第2話 孤独の粒子

「だからっさ、そんなようなことで、最近なやんでるの〜」

 うたうように喋るその子は、スツールのシルバーの足置きに、まだ届かない小さなローファーをクロスさせて、ナユタの右隣でいちごシェイクを啜っている。

 今後、このまま「上がって」来たなら、あきらかにナユタの脅威となるであろう存在だったが、その頃にはもうナユタ自体、なにをしているかはわからない。土と血にまみれる野蛮を遠ざかっている可能性もある。また、彼女が力を得た分だけ、ナユタもまたあらたな力を得ていることもありうる。ただ待っているだけの歳月などはない。そんな彼女の、眼前の問題というのは、いままさにの切迫を持っているようだった。

 痛みを感じないという。それはおそろしいことだ、とナユタは思った。なんとはなしに自分の白杖に触れたくなる。白杖それ自体はナユタの支えでもよりどころでもない、つまり頼りたいような存在でもなく武器でもないのだが、痛み、その語の媒介としてはたらくような場面はある気がした。

「ふうん。それなら、俺だったら今すぐにでも教えると思うけど。むしろ、今まであなたが護るだけ護って、まるで籠の鳥みたいに扱ってきたことの方がなんとなく気持ちが悪い」

「もお。ナユタはあ〜、はっきり言うじゃんね。いろいろあるの! そもそもお姉ちゃんにはあまり時間がないんだよ」

 やっぱり歌のようだなあと思った。

「何。余命が短いということ?」

「ううん。単純に、忙しい人なの。お姉ちゃんにはいま命すべて使ってやることがあって、喧嘩をしている暇がないの。だから私が、えーと、しゅみとじつえき? を兼ねて、代わりにやっていたんだけど」

「いい加減、ひとりだちさせるべきかと?」

「うーん、そういうことかなあ。自分のこと、自分で守れないと、やっぱりおかしいでしょ、人と人の関係としてさ。まるごと一部分を相手に預けてしまうのって、お姉ちゃんの何かをきっと奪ってしまう」

 ガラスの外の交差点を見下ろしながら、ミソラは、幼いつくりの目鼻に、すきとおった成熟を乗せて言う。

「不思議ね。そういうことを考えるのって、どちらかというと姉の役割のような気がするけど。あなたのお姉さん、白痴なの?」

「だからあ! ナユタ、本っ当に人間としてどうかと思うよお? まあ、お姉ちゃんはたしかに、頭でものを考えるのは得意なほうじゃないと思う。でも、私よりは賢い人だよ」

 ナユタはアイスティーの容器が汗をかいてふやけてきたことがそろそろ気になっている。残りはすこしの液体と、大量の氷だ。

「それで、痛覚がないことが、最後の関門になっているわけね、あなたの中で」

「うん。そう」

「確かに、痛みを感じられなければ、自分の残り時間を推し量る事、自分の終わりを見極める事は難しいわね。でも、それは、それだけのことじゃないかしら」

 ナユタは真っ直ぐに下ろした自分の脚と、ゆらゆらと揺れているミソラの脚との細さや長さの違いを思う。ただ空気の動きや微細な音、彼女の性格や性質から判断して、彼女の像をえがいている。それが本当に、ミソラの現実とぴったり重なるのかどうかは、ナユタには永遠にわからない。しかし、その現実を事実として仮定し、そのうえで行動して、とくに不自由を感じたことがない。であれば、ミソラの姉においても、他の器官で感じたことから彼女の「現実」を構築することは、それほど難しいことだとはナユタには思えなかった。

「あなた、私の目が見えない事を忘れているの?」

「えっ? ええ……、そう言われれば、べつに、忘れてはいないけど、知ってるけど、見える人とそんなに違うと感じたことは、ないかなあ」

「私が最後に負けたのはいつ?」

「ええっ! 知らないよお、そんなの。負けたことあるの?」

「簡単な欠落やハンディキャップの話に還元したい訳ではないけど、私には私という現実があるから、あなたのお姉さんもそうするんじゃないかと思っただけ」

「はあ〜。そっかあ。そうだよねえ。ナユタ、見えないけど、関係なさそうだもんねえ」

「まあ、強さとは、生き残るとは、総合的なことだから」

「そうごうてきなこと」

 そうよ、と言いながら、ミソラの、二つにくくられた髪の左の一房をすくう。するん、と、まだ子供の髪の手ざわりだった。

「あー、もう行かなきゃ。ナユタ、ありがとう。考えてみる」

「あなたのお姉さんがどうなろうとどうでもいいけれど、あなたより強くなったりしたら面白いわね」

 スツールを降りて二人でダストボックスへ向かいながら、ミソラが少しだけ、静寂の間合いを取った。

「あのね、強くなるよ。私よりも」

「そう?」

 白杖を左手に抱えながら、アイスティーの蓋をプラスチックごみの側に、中身を「飲み残し」に流して、紙の容器を左のペーパーごみの側に押し込む。ナユタのあとにミソラも同じようにしている。

「強くなるかもしれない。ナユタよりも」

「……そう」

 今日のおしゃべりは、実はあまり能天気なものでもなかったのだな、と、ここでやっとナユタにはわかった。周りの人間のなにごとにもそこまで興味が向かないほうなので、その情報を得ても、とくに心は動かなかった。

