第1話 Friday, 3:40 P.M.

 この世界からあなたがいなくなった初めの日について語ろう。

 より正確に表現するならば、あなたが完璧にいなくなるのはまだ先のことで、その日から私たちはあなたを失い続けることになるのだけれど、もしこの一連の喪失における決定的な日を定めるならば、きっとこの日になるだろうから。

 空港にあなたは姿を現さなかった。そのことが明確になって、代わりに駆り出されたのがチアだった。霧雨を抜けて、モノレールを乗り継ぐあいだ甲高く鳴っていた靴底を、自動ドアのマットになすりつけたら足音はもうしなかった。髪もスカートもじきに軽くなって、それで完璧に雑踏に溶け込んだ。空港出口へ向かう流れには、チア以外の何人かも逆行していているから不自然にはならない。数メートルおきに目に入る逆方向の矢印を心の中でへし折りながら、チアは進んだ。

 到着ロビーは閑散としている。前の便が着いてからそう時間もたっていないけれど、共同体圏内の移動なら手続きも簡素でたちまち人がはける。悠長にとどまっているのは気の早い次便の迎えか、送迎を待つ利用者のどちらかだ。チアの探し人は後者だった。

 貰った情報にぴったり一致する女の子は、並んだ椅子の真ん中に堂々と座っていた。長い三つ編みが、椅子の座面より下まで伸びて、その先に主張の激しいリボンが結んである。旧時代の模倣感を隠せない制服。肩に斜めにかけたままの鞄。それから横に立てかけられた白杖。膝の上に開いた本に指を這わせている。

 一見真っ白なだけのページに細かい凹凸があると気づいたとき、その彼女の指が止まった。

「本が珍しいの?」わずかに顔を上げて彼女は言った。「それとも人間が?」

 自分を覗き込んでいる存在を確信している。先手を取られてひるんだチアは、けれど気を取り直して「はじめまして、ナユタちゃん」と挨拶した。

「私はチア。お迎えの代理を頼まれたの。ゲンナイさんが用事で来られなくなったって。私の友達が車で来てるから、代わりに学校まで送るよ」

 ナユタは首の角度を少し変えた。声の方向で正確な居場所を判断したのだろう。まっすぐにチアに向けられた相貌は無表情で、そのまぶたは閉じられたままだ。

「それじゃ、おねがい」

 ナユタは本を閉じて白杖を片手に立ち上がる。付添いの作法をまったく聞いていない、とチアは今更ながら気づく。まあいいか、と、空いているほうの手を握った。ナユタは一瞬何かを言いかけて、結局おとなしく従う。

 道中の空想で破壊してきた矢印は、振り向けば何食わぬ様子で光り続けている。チアも今度は涼しい顔で従って、エレベーターを降りた。

 電光の看板と、手にした端末のメッセージを見比べつつ、自家用車の停車場所を探す。焦らずに見渡せば目的の文字列はすんなり発見できる。多言語案内が必要だった時代なんてとっくの昔で、今やこの国で使われているのは、機関によって定められたただ一種類のアルファベットだ。かつては猥雑だったという公共のデザインも、チアが生まれたころにはすっかり洗練されていた。電子掲示板、電子メッセージ、電子音声。羊水よりも長く電子electronicの接頭語の海に浸かった新世代。

 それなのに、見えてきた乗り物の無骨さときたら。チアはうっかり端末を取り落としそうになる。チアは車種に詳しくないが、たとえ生半な新車の知識があったところで意味はないだろう。電気自動車やハイブリッドの疑似駆動音とは比べ物にならない、腹に響くエンジン音。二つ並んだマフラーから吐き出される煙はいかにも肺に悪そうだ。不穏な空気を感じ取ったのだろう、ナユタが眉をくもらせた。

