょう! とあなたは潑剌だ。ナユタもあまり感情表現ゆたかなほうではないが、自分がほほえんでいると思った。今まさにふたりで分け合っているこのボーカリストの歌声に、最初に魅了されたのはナユタだったが、あなたもすぐに気に入った。彼女が音楽シーンに最初に出てきたのは、小さなライブハウスでの初めての単独ライブでの記事だった。ナユタは聴覚に頼る面が大きいこともあってか、単に生得的な相性の問題なのか、音楽系の記事にはくまなく目を通し、日々新しい音楽を、インディー系の配信サイトも、大手レコード会社がひしめく有名配信サイトや動画サイトも、くまなく探索していた。そのなかで、彼女のデビューは、ナユタの知る限りこれ以上なく鮮烈だった。
デビューが、小さな箱とはいえ単独のライブであったことから、その時点ですでになんらかのレコード会社のプロデュースが噛んでいることは窺えたが、その歌唱力、パフォーマンス、縦横無尽にジャンルを走りきる、曲ごとに魅せる姿の変わることといったら、玉虫色のごとくだった。これはすぐに世界に見つかってしまうな、とナユタは思ったが、それから数ヶ月もしないで、もう「アリーナ」での公演が決まっていた。「アリーナ」は純粋な闘技に使われる場所でもあったが、なぜか音楽の場所として音響器具が運び込まれ、大規模なライブが行われる場所としても有名で、この大陸においては、最大の箱である。
彼女は体型からしても顔つきからしても、とても大陸の民族とはおもえず、かすかに齎される情報からすると、どうやら海を隔てた大陸の、さらに北側の血が濃いとのことだった。ステージではいっさい表情はない。精巧な人形のようなその容貌は、しかし歌う時にだけ、獣のような気を発する。記事からの連想だが、ナユタはこの感触はおそらく当たっていると思っている。それを確かめるためにも、勿論、ファンとしても、彼女のステージを同じ空間で体感してみたかった。今回の「アリーナ」公演は三回目となる。毎度あなたと、どうせ当たりはしないだろうけれど、と二人のアドレスから申込をしては、落選の通知を受信していた。街頭の大型パネルでは、連日彼女の曲が流れる、彼女の曲を使用したコマーシャルが流れる、彼女の曲を主題歌にしているニュースが流れる、とにかく大陸みなが熱狂しているようなありさまだった。音楽に興味のないものでも、その名は知っている、というくらいだ。
名を、ファラドキシという。
「楽しみね」
ファラドキシの二枚目のアルバムの五曲目「レイディー・ブルー」のすこしくだり坂の音程を聴きながら、ナユタは思わずつぶやく。
「はい!」
あなたは張り切って返事をして、「獄門」の駅で二人は連れ立って列車を降りた。帰りに買っていく食材の確認をしながら、駅前の商店街を歩く。夕陽のよく差し込む、まちの東西をつらぬく通りだった。ここで、ここを、何度も、あなたに最初は手を引かれ、いまでは肩をならべ、ナユタは何事かをあなたと話しながら歩いている。明日もきっとそうだろう。しかしいつか、それが終わるだろうことも、考える時間は、増えてきた。せいぜい噛みしめなければいけないのだろうが、日常を惜しめと言われたところで、その感覚は難しいものだとナユタは思う。今日も、お互いの課題の進捗を、主にあなたの数学課程における課題結果のはかばかしくなさをだらだらと論じながら、馴染の小さなスーパーマーケットへ向かってゆく。
メリーゴーラウンドと呼ばれる廃山へ登る。日曜日。ナユタの知る限りでは、旧時代には「登山」というレジャーがあったようだが、この時代、それは失われている。山々は根本的に大きな噴火活動の痕をまざまざと見せつけ、茶色に、また灰色に鎮座するだけの存在で、遺物、遺居がときおりぼつぼつと垣間見える。ふつうは立ち入り禁止の区域となっている。
列車を三路線、計二時間とすこし乗り継ぎ、「玻璃」の駅から歩き、古道の入口からが長かった。山に入るまでに一時間はかかっている。
「お、お嬢様あ〜、いったん休憩しましょうよう……」
「ええ……? まだ登ってもいないよ。なんで体力のある【あなた】のほうがいつも先にそういうこと言い出すのかしら……」
「だって疲れた……飽きました……」
「早い」
ナユタは切って捨てると、白杖をかつ、と礫岩の道に当てながら、かまわず前へ進む。
「ほんとにあるんですかあ?」
「あるわよ。市役所で立入許可を取った時に、中腹になんらかの遺構があるとまではっきり聞いたじゃない。まあ、いやならここで待って貰っていてもいいけれど」
「い、行きます行きます!」
あなたの慌てた苦笑いがはっきりと目に浮かぶようだった(もっとも苦笑いという表情それ自体も、ナユタの想像上のものだが)。
