第3話
「何か作ろうか」とまだ布団の中で、彼女が優しく笑んで頬に触れる。
「無理をさせてしまっていますから外で済ますのも手です」とその手に掌を重ねながら提案してみる。
「じゃあ間をとってスープを仕込みながら宅配ピザを待つなんてどう?」
「宅配ピザ、ですか。それは面白そうです」
「もしかしてそういうのは初めてとか?」
「ええ。貴女といると初めてばかりで退屈しません」
「キッチンに宅配ピザのメニューが貼ってあるから取って来るね」
「いえ、貴女だけに行かせるのはフェアではありません。それにどうせ二人きりならばこのままキッチンに行けばいい」
「せめて下着かバスタオル巻くとかしない?」
「ああ、そうでしたね」
「たまに解らなくなるわ、貴方の事」
「元々別々に生まれている訳ですから、解らない部分があって当然です」
「まぁそうなんだけどちょっと違うっていうか…慣れればいいか」と困った様な表情で彼女が笑う。
「……慣れ、ですか」と釣られて困惑する。
だがその困惑は悪い気にはならない不思議なものだった。
「本当に掴めない顔で困惑するのね。そりゃ、勝負してる卓のディーラーも他の相手もさっぱり読めないはずだわ」と何がツボに入ったのか笑いが堪えられない様子で胸に凭れ掛かって来る。
「まるで猫の様ですね」とその頭を撫で、愛でる。
そして猫にする様に指の背で喉を撫でると、軽く首を伸ばして心地よさ気にする姿に忍び笑いが漏れてしまう。
「ぬ。笑うにゃ」と軽く指を咬まれる。
形だけの甘咬みだから大した事は無い。
「ピザを食べる猫ですか」と笑う。
「イタリアの猫はパスタを食べるよ」と返される。
「しかもちゅるんとやるし。岩合光昭の世界猫あるきで観たから間違いない」
「確かDVD化されている有名な」
「そう」
「一緒に観ませんか?」
「レンタル屋に行くの?」
「いえ、PCさえあれば私が検索します」
―意外だと言いた気な表情。
普段は紙媒体で情報を主に取り、PCは精々オンライン対戦のポーカーやブラックジャックにFXを気紛れでいじる位だが、たまに様々な情報を得る為にクラッカー紛いの事もする。
それを知ったら彼女は驚くだろう事は想像に易い。
まして正攻法でNHKオンデマンドから情報を引き出すつもりなど更々無い。
猫あるき位なら大した労力も掛からない。
「では食べてからにしましょう」
「うん、お願いね」
―ピザ屋のチラシはそれぞれに様々なメニューが並び、此処は何が美味しいなどと彼女が助言をする。
シンプルなマルゲリータでも店によっては美味しくなかったりするものらしい。
「お餅が入ったピザもあるからイタリア人にしてみたら、何なんだってなりそうよね」と指を乗せた先には"でらモッチ"なる名前と奇妙な写真が掲載されていた。
「日本人の食に対する姿勢は他国からすると恐ろしい執念だそうです」
「だろうね。ん〜二人ならMサイズでハーブ&ハーフ位かな、クリスピー生地だと」
「それ程食べられるのかが心配ですね」
「意外に軽く食べられる系だと思うけど、残ったら冷凍するなり出来るし」
「成程」
そうして決めた時間指定でスマホからピザの注文を終えると、軽くシャワーでも浴びようと彼女が誘う。
自分で洗えるから大丈夫だと言っても彼女は洗わせて欲しいのだときかない。
仕方ないと任せてみれば意外に心地が良い。
「少し髪がパサついているから、出てからオイルケアしないとね」とトリートメントをしながら呟く。
清潔でさえあれば良いと適当にしていたツケが此処で回ったらしい。
「最低限の身嗜みだけはしていたのですが」
「折角素材がいいんだから勿体無いよ」
「貴女にお任せ致します」
―彼女の趣味が伺えるシャンプーや石鹸は随分と品が良い物だ。しかも香りが良い。
シャンプーとトリートメントは薔薇が香り、身体を洗う石鹸からはラベンダーが香る。
それぞれの香りが喧嘩をせず、きちんと独立していながら互いの良さを引き出しあっていた。
単なる清潔にするだけの作業から入浴を愉しむという新たな事柄が増えた事は間違い無い。
彼女の背中を流す試みもなかなかに愉しい。
滑らかな肌にこうした形で触れるのもまた趣きがあるものだと頬が緩む。
シャワーで流すと白い肌は湯を弾き、ほんのりと赤味を帯びる。
「有難う、やっぱり誰かに流してもらうと違うわね」と彼女が幸せそうに笑む。
「これ位何時でも」と言葉が自然に口をつく。
―そして上がって髪を拭いていると先程より強めの薔薇の香りがして、彼女が手招きをしている。
「まだ水分がある内にこれを髪に染み込ませないと意味がないから」と説明する。
身長差がかなりある故、屈む。
水の匂いが強調されるこの感じは好みかも知れないと彼女のヘアオイルを馴染ませた手が忙しく動くままに任せた。
「ん。もう大丈夫。あとはドライヤーで乾かせばしなやかな髪になる筈だから」と次は自分の髪にオイルを塗ろうとしているのを横から取り上げ、見様見真似で彼女の頭皮に付かぬ様均一にサクサクと指全体を使い、塗り込む。
毛先には少し厚めに。
「出来ました」と笑いかけると「有難う」と笑顔が返る。