「何に乗せられるの、俺たちは」

「車だよ、いちおう」

 たとえ博物館でしかお目にかかれないようなしろものだとしても、自家用車の一種であることは間違いないので、チアはそう説明した。

 スモーク貼りの窓を叩く直前にドアロックが外れる。運転席から身を乗り出してきたジュールは珍しく慌てた様子で「その馬鹿力で叩こうとするな」と言った。

「久しぶりい」振り上げた拳を開いてチアは言う。「本当に免許取ったんだ。てことはもう四輪に宗旨替え?」

「適材適所ってやつだよ。ここでだべろうとしないで早く乗れ」

 後部座席を示しながら、チアの肩越しに視線を流し「ジュール」と告げた。ナユタへ名乗ったのだ、とチアでさえ気づくのに数秒かかる。素っ気ない人当たりは相変わらずだ。退学手続きが完了する前からとっくに登校していなかったから、およそ半年ぶりの再会になる。

「いきなりメッセ寄越すからびっくりしたよ。死んでるかと思ってたもん。ナユタちゃん、この子、ジュール、乗り物オタクだし性格悪いけどよろしくね」

 ナユタは、はあ、と曖昧な返事をした。不審がる彼女を座席に押し上げて、続いて乗り込む。車が発進してロータリーの屋根を抜けると、先刻までの小雨は止んでいた。「お、虹だ」チアは口笛を吹く。澄みきらない空に水っぽい刷毛ではいたような、ぼんやりした色が浮かんでいる。八色と教えられたはずが今日はせいぜい二つにしか判別できない光の揺らぎの、途切れた先に塔がある。市街から見るよりずいぶん細いけれど、果てのない高さは変わらない。

 ジュールの運転は丁寧とは言えなかった。急停止やカーブのたびにナユタの長いおさげが遠心力を持ってチアの腕を叩いたし、助手席に固定された紙袋もシートベルトと擦れて耳障りな音を立てた。ときどき舌打ちをかますジュールの側頭部を眺める。短く刈った黒髪に、またピアス穴の増えている耳。容姿が変わっても気質はあまり変わらないとチアは思う。

 紙袋に無造作に手を突っ込んだジュールが、つかみだしたものを振り向かないまま放る。真っ赤な包装のチョコレートバーを受け止めて、これが今回の自分の報酬なんだなとチアは納得して包みを剥がす。もとより見返りなんて求めていない、ジュールに必要とされただけで満足なのだ。

「ナユタちゃんも食べる?」チョコレートバーが残り一センチになったところで、思い出してチアは訊く。

「投薬中は食事管理が必要だから」ナユタはそう断って、思い出したように鞄を引き寄せる。取っ手にぶら下がったマスコットが現在時刻を読み上げた。彼女の歳には不釣り合いな、お子様向けの端末だ。紫色ののっぺりした顔の生き物は、デフォルメされすぎて実在の動物だとしても判別できない。

「へーかわいい、見せて見せて」ナユタの返事を待たずにチアはぬいぐるみをもぎ取って、ジュールに渡す。ジュールはそのやわらかい布地の背中を開いて、片手で数秒いじくったあと、半分開けた窓から放り投げた。