今日のナユタのお目当て、もとい、その実在がほぼ確実と思われ、現物を手にすることが可能との見当をつけた点字本があるのは、メリーゴーラウンドの中腹にある「ライブラリ」の廃墟内、とのことだった。「ライブラリ」というのは、旧時代の紙媒体の情報が書籍という綴じられた形で多数収蔵され、そこから市民に各情報が貸し出されていたという、倉庫のような場所だ。これもナユタが独自に結論づけたことであり、実態と乖離している可能性も高い。ともかくネットワーク上から掻き集めた音声情報から判断するならばそうだった。そうして、その書籍、さらにそのなかでも点字本というものは、完全な姿で残っているものは僅かである。ナユタがふだん携帯しているものは、解析した点字(それはナユタの解析と実用化の特許により、この時代でもやや普及し始めている)によって、遺物のなかでも「物語」と呼ばれるフィクションの文章を共通言語の点字に換えて、専門の業者に頼んで制作したものだ。盲人たちの間で、思ったより需要があり、ナユタは一冊つくるごとに需要を聞いて周り、受注生産のようなことをしている。
旧時代の点字本は、大陸語で書かれている。「キュウシュウ」だけでなく、「ニホン」という広域で使われていたという限定的な共通語だ。旧時代の書籍においては、共通言語のものよりも、この地域では圧倒的に大陸語で書かれたもののほうが多く、情報も豊富だ。その解読にかなり労を要するが、完璧ではないにしても、ある程度までは情報を回復することができる。こんなことをしているのはナユタは自分のほかには知らない。このような途方もないことにさいている労力も公的資金も、この時代にありはしない。また個人で、この分野に興味を示すものというのも、ネットワーク上で探した限りでは見当たらなかった。そういうわけで、このような天気の良い日曜日は、ナユタはあなたと二人で、「ハイキング」に出かけ、数少ない旧時代の点字本を捜し求める「トレジャーハンター」となる。
足下の土や岩の感触は、舗装された公道よりもかなり厳しい。盲人にもかかわらず、ナユタは幼少期からどこへでもあなたと歩いて出かけているたちだったので、結果として健脚である。メリーゴーラウンドの、中腹とはいえ、それは人が踏み入れる範囲の中でのことであり、頂上と麓の真ん中という意味ではない。かなり麓に近い地域だ。それでも市街地育ちの女子高生二人には、なかなかはてしない道のりのように思える。あなたが先行して、障害物のない道を歩き、その気配を正確にたどって、ナユタがすぐ後ろを行く。
「方向、合ってます? 北北西、ええと、黄色の旗、四」
「合ってる、問題ないよ」
市役所で貸し出された計器を確認して、あなたが不安そうに読み上げる。方向も距離も合っている。予定では黄色の旗、六まで行けば「ライブラリ」は左手に見えてくる筈だ。このあたりの溶岩の下には、旧時代の民家がさぞかし多く埋まっていることだろう。
いつかだれかが暮らした屋根の上の岩を踏み締めてすすむ。
「どんなお話なんですか」
ふいにあなたが声をかけてくる。顔だけこちらを振り向いているようだ。
ナユタが点字本を捜し求め、その入手を企てる、つまり実際にからだを動かしてこのような「ハイキング」をおこなうほどの点字本というのは、ナユタがそれに相応の価値を見出しているものだ。この世の、というか、大陸の点字本は、その全てが所有者の手を離れ、放置されている。多くは今回のような「ライブラリ」の所蔵であるが、個人のものでももはやその言語を解するものがいないために、廃された家屋にうずもれていたり、旧時代の盲人用のなんらかの施設で、同様に捨て置かれている(たいてい旧時代の遺構というのは放置されているので、そのなかのどのような遺物も誰かが所有権を主張したりはしない)。
「今回は、恋愛の話よ」
「えっ」
あなたが、声を三重にしたような、濁った音でわざわざ驚く。
「あら。文句があるのかしら」
「い、いえ。ただ珍しいなと思って……」
「そうかな。どんな物語だって、たいていは恋愛の話だわ」
ざり、ざり、と礫や岩を踏み締める音がたんたんと響く。
「でも、動物の話だとか、童話が多いような……、ほら、前回も狐と男の話でしたし!」
「そうね。献身と罪の話。でもあれも恋愛に近いものがあったと捉えることができるわよ。一途な想い。かたおもい。そして悲劇の死」
「えええ? そうですか……?」
ナユタはなかばからかうつもりで言ったが、口に出してみると、それらしい響きになったような気もした。
「じゃあ、今回のはどんな恋愛なんですか?」
