第5話“But if it be I, as I do hope it be, I have a little dog at home, and she'll know me”

 下校時刻をすぎた教室で出会った彼女は、今思えばおばけだった、と、女子生徒はそのように回想する。

 妙なことに、彼女に対峙していたとき、生徒の中に恐怖の感情は一切なかった。よく知っている同級生の一人だと思い込んでいた。まあ、おばけというのはきっとそういうものなのだろう。

 話しかけたのは生徒の方からだった。何してるの、一人なんて珍しいね。と。それがその時の相手に対する、もっとも自然な声かけのつもりだった。

 だけど、今にして思えば、友達のはずがない。だって生徒は、相手の名前も声も。どんな人間だったかも知らないのだから。

 それに、台詞の意味も我ながらよく分からない。

 一人なんて珍しいね。

 少なくともそのときの生徒は、彼女は誰かと一緒にいるものだ、と認識していたことになる。

 どうして、そう思ったのだろう。

 思考は滅裂で、ノイズがかかったようだ。古い動画めいた思い出の中で、覚えているのは彼女が少しだけ困った風に笑ったこと。

 ――私はもう行かなくてはならないんです。

 彼女は言った。

 ――だから、あとのことはよろしくお願いします。どうか、あのひとがさびしくないように。

 何のことを言っているのか。誰のことを言っているのか。彼女はいったい誰なのか。なにひとつ、生徒には分からない。

 だから彼女とはおばけだったのだ。と、生徒は結論づける。おばけ、幻想、ここにはいないもの。だとすれば、その遭遇にも意味はない。

 虚構の存在そのものに意味がないのだから、それが告げた言葉にも意味はない。

 そのように自分を納得させて、追究することを止めてしまう。

 それは仕方がないことだった。彼女は彼女で、それ以上でも以下でも無い。彼女を正しく示す言葉はひとつしかなく、生徒はそれを知らなかった。

 言葉がなければ、理解も思考もできない。

 だから生徒は首を振って、残念そうにこう告げた。

「あなたが何を言っているのかわからない」

 そうして、世界はあなたを拒絶していく。



 面接室を出て、廊下に立つ。脛から下がじんわりと暖かく、窓から陽光のさす角度をナユタは知る。二時間は経っている、と判断したところで、正解を裏付けるように昼のチャイムが鳴った。空腹にもなろうというものだ。腕を軽く回して、息を吐く。一般生徒への試験代わりにナユタへ課される口頭試問は、いつもは事前に日程を知らされるものだけれど、今日はまったく突発だった。心当たりはある。三日前、ナユタがGPS端末を破棄したうえで『教育に不適切な』エリアに入ったことを、学校側は当然把握している。それでいてなお直接的な指導を行わないのが不気味なところだ。表向きも実際も、あくまで簡単な情調確認テストと学力試験。ナユタは粛々と解答し、無事に解放された。

 能力に問題が無いのなら多少のおふざけは大目に見る、そんな教育方針は、手のひらの上で踊らされているようで癪にさわるけれど、今回ばかりはありがたく便乗するべきだ。もしもことの子細を追及されたとして、ナユタは説明に窮しただろうから。あの野蛮で頓智気な女子二人組、チアとジュールが何を目的に自分と接触したのか、ナユタは未だに分からない。理解する必要もない、と考えている。どうせもう関わることはない。あんな狂騒が幾度もあってたまるものか。これ以上は考えるだけ無駄なこと、むしろさっさと忘れるべきなのだ。気を抜けばよみがえってくる音の混沌も、脂と汗と血と香水のないまぜになった繁華な空気も、降り抜いた拳に感じた肉の感触も!

 ……すべて、考える必要のないことだ。

 再確認したところで、「それで」とナユタは言う。「あんたはまさか、ずっとそこで待ってたわけじゃないでしょうね? アリキちゃん」

 柱の傍に立った同級生のことを、もちろんナユタは察知している。寧ろ話しかけられたアリキのほうが戸惑って息を呑んだ。「え、いや、その」布の軋む音とその位置から、相手が胸の前で弁当包みを抱きしめたことまでナユタにはきちんとわかる。

 すうはあとわざとらしい深呼吸をして、気を取り直したアリキはナユタに指を突きつけた。

「かっ、勘違いしないでよね。私だってやりたくてやってるわけじゃないんだからね。スバラ様の言いつけで仕方なくナユタさんをお昼に誘ってあげるんだからね」

「あっそう、それじゃあ丁重にお断りします。ごきげんよう」ナユタは言って、顔をそむける。杖も伸ばさずに歩きだすナユタに、「待って冗談だってごめんなさい」とアリキはたちまち態度をひるがえす。

「追いていかないでくださいお願いしますナユタ様」ナユタの前に回り込み、平身低頭して頼み込む。キャラ変の激しい娘だった。

 ナユタは歩調をゆるめず進んでいく。学校内の構造はほとんど知り尽くしているし、一人でも移動に苦労はないのだ。返事をしないのを、けれどアリキは了承と受け取ったらしい。数歩後ろを歩きながら、いやあ良かった良かった助かった、と一人で胸をなでおろしている。

「ナユタさんを迎えに行くっていう名分で授業を抜けたのに、置いていかれたら面目が立たないもん。それに最近は変な噂があるでしょ。ここに来るまで一人で歩くのも、ちょっと怖かったんだよね」