 運転席の動きなんて見えていないはずなのに、ナユタはそちらに顔を向けた。

「この車、学校に向かってるんじゃないでしょ」

 窓から吹き込んできた風に、潮の匂いが混じっている。海岸沿いの道路なんて、ナユタのホームの反対側、数十キロは離れている。

 ジュールは答えずにアクセルを踏み込んだ。

「聞いて驚け、じゃじゃじゃじゃーん」

 チョコの付いた指先を舐めて、チアはにんまり笑った。

「私たちはきみを誘拐したのです!」

 ばばーん、と、わざわざ効果音を口で表現して拍手もつける。クラッカーがあれば躊躇なく紐を引いただろう。

 ナユタはジュールの様子をうかがう。呆れたような運転席の沈黙は、けれどチアの発言を否定はしなかった。

「……誤解しているかもしれないけど」

 平静な口調でナユタは言った。

「俺が本州の病院で先進医療を受けられるのは、補助制度のおかげだよ。うちは大して裕福でもない、いたって普通の母子家庭だから」

「べつに身代金とろうってわけじゃない」

 ジュールが鼻を鳴らすと、チアが「あれっそーなの?」と素っ頓狂な声をあげる。「ジュールのことだから、がっぽりふんだくるのかと思っちゃった」

「守銭奴なの?」

 首をかしげるナユタに、そうそう、とチアは無邪気に頷く。

「ジュールってば、趣味が趣味だからめちゃめちゃお金かかるのー」

「ちょっと黙ってられないかチア」げんなりした声でジュールが言う。

「ふたりだけでお喋りなんてずるいじゃーん。ていうかさっきからナユタちゃんが言ってる『俺』って何? 誰?」

「古い一人称。自分を指す単語だ。『私』と同じ」

 ジュールの答えに、あら、とナユタは眉を上げた。

「よく知ってるね」

「お褒めにあずかり光栄だなラプンツェル」

 慇懃に答えてハンドルをきる。ジュールは他人を揶揄するときがいちばん生き生きしている。黙っていられないのはどっちだか、とチアは思う。言い合いから一発でも手が出たら勝ち目はない癖に、四方八方に喧嘩を売りつける。

 ナユタは諦めたように脱力してシートに埋もれた。

「友達には心配かけたくないんだけど……」

 呟いた言葉にチアは違和感を覚えたけれど、その原因を考える前に、車は減速し停車する。都市部から外れた海岸で、ジュールは紙袋を持って車を降りる。

「午前の仕事が片付かなくてな。あんたらなら仲良くできるだろ」

 そう言って登っていく先は険しい坂道で、ジュールの脚ではそうとう時間がかかるなとチアは思う。一応電波は届いているので、端末に溜まったメッセージに目を通す。波と鳥の鳴く声ばかりが耳につく車内で、ふいに隣でドアノブを引く音がして、顔を上げるともうナユタは道路に立っていた。チアも慌てて反対側から飛び降りる。

「中で待ってろとは言わなかったでしょう。あの子も」息を切らして回り込んだチアに、ナユタは平然とのたまう。

「えーあーうーん。そう言えば」咄嗟につかんだ腕を放して、チアは唸る。道路の横に広がるのは砂浜から岩場に移る中間の場所で、幸いなことにひと気はない。元来た道を振り返れば、道路沿いに店のようなものも見えるけれど、数百メートルは離れている。ナユタが走って助けを求めることは無理だろう。「ならまあ、いいか」

 あっさり納得したチアに、今度はナユタのほうが心配そうに表情を曇らせた。

「これからどうするのか、あんただって何にも聞かされてないんでしょ。それでいいの?」

「だってジュールが手伝えって言ったしぃ」

 間延びした語尾で答えてから、思い出したように車のサイドミラーでメイクが落ちていないか確認する。目の下のクマはまだ完璧に隠れている。

 六歳の冬、犬小屋の前で冷たくなったサロメを見た時から、チアの睡眠時間は一日あたり二時間十九分以下だ。

 哀しむことも悼むことも、十分やりつくしたはずだった。それでも、深い眠りに入ろうとするたびサロメの姿や匂いや声が蘇って、その思い出の鮮やかさに、頭がすっかり冴えてしまう。だけれどそうやって押し戻された現実に、サロメはいない。チアは途方に暮れていた。

「亡霊ってやつだ」

 と、ジュールは言った。

「ここにはいないはずの存在。空虚なもの。だけどあんたがそこに意味を見出す限りは、それにも意味がある」

 二十四時間煌々と明りのついた彼女のねぐらは、チアをいつでも迎えてくれた。

「睡眠によって脳は記憶を整理する。情報の取捨選択だ。必要な記憶は定着し不要な思い出は無意識化に沈められる。そして、本人にとって強い苦痛だった体験は、時として後者に分類される。自己防衛のためだ。だけどあんたはそれができない。処理されないままの過去が、記憶が、残渣として現れつづける」

 ジュールの説明はチアには全く理解できなかった。亡霊と言うならば、当時のジュールのほうがよほどそれらしい見た目をしていた。骨の浮き出た手足に、まだらに脱色された髪。引きこもりすぎて病的に褪せた肌。そんな彼女が大真面目におばけのことを語るのがおかしかった。眠れなくなってからはじめてチアは笑った。