大容量のマイナスイオンが吹き出すイオンドライヤーをリビングで互いに使って乾かすと残った香りはごく自然な雰囲気で香る。
「これでお揃いの匂い♪」と無邪気に笑いながら、化粧水と保湿クリームを差し出して来る。
「肌が乾燥しやすそうだものね、カジノって」
「その様な事など気にした事もありません」と戸惑いを出すと「塗れば変わるから」と相変わらずブレない。
小悪魔というには黒さも毒も無い。
ただひたすらに献身的で、陽の光にも似たそれは直視すれば眩しく、だがその光には様々な色が内包された様な明るさと、ひっそりとしている時の佇まいは月光が照らす深夜の気配の様な二面性が垣間見える。
一歩間違えば月光の持つ狂気を纏い、相手を喰らう妖の類であろう事はあのロシアンルーレットで把握出来ている。
故にそれをさせない為にも。
「私が守ります、貴女の全てを」と抱きしめる。
「私も守るよ、貴方のまだ知らない部分も、全部受け止めるから」
愛おしい。己よりも遥かに非力で小さな存在が。
◇◇◇◇◇◇◇
「とりあえずセブンで買ったシャツで悪いけど、風邪を引くよりはマシだから」と着替える事を勧められ、一つキスをしてから着替えを始める。
「私はこれでいっか」と裏地が付いた白いワンピースを無造作に被り、下着はパンティ一枚で済ませ、髪を梳くと水晶の結晶があしらわれたバレッタで腰迄ある長い髪をうなじの後ろに一纏めにして終わらせる。
何処か少女めいた雰囲気のワンピースに水晶のバレッタは無垢なイメージが漂う。
―但し、首元や鎖骨などに散る赫さえ無ければと続くが。
着ていたシャツなどを洗濯に回され、ラフに襟元を開けた白のカッターシャツとスラックスだけで寛ぐ。
彼女は手際良くクリームコーンの缶詰を開け、鍋に中身を落とすと冷蔵庫から出した牛乳で缶の中を濯いで鍋に入れ、空き缶をシンクに置き、火にかけてゆく。
開いている引き出しから減塩のコンソメキューブを出し、鍋に砕いて入れ、胡椒とローリエパウダーに追加の牛乳を注ぎ入れてかき混ぜる。
軽くくつくつと煮える音がし始めると冷凍庫から出したホールコーンを惜し気も無くザッと入れ、再び煮込む。
隠し味にティースプーンに軽く砂糖を掬い、鍋に入れ、混ぜて味をみている。
「味見お願いしていい?」と小皿に取り分けたものが差し出され、受け取る。
自然な甘さは最初に入れていたクリームタイプ由来からであろう。
控え目な塩分は僅かな香辛料で気にならない。
寧ろ量を飲むには適している。
「どう?」
「美味い。これは後を引きそうです」と小皿を返す。
「もしピザが口に合わなかったら、これと冷凍してある手作りパンを焼いて済ませられるよ」と彼女が火を止めて振り向きながら笑う。
「手作りパン?パン生地も作るのですか」と驚くと「そうだよ」と当たり前だと言わんばかりの明るい表情で返される。
「捏ね始めから大体一時間で焼けるから手軽よ?」
「ひょっとして『福の手』ですか」
とふと過ぎった単語を口にすると
「ああ、それ風俗店の仲介人からも言われたっけ」とまた不思議そうな表情で呟く。
「手を見せて戴けますか」と白い手を取り、形や色艶、特徴を観る。
「間違いありません、貴女の手は他者にとって福を齎(もたら)す『福の手』です。それも見事な」
「へぇ?そんなに価値があるんだ?」
「将来的にマッサージ師や飲食店を営めば不特定多数を幸せにする事が間違いなく叶う。
その力がある癒やしの手です。大切にしなければ。
尤も私にだけその力を発揮していて欲しいのが本音、ですが」
「お店なんて出してたら簡単に誰かに攫われちゃうしね。
ずっと不摂生しない様、ちゃんとご飯を作り続けるから覚悟しててね?
歴代の彼氏で痩せたのは一人だけで、後は皆太ったから」
「痩せた一人は何故?」
「コンビニ食とアルコールのコンボだったから、きちんと出汁の効いた野菜料理とかに変わったのが良かったみたい」
「成程。私は後者になりそうですから多少は身体を動かさねばなりませんね」と笑いかけるとインターホンが鳴る。
「あ。ピザ屋さんだ」とディスプレイ越しに返事をして、そのまま出ようとする彼女を制止して代わりに出て受け取る。
何事にも用心しておいて損は無い。
失ってからでは遅いのだから。
「此方がセットのコーラになります」と手渡され、玄関の棚に置き、会計を済ますと労いの言葉をかけ、扉を締め、施錠をしてチェーンをかける。
「これでは手が足りません。お願い出来ますか?」
と安全を確保してから呼ぶ。
裸足の足音が軽く響き、玄関とリビングを隔てる扉が開いて彼女が傍に来る。
「んーいい匂い」と上機嫌で箱の近くで喜ぶ姿はまるで子供だ。
―先程のコーンスープに焼き立ての手作りパンを出されても、これ程無邪気には喜べないだろうが。
自分を知る者達からは信じられない程の柔らかい表情になる事だけは間違い無いだろうと思いながら二人でキッチンへと向かった。
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