ナユタは今回目当ての点字本の概要を思い浮かべる。大陸語で書かれた物語はたいていその内容は失われていて、しかし口伝えでどのような内容なのかの断片のみ残っていることがある。その全容を実際の点字本から共通言語に翻訳することが、ナユタの愉しみだった。もっとも、点字本の「点字」が「読む」にたえうる形状を保っていればだが(一度など、凹凸は消えていたがその跡は残っていたために、あなたに、記載された全ての点字の形状を伝えてもらい、それをナユタが大陸語で解読し、その後に共通言語に訳したこともあった)。
「今回のは、身分違いの恋の話」
「へえ。身分……ですか」
旧時代の階級社会の頃のものなのか、それとももっと比喩的なものなのか、とあなたは考えているようだ。たいてい間の取り方で、相手の思考がどのあたりを彷徨っているかの見当は付く。
「比喩のほう。物語としてはね。でも、書かれたのは階級社会のしきたりが色濃い時代だったんだと思うわ」
「ふうん? 二人はどんな身分なんですか?」
「そうね……」
ナユタは概要から得た情報をどの程度噛み砕いて伝えるべきか悩む。それが突飛な設定なのか、それとも旧時代では普遍的な比喩だったのか、ナユタにはわからない。
「信号機と信号機よ」
「しんごう……? 道路のあれですか?」
「そう、あ。黄色の旗の五じゃない? このあたり」
「あ! はい! そうです」
あなたは慌ててからだを前に向けてコンパスを確認したらしく、声が少し遠くなる。
「まあ、それで、信号機。列車の、線路に立っている信号機の話みたい。ひとつは立派な本線の信号機で、ひとつは、昔からあるケイビン鉄道という、小さな線路の信号機。立派なほうが男の信号機で、古いほうが女の信号機、ということらしいわね」
「へえ。そういうことなら、なんとなくわかりました」
でも、と続けて少し間を置いたあなたが、空をみあげて首をかしげている気配。
「喋るんですかね? 信号機が?」
「さあ。そこまではわからない」
あ。つぎに漏らしたあなたの声にナユタは少し微笑む。きっとこう言うだろうという台詞が思い浮かぶ。
「喋れなくても恋はできるよ」
「あっ! 私がそれ言おうと思ったのに!」
あなたが少し怒りながら、振り返って言う。その声は多分に楽しげでもあったけれども。
(見えなくても、恋はできます。なんでもできます。お嬢様に、できないことがある筈ないでしょう?)
もう十年よりもっと前、癇癪を起こして泣き暮れていた昼間の商店街で、あなたは困ったように、しかしなぜか確信をもった声で、ナユタにそう何度も言ったのだ。
ざり、ざり、とまた足音の二人分だけを聴きながら歩いていると、じきにあなたが、「お嬢様」と少し硬めの声で呼ぶ。
「うん」
「見えました、『ケンリツトショカンアソサンロクブンカン』。キュウシュウに残る『ライブラリ』の五つのうちのひとつ」
「よし、行こう」
エントランスから入り込んだ溶岩は、最初の広い空間(ロビーのようなものだろう)の途中までで止まっていた。このあたりがちょうど最後のマグマに溶かされた終着点だったのだろう。
点字本はたいていの場合、「ライブラリ」の蔵書を貸し出す手続きをするためのカウンターの近くか、それと同じフロアにある子供のための本を集めた一角(場合によっては小さき人のための読書用の空間も設けてある)またはその近くにあったりする。今回は後者だった。というのも、ナユタの求める
点字本が、恋愛のはなしといえ、童話に分類されるものであったのだ。著名な作家で、ほかの有名な(と思われる)童話の点字本も、ナユタは一冊所持している。他にその作家が書いたという童話の概要を見ても、恋愛の関係する話は少なかった。当然ナユタは心引かれた。あなたが大陸語を解していれば、広大に広がる、字が読めるものための書籍を実際に読み上げてもらうのだが、残念ながらそれはできなかった。勿論あなたが大陸語を習得することはできる、とナユタは考えていたのだが、できなかった。どうしてもできなかった。何をどうやっても、表音文字の習得さえ、その記憶ができないのである。ただ、それはナユタにとってそこまでの落胆にはならなかった。もともと、あなたは、ナユタの人生において、「与えられたもの」であり、本来ならそこに何もありはしなかったのである。こうして道楽に同行してくれるだけでも、かなりの、文字通りのギフトであった。
子供のための本の、とくに大判が収められている場所を見つけたあなたが、ナユタを誘導する。それらの背表紙をなぞりながら壁際の突き当たりまで近づいたところで、ナユタの指先に「見知った」文字があらわれる。あなたによると、それらは見た目はほかの子供のための本と変わらず、書籍いっぱいに絵が広がっている。ナユタが取り出したものの表紙にえがかれているのは、夜霧のなかに電燈がふたつ、奥には列車のねむる倉庫、たくさんの電線と電信柱、ということだった。それならば、目当ての品だろう。まず間違いない。なぞったタイトルも、ネットワークで知ったものと殆ど同じ物だった。