「それで、私はどうしたらいいの?」

「知るかよ」

 ジュールの返答はにべもなかった。

「あんたが亡霊を見るのなら、あんたがその『犬っころ』を忘れたくないってことだ。結局あんたは、ひとりになるのが怖いだけなんだよ」

 皮肉たっぷりの口調で振り向いたジュールが、最低なことに楽しそうに笑っていたので、チアは彼女に付いていこうと決めた。ジュールの企みは大抵ろくなものではなかったけれど、チアの持て余した時間と衝動に指向性を与えてくれた。チアはそれで満足だった。睡眠不足は相変わらずだし、おかげで背はちっとも伸びなかったけれど、兎に角チアは安心したのだ。


 ガードレールの境界すらなく、舗装された道路からは直接、浜辺に踏み出すことができる。そこから先にナユタを引率するには、さすがのチアも慎重になった。波打ち際へつづく緩やかな下り坂は障害物だらけで、清掃なんてここ数年間されていなさそうだ。外海から漂着し、陸からは投げ捨てられた不要物が溜まるだけの場所。それでも、エアコンの切れた車内で過ごすよりはましだ。

 チアと重ねた手とは反対側、ナユタの白杖が何かをひっかけた。思いがけず涼やかな音にナユタが止まって、ならば必然、チアも足を止めた。

 薄緑に曇った瓶をナユタは拾う。干からびた海藻が垂れさがっているのを見て、チアは鼻に皺を寄せる。「やめなよ、そんなのゴミでしょただの」

 ナユタは忠告を無視して、耳の近くでそれを振る。手探りでかたちを確かめ、栓のあたりをこね回すが、固く封をされていて簡単には開かない。中には折りたたまれた紙片が入っている。

「何だろ、メモみたいな……」

手紙メールだよ」

 チアの疑問をナユタは訂正する。

 電子Eの接頭語を持たない、原始的でプレーンな、ただの手紙。あるいはボトル式メール、と、ナユタはさらに不可思議な造語を口にした。

「到着地も時間もわからない、もしかすると永遠に届かないかもしれなかった手紙。いつか誰かが海に放った手紙が、漂って、ここに辿り着いた」

「なにそれ」

 まったくもって非効率的で無駄なしろものだ。そんなものに何の意味があるんだ?

 いぶかしむチアに向かって、典型的だね、と、ナユタは薄く笑う。

「言語の統一化に伴い人類からはたくさんの言葉が削ぎ落された。言葉とは思考であり、名前がなければあらゆる概念は認識できない。世界に不要なものはひとくくりで片づけられ、それ以上深く知ることはできない。見えているのに見えていないあんたは、俺よりよっぽど不自由ね」

 滔々と語られる言葉に理解が追いつかない。それなのに胸の奥がざわつく。潮風がべたつくのが急に煩わしい。

 他方から呼びかけられて、チアはほっとしてそちらを見た。けれど声の主は期待した相手ではない。チアたちよりもいくらか年上の男が二人、軽薄そうな笑みを浮かべて歩いてくる。

 店のある界隈から、わざわざ歩いてきたらしい。何のために? もちろん、チアたちに話しかけて、その後までご一緒するために。

 心の中で舌打ちしながら、ナユタを庇うように立つ。調子よく話しかけてくる男にチアも笑顔で答える。えーお兄さん遊んでくれるの、どうしようかな、楽しいならいいけど。え、こんなとこに来た理由? 気になる? いや別にたいしたことじゃないってば。お前らと喋ってる時間はもっとくだらないけど。

 ぽかんとなった男たちの、手近に立っていたほうを蹴り上げる。鳩尾を抑えてうずくまる男の首に腕を絡め、全体重をかけて落とす。

 続いて残りの一人。振り向きざまに跳びかかろうとしたチアは、ガラスの砕ける音で動きを止める。

 後頭部を抑えてよろめく男が状況を理解する前に、背後から紐状のものを首に回され、えびぞりになるよう背負われる。頸動脈を的確に圧迫されて、男の顔はたちまち色を変える。意識を失ったのを確認して、ナユタは男の身体を地に転がす。脇に置いてあった白杖を拾い、長い三つ編みをゆっくり撫でた。

