彼女の理想

古新野 ま~ち

彼女の理想

 改札前にいた佳歩は俺の趣味を分かっていないようでロングTシャツだけを着ているかのようにみせる服装だった。ショートパンツを履いていると笑われたことをよく覚えているから二度と口出しするまいが、着替えている途中だという第一印象を棄てられないでいた。女にはこのような格好をしてほしいという要望はないが―厳密にいえば香水をつけすぎないでほしいがこれは男女を問わない―。

「遅刻するなら電話してよ」

「いや十分くらいでつくから」

「なにかあったと思うから」

 なにか、があると思う方がどうかしている。偶然、要救護者がでただけでいちいち連絡をいれる必要があるのかと口にすると面倒なので謝罪した。


 映画まで間があるからとショッピングモール内のペットショップに向かった。仔犬が見たいと言ったらすんなり従ってくれた。

 仔犬はどれを見ても仔犬だった。女物の服がそれでしかないように。ただ、GAPとZARAで1時間ほど云々と呟く彼女の背後霊になるよりは生の実感を得られる。

 仔猫はあまり動かない。それに対して仔犬たちは俺が自分の飼い主に相応しいのかを確認するかのようだった。

 仔犬の挙動を眺めていると離れたところから女性店員がどのような犬種を探しているか尋ねてきた。見ているだけですと言うと彼女ははにかんで、犬を飼っているのかと尋ねた。何も飼っていないと嘘をついて話を打ち切る。

 佳歩は鳥類のコーナーで鸚鵡にこんにちはと話しかけていた。

「変な人みたい」

「鸚鵡なら仕込まれていると思うけど」

「しないでしょ。飼い主の遊びを奪うことになるし」

「近所のホームセンターで家鴨売ってた。見たことある?」

「佳歩の家が田んぼが近いからやろ」

「五千円以下やったはず」

 気がついたときにはもう開館時間になっていた。


 映画が終わると彼女に連れられるままパンケーキの店に入った。店は国道沿いにあり、少しでも軽やかなファンシーさを保つためであろう小庭は躑躅などが植えられていた。野良猫が住み着いていた。俺では決して見つけることができなかったような店だ。何度も通ったはずの道にもかかわらず。

 店内はわざとらしいほど苺の匂いがした。鼻と目頭が刺激された。

 それに逆らう気はなく俺は苺ののったパンケーキを注文したが、佳歩は迷ったすえにリンゴとキャラメルのなんたらかんたらを頼んだ。

 よく見ればテーブルの上にあった『季節限定』の広告はリンゴとキャラメルのどうのこうのであり、苺は通年のメニューだった。

 苺は季節外れであったことを食べながら思い出したときには、先ほどまで店内を満たしていたあざといほどの苺の香気は一切消えていた。目前の苺と佳歩の食べるリンゴとキャラメルのかくかくしかじかが強い香りを放って店内に微かに充満していた酸味で鼻の上部に汗をかかせるあの苺の匂いをかき消したとは思えない。この場に俺が慣れ始めたということだろうか。


 佳歩がさっき観た映画の感想を語りはじめたが、本当に同じ映画を観たのか疑わしいほどの違和感を覚えた。

「それは違うでしょ」と俺は堪えきれずに口答えをしてしまったが、何が違うのか言語化できておらず弱気な口調になった。

「違うって何が」佳歩は笑っていた。

 今の彼女の笑いは別の楽しい話題を提供してもらえることを期待しているポジティブなものだろう。あるいは全く映画を観る思考力のない俺を嘲笑う準備をしているのだろう。

 俺は水を飲んで、口の中の苺の残り香を洗い流した。

 俺は映画を覚えていないことに気がついた。

 さっきの映画を思い出そうとすれど一切の光が差すことはなかった。記憶を引き出そうという努力はたちまち土足で踏み入る強盗の手口めいてきた。

 息苦しさすら感じはじめ、俺は、「いや、たぶん違わない」と言った。「佳歩の言う通りだと思う」

「変なの」


 彼女は支払いを俺に任せて先に店を出た。店先にいた猫に話しかける彼女の姿をどこかで見たような気がした。

 レシートを貰い、ポイントカードも付けられたのでそれを佳歩に渡した。いらないと突き返された。

 猫は佳歩の足に頬を擦り付けはじめた。俺がカードで支払っている数秒でそこまで仲良くなれるものかと思ったが、この猫に先ほどのペットショップでチュールか何かを購入していたのかもしれない。それは今日が始めてではないのかもしれない。

