02
急に、腕を掴まれた。
そのまま。引っ張られる。
いつもは反射的に払いのけるところだけど、そんな気力が、湧かなかった。
誰かに引っ張られるまま、街をとぼとぼと歩く。どんなに強く引っ張られても。歩く速度は変えられなかった。
いつも、ゆっくり歩く彼女と一緒に歩いているうちに、自分までゆっくり歩くようになった。
この歩幅だけが。彼女と自分の、歩いてきた道だから。
近くの店に入る。
たぶん、焼肉屋。
個室。
部屋。
そのまま、座につく。
対面。
上司がいる。殴った頬の側のくちびるが切れて、朱くなっていた。
上司が手馴れた順序で注文をしていく。
すぐに、高そうなお肉と、胃にやさしそうなお酒が運ばれてきた。
上司。
肉を焼きはじめる。
「何も言いたくないなら、言わなくていいわよ」
そう言いながら、焼き上がったお肉を自分の側の皿に並べていく。
「社内でいちばん優しいあなたが、殴るなんて」
「すいませんでした」
「ほら。すぐ謝る。食いなさい」
肉。また並べられていく。自分のところにばかり、いい肉が。
上司。端の小さなお肉を丁寧に焼いて、ひとつだけ、食べていた。
上司の端正な顔が、もぐもぐと動く。
そして、頬の血をぐいっと拭った。
「沁みるわね」
そう言って、胃にやさしそうなお酒を
わたしは、どうすればいい。
肉。
「うっ」
急に、耐えられなくなって。
うずくまって、吐いた。
何も出てこない。
ただ、えずくだけ。
「うっ。うえ。おええ」
吐きたい。でも、吐けない。
「うう」
彼女。
なんで、死んだ。
どうして。
自分を残して。なぜ。
「おううっ」
やっぱり、何も出てこなかった。
背中。
手が、当てられる。
暖かかった。ゆっくりと、さすられる。
「ごめんね。焼き肉が悪かった。わたしのせいだね」
ゆっくりと、体勢を入れ替えられる。吐いたものが喉につまらない、上司にもたれかかるような体勢。
上司の胸があたる。
恋人よりも、大きく。張りのある胸。そして、少し見上げると、恋人よりも、綺麗で整った顔。
殴ろうとしたけど。
右手に力が、入らなかった。
動かした手は、空を切って。
上司の胸にぶつかっただけ。
服の上からでも分かるぐらい、形の整って、柔らかく暖かい。
「ん」
上司が、なんとなく身動ぎ。
そのまま。
なんとなくの雰囲気で、焼肉屋を出て。
なんとなくの雰囲気で、上司とホテルに入った。いちばん安い部屋をとろうとした上司を押し退けて、恋人とも寝たことがない、とびきり値段の高い部屋を取った。
彼女のことを。忘れてしまいたかった。
なんでもいい。
どうなってもいい。
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