「やだ、髪が痛んじゃった」

「………………ソッすか…………」

 言葉を失っていると口笛が飛んでくる。道路に立っているのは今度こそジュールだ。待ちかねていた彼女に反射的に表情を明るくして、だけれどチアははっとする。

「来ちゃ駄目だよジュール」

 目線はナユタから外さないままチアは叫ぶ。

 油断していた。両目はしっかり閉じられているのに、ナユタの動きは完全に手馴れた人間のそれだ。チアはともかくジュールなんてひとたまりもない。

「大丈夫だよチア」

 チアの警戒を意に介さず、ジュールは道路から浜へと降りた。紙袋はどこかに置いてきたらしく、長い両腕でバランスをとりながら障害物を飛び越える。

「私たちをぶっ倒して逃げるならもっと早くにできたはずだ。彼女は逃げない。すでに逃げているのにさらに逃げることはできない」

「誰が逃げてるって?」ナユタの眉根が寄る。

「もちろんあんただ、

 最後のひと跳び、足元に転がった男の頭は避けることすらせず踏みつける。

「コミュニティサイトにログインするとき、あんた、音声で認証してるだろ。調べものしてるときに見つけてさ」涼しい顔でジュールは言う。「文字に起こせば、でたらめな音の連続にしかならない。現行の認識装置は、古い言語を変換できない仕様だからだ。でも私には分かるんだよ。意味は解らなくとも、意味があることは分かる」

「ただの遊び、おふざけだよ。俺は何も……」そう言いながらもナユタの顔色が変わったことにチアも気づく。ジュールはいよいよ声高に彼女を煽る。

「確かに何もできないだろうな。自分のことを古い言葉で呼んで、そんなちっぽけなことで抵抗しているような気になってるようなあんたじゃあな。だから私が来た。あんたを思いっきり叫ばせてやりに来たんだよ。観念しろよナユタ。逃げることから逃げたら、あんたの世界は閉じたまんまだ」

「恵まれていることの対価として、望まれているように振る舞う、それが誠実さってものでしょう? 親友を裏切れない。彼女を傷つけたくない」

 ナユタが初めて声を荒げた。杖を握る指先が白いのを見ながら、チアは先ほどの違和感の正体に思い至る。

 友達には心配をかけたくない、とナユタは言った。

 ああいうとき、普通なら『家族』を思い浮かべるはずなのだ。

 彼女の言動が、どういう事情によるものかまでは分からない。ナユタの人間関係なんてチアは知らない。

 たった今、興味がなくなった。

 苛立ちを滲ませる態度に、先ほどまでの不敵な面影はない。

 くつわを嵌められた犬をチアは思う。どれだけ強く握りこんでも痛まない、切りそろった爪。規則的に編み込まれた長い髪が、折り目の綺麗なスカートが揺れる。

 どんなに威嚇したところでやがてもがき疲れて飼いならされていく獣を、思い出す。

 鎖の外し方も知らない愚かさを、見下す気持ちはない。ただ純粋に可哀相だと思うのだ。

 惨めで滑稽で可哀相、そんな生き方ならば、死んだほうがましじゃないか。

「チア、やめろ」

 と、言われたからチアは止まった。秒速10.2メートルで振った拳をナユタの鼻先数センチで停止させた、はずだった。なのにジュールがわざわざ割りこんだものだから、そのひょろ長い体躯は見事に一回転して倒れ伏す。

