第2話

 まだ築浅い小洒落た雰囲気のマンションに着く。

「片付いてないけど」と女が苦笑いを浮かべてドアを開ける。

「お邪魔します」と返して男は欠伸を噛み殺す。

「少し風通すね?適当に座ってて」と女は窓を開けて換気扇を回す。

 浄水器の水がシンクに落ちる音と道路を通る車の音に高架が近い電車の音が長閑に響く。


「一応珈琲は2種類。マキシムとスタバ。紅茶は3種類でトワイニングヴィンテージダージリンとアッサムにレディグレイ、淹れ方と好みや気分でストレートかミルクかでおすすめは変わるけど」

立て板に水が如く、女は淀みなく勧める。


「普段は紅茶党?ヴィンテージダージリンと出た時点でこだわりがあるとみました」

「流石ね。でも珈琲も好きよ?ずっと食べてなさそうだからブラックはおすすめしないかな」

「寝る前のカフェインなんて大丈夫ですか?」

「大丈夫。貴方が傍に居てくれるから」とふわりと花が綻ぶ様に微笑む。

 ヤカンから湯が沸く寸前の音がし始めた頃に火を切る。

「沸騰させない淹れ方は日本の水の特色を生かしている、違いますか?」

「御明察。リプトンの受け売りだけどね」と女は笑いながら白いポットを温め、特に指定されなかったので勝手に選んだヴィンテージダージリンの茶葉を惜し気も無く入れ、湯を注ぐと律儀にタイマーをかける。


「紅茶やお茶をきちんと淹れて飲む習慣があると悪い夢を見る確率が50パーセントは無くなると学者が論文を出していました」

「美味しくて50パーセントなら続けるべきね。でも残りの50パーセントはまだ悪い夢なのよね?」

「その確率を引いても私が傍に居て抱き締めますから」

「当分寝るのは不規則になりそうね?」と少し困った笑みを浮かべて、硝子で出来たポットと茶漉し、マグを二つ用意して並べる。

 

 やがてタイマーがチチと鳴りかけて止められる。


 別に用意された硝子のポットに鮮やかな黄昏色にも似た紅茶が注がれ、最後の一滴迄を落として漸く白いポットが置かれる。

 別で置かれたタンブラーに僅かに注ぎ、クルクルと回して香りを確かめ、少し口に含むと納得してタンブラーを渡す。

「ワインと同じテイスティングなんですね」と受け取って試す。 

「良い淹れ方とそれなりの茶葉」

「これが庶民の限界よ?茶葉の一番良いのは全て大英帝国様が率いるバイヤーが買い付けてしまうんだもの」

「如何にもイギリスらしい話です」と互いに皮肉な笑いが洩れる。

「お待たせ致しました、先ずはストレートで」と勧められる。

「いただきます」

意外に冷えていた体に香り高い紅茶が染み渡る。

「これは侮れない。テイスティングの時より美味い」

「温かさも御馳走の内、よ」と言いながらまた窓を閉めて、換気扇を切って戻る。 

 対面して座る形で女も紅茶を啜る。

−朝の光に少し色素の薄い髪色が浮かぶ。

 夜には判らなかった事が少しずつ太陽の下では見えてくる。


 しばし無言で紅茶を楽しむ。 


 スッと女は立ち上がると冷蔵庫からカマンベールチーズを取り出し、ナイフで切り分け、皿に盛ってテーブルに置く。

「紅茶だけでなく、珈琲にも合うから試してみて。胃袋が空っぽじゃあ体に悪いし」と行儀悪く指で摘まんで口にする。

それに倣って口に放り込み、咀嚼する。

そこに熱い紅茶。確かにこれはいい。

「これは美味い。チーズ自体も随分と久方ぶりです」

「よかった。遠慮なく食べて」

 自宅だからの気安さか女は殆ど警戒心を解いている。

 一夜限りの刹那がこんな風になるとは。 

(私もヤキが回りましたか…いや。これは違う)


「少しは暖まった?良ければお風呂とか沸かすけど」

「構いません。もう寝るのでしょう?」

「うん。ほら、ちょっと汗かいたしさ」

「尚更です。寝る前にもどうせ汗はかきます」

 

 我ながら、らしくない誘いだ。

だが本能的なそれに逆らうつもりなど更々無い。


「枕元に薬置いて置かないとね」と女はまだ温もりが残るマグを置き、壁際の小さな棚に置かれた薬袋から大量の薬を取り出すと、冷蔵庫から出したミネラルウォーターの瓶と共に寝室へと向かう。

 無言でついてこいと勧められるのは初めての経験だ。

しかもさも当然だと言わんばかりの誘い。

 途中のリビングのカーテンを閉めておく。

朝日の中では人間の眠りは浅いと聞くから。それに自分に陽の光など似合わない。


 だがそんな世界の住人でも構わないと女は言いきった。

夜の闇に染まり切った自分を受け入れ、笑う女。

媚びる人間なら散々見て来ただけに、自由に生きるその様は面白い。


 何時この関係が終わるかわからないが、その時が来る迄は共に、と柄にも無い感傷に浸りながら誘われるがまま、枕を再び交わし、溺れた。

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