05
日々だけが、過ぎていった。
転職した。もともと頭がいいほうなので、家にいられる仕事にした。彼女は、忙しく働いていて、仕事の相談をときどきしてくる。もう彼女の会社の人間ではなかったので、色々意見を言った。業績は上がり、彼女はまた昇進したらしい。
「昇進を祝って」
「乾杯」
焼肉屋。
彼女。器用に、肉が焼かれていく。あのときとは違う。ふたり共用の皿に、焼き上がった肉が置かれていって。ふたりで、思い思いに取って食べる。
「吐きたくなったら、言ってね」
「なんでですか」
「だって。この前は」
お肉を食べて。胃にやさしいお酒を呷る。
「おいしい」
「そっか」
全てが曖昧で。
どうでもよくなってしまっていた。
「あなたでよかった」
「なにが?」
彼女。煙と格闘しながら、肉を焼いている。
「好きになったのが、あなたでよかった」
その手が、止まった。
「彼女が、死んだとき。俺。死ぬよりもひどいところにいました」
「わたしを殴ったし」
「すいませんでした」
「わたしのせいだから。気にしないで」
「そのあとも、さんざんひどいことを」
「気にしないでいいよ。好きな相手だから。何されたって、許せる」
彼女も、お肉を食べて。胃にやさしいお酒を呷る。
「しんどかったことがあったら、言ってください。謝ります」
「やめてよ」
彼女の目が、こちらを見据える。
「優しかった頃のあなたに、もどっちゃだめだ。おかしくなるよ。こころが。耐えられなくなっちゃう」
言われたことは、なんとなく、わかる。いまの自分は。彼女に、かろうじて繋ぎとめられているだけ。彼女を抱いて、それで何かを。人として大事な何かを、なんとか保っている。
「なにが、いちばんしんどかったですか」
「だから」
「訊きたいだけです。あなたの、しんどかったことを。抱かれたことですか?」
「いや」
彼女。ちょっとだけ、考えるしぐさ。
「ごみ袋から、食器を出されたとき」
「ああ」
「あれが、いちばん、しんどかったな」
「ごめんなさい」
「ちがう。ちがいます」
彼女。大きめの肉を食べはじめる。食べ終わるのを、待った。
「あなたが、必死になって、捨てようとしたものを。あなたが愛した人の、愛したものを。わたしが使うことが。あなたの思い出を、傷つけてしまう気が、して」
彼女。涙を拭う。
「いやちがう。煙が目に沁みただけ。そういう涙じゃない」
また、肉を食べて。胃にやさしいお酒を呷って。
「わたしは。幸せだった。こんなこと言うのさえ、ひどいことかもしれないけど。あなたといられて。幸せだった。わたしは。いまも」
「お肉食べてる」
「ちがう。あなたが、吐いたりしないで、お肉を食べてることが。うれしくて」
曖昧だった気分が。
鮮明に。
色を取り戻し始めた。
目の前には、彼女しかいない。そして、彼女は、もう、戻ってこない。残酷な事実だけど、受け入れようという気分に、なっていた。
大きめの肉に、自分も挑戦した。
「ゆっくり噛んでね」
言われた通り、ゆっくり噛んだ。味がする。肉の味。味がすることが、こんなにも。嬉しいのか。
泣いていた。
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