 やば、とチアはしゃがみ込んで彼女の背中をさする。「口だけで十分なのに、なんでわざわざ声かけた後に身体で止めようとするかなあ。だいじょーぶ? 折れてない?」

「この馬鹿犬」鼻を抑えながらジュールは呻く。指の間からあふれた血が砂浜に滴り落ちる。ぶつくさ呟いている言葉はチアには聞き取れない。

「だって臆病を他人のせいにする子って一番つまんないだもん」

「んなことはここにいる三人とも漏れなく思ってんだよ」

 子供のように頬を膨らませるチアに、血と共に吐き捨てる。

「…………話の続きだ」

 ふらつきながらも起き上がり、青ざめているナユタを睨み上げた。どん引きしてんじゃねえよ。下品なスラングが理解できたなら、その時点で同類だ。

「頑固なお姫さんに、もっとシンプルで手っ取り早い方法を提示してやろう」

 出血大サービスだ、文字通り。と、まったく笑えない洒落を飛ばして、もたれこむようにナユタの首に腕を回す。耳元で何と囁いたのかチアには聞こえない。ナユタはぴたりと動きを止めた。まぶたに覆われたままの瞳が、だけれどもしも生きていたなら、きっと大きく見張られたのだろう。

 短い笑い声をあげて、ナユタはジュールの腕をほどいた。「死んでも御免だわ」そう言って、チアへ向けられた顔はやけに晴れ晴れとしている。

「チア、虹はまだ出てる?」

 質問は唐突で、チアは意図を理解できない。ジュールが空を指さすのを無意識に目で追って、それから空港を出るときに言ったことを思い出す。「いや、もうないけど……」雲の切れ間から差すわずかな光を見上げながら答える。やっぱり、と、ナユタは大げさに息を吐く。溜まっていたストレスをまとめて吐き出すような長い吐息だった。

「虹が出たって言ったなら、消えたこともちゃんと報せて。そうでないと、俺の頭の中の景色はいつまで経っても更新されないの。それと、声をかけずに身体に触らないで。俺はだいたい触られる前に気づくけど、マナーの問題だから。同じくマナーとして、化粧品と香水のにおいがきつすぎる。その下品なにおい、三メートル先からでも気づくよ。あと、当たり前だけど、人のものを勝手に捨てるな」

 流れるような文句を聞きながら、チアはシャツの襟を引っ張って嗅いでみる。たしかにコロンを振りすぎたかもしれない。

「ほかにもいろいろ言いたいことはあるけれど、いっぺんに言っても覚えられなさそうだし、まずはここまで」

 白杖を砂浜に突き刺して、ナユタは宣言する。

「俺とやっていくなら、今言ったことくらいはわきまえてちょうだいね。よろしく、チア」

 どこまでも居丈高な物言いを、だけれどチアは、悪くない、と思った。ジュールをうかがえば、頷きもせず肩をすくめる。だから仲良くしろって言ったろ。

「よろしくねえ、ナユタちゃん」チアはすっかり嬉しくなって、うきうきとナユタを覗き込む。「それじゃ、お近づきのしるしにさっそく殴り合いしない?」

「やだよ狂犬」

「じゃキスは?」

 返事の代わりにナユタは右足を上げた。まっすぐな体幹と直角になるように腿を上げて、黒いハイソックスに包まれたしなやかな脛を伸ばす。

 顔がうつるくらい磨き抜かれた革靴の底から、湿った砂粒が断続的に落ちていく。チアはきょとんとそれを見つめた後、「ナユタちゃんって最高」上がった足を折り込むようにナユタを抱きしめた。

 片足立ちで抱きしめられたナユタから、背骨のきしむ音がする。悲鳴が聞こえるまで放さない、とチアは決めていたのだが、ナユタは一向に声をあげず、とうとう歯を食いしばったまま痙攣しはじめる。

 興味もなさそうに海を見て待っていたジュールが妙な顔をした。口元にあてた拳に短く息を吹きこむ。開いた手のひらの奥歯を見ると、嘆息してポケットに突っ込む。ポケットには先に入っているものがあって、彼女はその存在をはじめて思い出す。丸まったそれを引きずり出し、チアたちを放置して一足先に車に向かう。ボンネットへ叩きつける。

 鈍色の空から差し込む光に照らされて、冴えない若葉マークが貼りついた。


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