 猫は佳歩が何も与えてくれないことを理解したのか茂みのある小庭に戻っていった。数歩進んで振り返ったとき、猫は穴を掘っていた。

 脳内のどこかの異様な記憶から放たれた腐臭が鼻をついた。

 鼻腔に腐った肉を詰め込まれたような刺激に耐えきれず噎せた俺の背中を佳歩がさする。

「大丈夫?」

「わかんない」

「変なの」

「さっきも聞いた」

 粘り気のある涎を吐き捨てた。

 異様な記憶の姿を捉えようとしたが塵のように見えなくなっていた。


 佳歩が帰る時間だと言うから頷いてまた今度と答える。

「引き留めないの」

「引き留めてほしいのか」些か高圧的な物言いになったと思う。

 電車がホームに吸い込まれていく。前面の光がなぜか顔に見えた。電車の方がまだ人間味があるほど、顔から顔の要素が欠落した佳歩の顔がそこにあった。いや、そもそも佳歩に顔と呼べるようなものがあった記憶が無かった。


「どうして引き留めてくれないの――

 ――まだ私が分かっていない――


 ――

 現実のような悪夢から目を覚ましたとき俺は改札の前の佳歩がロングTシャツに短パンを合わせたストリート系のファッションで待ち構えているのを確認した。

「遅刻したら映画が観れないかもしれないでしょ」

「悪かった」

 俺は佳歩が気を悪くしたことにより全神経が鳥に啄まれたかのような悪寒がした。

「ねぇどうしたの」

 佳歩が俺の顔を覗き込む。

「俺は、佳歩を悲しませた」

「キモい、キモいキモい。まだ私を分かってない――


 ――

 目の前の佳歩が『季節限定』のリンゴのパンケーキキャラメリゼを幸福そうに頬張る。その顔がさっきまでヒロインの境遇に涙を流していたとは思えないため、僕はクスリとわらった。

「なに笑ってるの」

「とても美味しそうに食べてるなと思っただけ」

「戦争映画を観たあとだからかな、甘いものがより美味しく感じる」

「砂糖ってすごく貴重だったからね」

 そして彼女は僕がまるでさっきまでの映画を観ていなかったかのように話をはじめた。たしかに観ていないと同義のようなものだが、それにしたって僕のことを馬鹿にしすぎている気がする。

「佳歩さんの言うようにあの場面における台詞の意味を噛みしめてみるのは、とても有意義かもしれない。でもその有意義さっていうのは死者の骨を弔うような意義に近いんじゃないかな。映画の詩的言語ばかりを褒めてもプロットを褒めても構わないがそれはいつまで立っても他者の批評を典拠にした孫写しもどき、あるいはそれ以下になるのではないだろうか。映像を観よう。シーンの光、撮影の妙味を味わう。それができないで2000円近くを支払うのは強いていえば高級なウィスキーをハイボールにしてしまうかのごときだよ


「ちょっといい」


 すまないが、まだよくないよ佳歩さん。そもそもなぜ台詞にばかり佳歩さんが注目してしまうかを一緒に考えてみないかな。君は言霊を重要視しているからだ、と僕は考える。しかし言葉というものが、その国で与えられた教育、つまり制度的であること、日本でならば和歌やら俳句やらで古来は天皇に言及してきたという歴史を忘却することは――


「うるさい、なんで私の話が聞けないの? まだ、私を分かっていない」


 ――

 振り返ると猫が穴を掘っていた。

「佳歩は猫に好かれるんだね」

 私は自分の肩の辺りにある佳歩の頭を眺めた。学校でならば頭を撫でてみたかもしれない。しかし、今日、私と会うためにそれなりにセットしたであろう髪を触るわけにはいかなかった。

「もう帰らないといけない」

 佳歩は門限があると言っていたが、これほど早いとは考えていなかった。虚をつかれた気がした。

「私の家なら、佳歩の親も安心できるんじゃないの」

「でも、帰らないと」

「まだ、佳歩といたい」

「ここまで来れたのはあなたが初めてだけれど」佳歩は言い辛そうにしていた。下を向いて私から視線をそらした。

「まだ私が私を分かっていない」

 佳歩が、なにか致命的な言葉を発したらしく、私の足下が崩れ多数の腐肉が待ち受けている奈落に落ちていった。佳歩の声が聞こえた。聞こえただけだった。


 ――


 妙に複雑な夢は終礼のチャイムで終わった。佳歩が目を醒ますと華や樹里亜たちがいつものように弁当を持って彼女の元に集まった。

「佳歩、そろそろ好きなタイプを教えてくれてもいいんじゃない」

「そうそう。佳歩だけまだ秘密にしてるのずるい」

「なんていうか、いつも言ってるけど私はまだ決めかねてるというか考えているというか」

 佳歩は級友の追及をはぐらかすことには絶対の自信があった。この日も、答えることなく終えることができるだろう。



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