「噂って、ひょっとしてあんた信じてるわけ、あれを」

 無邪気なアリキの語り口に、思わず反応してしまった。校内の情報については玉石を問わずに収集しているナユタだけれど、アリキが言わんとしているのはもっともくだらない部類のそれだ。寄せては返す波のように、定期的に流布しては忘れられる怪談話。

「『数年前に失踪したはずの女子生徒が、全く同じ姿で学校に現れる。彼女は気づかぬうちに生徒に紛れ込んで生活しているが、あとから思い出そうとしても、誰も彼女のことを知らない』――」噂の概要をそらんじたアリキは、拳を握りしめて力説する。

「信じてるどころか、アリキは本当に見たんだって! 先週、部活の忘れ物を取りに行ったとき、確かにそういう女の子に会ったの! この学校の生徒だったはずなのに、どこのクラスを探してもいないんだよ」

「ただ単にあんたの記憶力が怪しいだけじゃないの。下級生じゃあるまいし、ばかばかしい」

「はは、真面目な優等生らしいご意見だこと」

 肩をすくめたアリキの台詞に嫌味の色は薄かったけれど、「そんなのじゃない」とナユタは律儀に否定する。たった今、生活指導がわりにプレッシャー満載の試問を受けてきたばかりだ。「これでも留年しそうになったことだってあるし」

 自分で言ってからはじめて、そうだったことをナユタは思い出す。確かに、そういう出来事があった。七歳の教育課程で必須の水族館見学を欠席していたせいだ。水の傍へと立つことを、ナユタは意図的に、かわして、避けて、逃げていた。サボタージュ、というやつ。

 へえ、と意外そうなアリキの声がやけに遠くに聞こえる。構わずナユタは自分の記憶を探る。忘れていた、というか、完全に意識の外に置いていた。

 どうしてそんなことができただろう。

 これはあなたとの思い出なのに。

 水の世界が、ナユタは苦手だった。液体を通した感覚では、微細な気配が読めないから。水槽ごしなんてなおさらだ。だいたい『見学』なんて嫌味な学習形態を自分に課すのは配慮に欠けているんじゃないか。ぐちぐちと文句を並べ立ててふてくされるナユタを、なだめすかして手を引いて、連れ出したのがあなただった。

 思い返せば、それがふたりっきりの初めての外出だ。後には『ハイキング』にまで発展する冒険の前身。列車を乗り継ぐだけの行程さえ、幼いふたりには大事業で、半日かけて目的地に辿りついた。ひんやりとした建物の床は、心なしか湿気でべたついていた。片手は繋いで、片手はアクリル板にぴったりとつけて、あなたは展示されている生き物をひとつずつ、彼女なりの言葉でナユタに伝えた。あなたが語る水の世界は、おかしなことに、空に似ていた。鱒は自由な虹で、鰯は銀色の渦で、鮫は鋭い鰭の流星で、鯱は賢い獣で、鯨はすべてを飲み込む夜だった。

 彼女の言葉のみで構築されたまぼろしの水族館は、『見えている』人たちのそれ以上に美しかった。水槽の中に焦がれたのは、その日が最初で最後だった。

 大切な思い出のはずなのに、どうしてか失いかけていた。そして何より奇妙なのは、ナユタがその状況に違和感を抱かなかったことだ。

 あの日から、自分の隣を歩くのはあなたのはずだったのに。今のように、義理で付き合っているような同級生ではないはずだったのに。

「……ん」

 教室棟に入った直後、ナユタの思索は打ち切られる。昼休みの学生たちがかしましいのはいつものことだけれど、今日は一段と興奮の色が強い。騒ぎの方向を気にするナユタに、「そういえば伝え忘れてた」とアリキが声を上げる

「ナユタさんが呼び出されてる間に編入生が来たんだよ」

「編入」耳慣れない言葉だった。もちろん、言葉の意味は分かる。だけれど「この高校に?」いぶかしげな声が漏れる。自発的もしくは強制的に脱落する生徒はいれど、新たに加入する生徒ははじめてだ。

 人だかりに耳を澄ます。絡み合った声の塊を紐解いて、ナユタはその中心を探りあてる。 朗らかに応答する声にコロンが混じる。

 言葉少なな返事にガソリンのにおいがたつ。

「たしかに珍しいよねえ、しかも同時に二人もなんて」のんきなアリキのコメントをよそに、ナユタはこめかみがひきつるのを感じる。

 嫌な予感がした。

「ナユタさんも挨拶してく?」

「いや、いい。というか用事を思い出したから今日は早退するわ俺。今すぐ」

 片手を挙げて踵(ルビ:きびす)を返す。そのまま荷物も回収せずに立ち去ろうとしたところで、ナユタの目論見は崩れさる。

「あーっナユタちゃん! ひさしぶり、ていうか三日ぶり。ねえねえ知ってるあたしたち同じクラスだって、超ラッキーじゃんこれからよろしくーっ。ほらジュールも挨拶してっ自己紹介してっ趣味と血液型と星座と動物占いと好きなバーチャル配信者おしえたげて!」

「知らん」

 お気楽なマシンガントークとそれに水を差すのを厭わない不愛想な返答。金輪際関わるまいと胸に誓った、あのいまいましい凸凹コンビ。

 白杖を握る手を震わせていたナユタは、ふっと肩から力を抜いて顎を上げた。閉ざされた両目は無機質な天井を突き抜けて、その向こうの空を視る。肺の中に新しい空気を満たす。地を踏みしめる。青く広がる空に向かって、ナユタは渾身の叫びを放った。

「帰れ―――――――っ!」



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