読書用のひらけたスペースに移動して、並んで腰をおろす。
ナユタが指で読んでいく傍で、どのような絵がページに広がっているのかをあなたが解説する。ナユタがくすくすと笑ったりするが、あなたはその内容をまだわからない。ナユタも翻訳はできても、大体の意味が取れるだけで、その場での読み上げのようなことには、まだ到底自信はなかった。一応辞書も持ってきているけれど、まずは全文を「読ん」で、あなたに絵や本の見た目(このページは端が折れている、だとか、落書きがある、だとか)を教えられている時が、まず何よりも楽しいのだった。
「ねえ、二人は結ばれたんですか?」
ナユタが一通りの文字を触り終わり、また表紙に戻ってきたときに、あなたが待ちきれないとばかりに訊いてくる。
「さあ。結ばれるところまでは行かなかった」
「えっ、途中で終わりですか?」
「途中、ということもないと思うよ。二人は……、そうだね、とても幸せな時間を過ごした。でも、結ばれる、というところまでは描かれていなかった。それはまだ誰にもわからないことなのじゃないかしら」
「はあ。なるほど」
あなたは納得できたのか、ふむふむ、と何度も頷いているようだ。
「身分が超えられたのか、どうかが気になっていたんですけど」
「そうだね。どうなるんだろう、でも悪くない終わり方だった。応援してくれる味方もいたし」
「えっ、信号機を応援する人ですか?」
ナユタはまた一からゆっくりとページを繰りながら、もう一度最初の一文をなぞり始める。最初は歌から始まるのだ、この話は。
「人じゃない。彼らを応援するのは、倉庫だよ」
「そうこ……? はあ……」
童話なので、なかなかこちらの理解も追いつかないが、信号機のカップルは、身分違いの恋をたしかに倉庫に応援されていた。そして、かれらの恋を反対するのは、男の信号機に仕えているらしい、電信柱だった。
電信柱は、必死に、男の信号機に、あんな程度の低い信号機、つまりその女はふさわしくない、というようなことを説いていた。最後は倉庫が二人に幸せな夢を見せ、朝が来てしまい終わるが、二人の未来は明るいように思えた。
ナユタは、ほのぼのとした読み応えの童話を何度か反芻しているうち、たびたび歌をうたう、一本気で、主君に盲目な電信柱のところばかり、指で読んでいた。電信柱のカップルは、想いが通じ合っている。しかし男の信号機は、この御付きの電信柱の言うことは結局最後まで聞かずじまいだ。カップルが結ばれるとして、そうしたらこちらの主従の関係はどうなるのだろうか。電信柱も、最後には信号機たちの恋に納得するのだろうか。二人を祝福するのだろうか。
ぼうっと、この電信柱と信号機こそが、真の身分違いなのではないだろうか、と考える。
「お嬢様?」
「あ、うん」
「見つかったなら、そろそろ下山いたしましょう」
「そうだね」
少し時間が経ってしまっていた。あなたに促され、持ってきたパッケージに大切に点字本を収納し、エントランスへ戻り、黄色の旗、六からまた、溶岩礫の道を南南東へくだってゆく。
「なにか気になるところがあったんですか?」
「え?」
あなたが、前を向いたまま尋ねてくる。
「さっきの本ですよ。なんだか難しいお顔をされてるから」
「……ううん。二人がうまくいくといいなと。それだけだよ」
「そうですか。じゃ、少し疲れました?」
「そうかもね」
「私は疲れました!」
「はいはい」
ナユタは笑いながら、あなたの足跡をできるだけ辿るようにして溶岩を踏み締めていく。電信柱は、いつかは、そう、祝福するだろう。信号機が選んだ相手ならば。まさか電信柱は、信号機の相手となることさえできないのだし、かれにいいお嫁さんを、と一心に願うそれだけが、役目で、幸福なのだ。女の信号機がいなかったら。そうしたら、あの男の信号機と、電信柱の未来はどうなるのだろう。他に、適当な女の信号機もいなかったら。そうしたら、かれらはかれらだけで、生きていくのだろうか。
あなたは、政府がナユタの家庭に「支給」したベビーシッター、のちにナユタの介助人、また家庭のことをこなすハウスキーパーともなった。その年限は、通常障害者の十八歳の誕生日まで、特別年限で高等学校卒業時まで、となっている。
「ハイキング」、あと何回できるだろうか。数えようとして、ナユタはいつも、うまく数えられない。あなたが大陸語を習得できないのも、こういう感覚かもしれないと思う。
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