「じゃあまたねっ」

 言うとミソラは交差点を渡って行った。

 おじょうさまー! と、入れ替わりであなたの声が現れる。右手5時の方向。別のカフェで待機していたのだろう。今日も御苦労な事だと思った。


 球技大会という催し。地域により呼び名はちがうのだろうが、これがじつは旧時代からのならわしであると写本で知ってからは、ナユタのこの行事における陰鬱さはいくらか払拭された。旧時代にふれることは、それだけでナユタの心を躍らせる。その「伝統的な」いとなみの中に自分も連なっているのだとたしかに感じることができるのであれば、退屈なだけの「球技大会」も悪くはない。もっとも、ナユタにとって「悪い」ものなどそれ程にはない。球技大会だってただ持て余す時間が通常授業より長いだけで、図書室で読みものをしていたって構わない。ただ、ナユタは調和をあいするというその自らのもともとの性質のために、周囲に「孤独」の粒子をまいてしまうような行動は避けたいと感じる。そうすると、自分はまったく参加する権利のない試合で、所属するクラスのチームを「応援する」という行為(実際には体育館の壁沿いの床に座って黙って歓声やシューズが床をこする音を聞いているだけだが)に従事することになる。

 わあ! とひときわ大きな歓声が、コートの右からも左からも聞こえる。誰かがシュートを決めたようだ。いや、誰かという言い方は適当ではない。わかりきっている、スリーポイントシュートを今し方決めたのは、まぎれもなくあなただ。

「すっごいね! 【あなた】さん、また決めた〜」

「運動部じゃないよね? 普段なにしてるんだろ」

「うちのバスケ、結構強いと思うんだけど、スカウトとかされなかったのかな」

「でもバスケ以外も、なんでもできるっぽくない?」

「そういえば去年もテニスで準優勝してた!」

「え、テニス部抜いたの?」

「そうなんじゃん? なんでもできそうだよね、運動」

「もうさ、学外のどっかのチームに所属してるとか?」

「普段そんなに目立つほうじゃないけど、こういう時すごいかっこいいよね。付き合い悪いほうじゃないのに、あんまり【あなた】さんのこと知らないな〜」

「たしかに、授業のあとすぐ帰っちゃうらしいし。Ⅲ組の子に聞けばわかるのかなあ」

 ナユタの隣では、クラスの(ナユタの在籍する2年Ⅱ組の面々だ)女子たちがあなたの話題に花を咲かせている。

「ナユタさんは何か聞いたことある?」

 突然に、声がこちらに向けられた。無邪気でクリアな音声だった。

「いや、俺もなにも知らないな。彼女がとても活躍しているというのは、さっきから試合の雰囲気でわかるよ」

「だよね! すっごいよね!」

「ゲームが、彼女を中心に廻っているという感じ」

「そうそう! やっぱナユタさんにも分かるかあ」

「うん。俺にすら分かるよ」

 ナユタはすこしそこで笑んだ。コミュニケーションは苦手なほうではない。

「ナユタも帰宅部だけど、【あなた】さんのこと、帰り道で見たりする?」

 別の女子の声がさらにひとつ隣から飛んでくる。

「あっ、いや見えないか、ごめん」

「いえ、気にしないで」

 ナユタが盲人であるということは、時々このような仕方で「思い出さ」れる。学内ではいちいち白杖さえ持ち歩いていないので、クラスメイト達もその障害については忘れがちだ。

「見えなくても、同じ学校の人間は気配でわかる時もある。でも、彼女を『見かけた』と感じたことはまだ無いかな」

「わかるのかあ! すごいね」

「同じ学校で二年も過ごしていれば、自然とね」

「すっごいな、やっぱり最強の人間はそういうとこが違うのかも」

 二人になんとなく褒めそやされる。

「喧嘩はまた別だよ。あれは本当に目が見えるとか見えないとか関係ないと思う」

「そういうもんなのか……」

 ややハスキーなほうの声が感心のためいきを漏らしたところで、ちょうど試合終了の長いブザーが鳴った。あなたの所属するⅢ組の勝利を、審判が宣言する。

 今日はこの試合までで終了で、残りはあすの二日目に引き継がれる。試合が終わればおのおの放課してよいという決まりになっていた。みんな、おのれのクラスメイト達をねぎらいつつ、どこかあなたの活躍を早く話題にしたいというふうで、それは健闘してくれたクラスメイト達もわかっているようだ。歯が立たないよ、とさわやかな笑み声が耳に届く。

「じゃ、ナユタ、私達部活行くね! また明日」

「じゃね〜」

 声をかけられたので「また明日」と返して教室へ向かい、シューズを履き替えてから下駄箱へ向かった。いっさい運動には関わらない自分も、それなりに体育館用のシューズを使い込んでいるということが、なんだか不思議だった。ナユタはおおむね秩序をあいし、またそれに従うこともごくありきたりの感覚でもってこなしていた。

 あなたは、あんなに運動、とりわけ球技においてはかなり高い順応を見せるのにも関わらず、喧嘩はからきしである。ではなにが得意なのかというと、今日のように、ナユタの得意では無いこと全般が得意だ。そのように造られている。

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