第8話 ××0406~

「好きです! 別守さん! 僕と付き合ってください!」


 始まりは、逢木くんのそんな言葉からだった。

 逢木くんの言葉がなければ、永遠に始まることはなかったとも言える。

 入学式から一ヶ月後の、麗らかな五月のこと。一年三組の別守懐は、一年四組の逢木直流に告白された。オカ研の活動が終わった放課後、準備室の中での出来事だった。

 どうしてオカ研の部活後に準備室で告白されたかというと、私はオカ研の一年生部員で、逢木くんも同じく一年生部員だったからだ。ほとんど同時期に入部した私たちは、同学年の部員ということもあり、まあそこそこに話す仲で、でも本当にそこそこにしか話さない仲で、私にとって藻場くんや脇沖くんとなんら変わりないポジションに、逢木くんはいた。

 それが、こうして、部活終わり、偶然二人っきりになったとき、突然告白してくるものだから、私は当然困惑した。それこそ、脳内で超新星爆発が起きたほどだった。煌びやかな残骸となり、容赦なく消えていく平常心。代わりに、マサラムービーのダンスのような躍動感で、動揺がスタンドプレイをかましてきた。

 目の前の逢木くんが、私のことを好きで、付き合ってほしいって?


「あ、の、えっと……」

「好きです、別守さん」

「いや、逢木くん、あのね」

「好きです。付き合ってください」

「そうじゃなくって」

「好き」

「うるさい、黙れ」


 必死な言葉と共にどんどん近づいてくる逢木くんを、私は手の平を突き出すことで制した。

 逢木くんは、その穏やかで紳士的な外見に見合わず、意外とアクティブな性格をしているようで、私とは一定の距離を保ちつつも、熱視線を向けてきていた。だけど、私が一度拒んだからか、それ以上近づいてくる気配はなかった。

 私は居心地悪く思いつつも、逢木くんに言葉を返したのだ。


「あ、の、ね」緊張で言葉を出すのも苦しかった。「それって、本気?」

「本気」逢木くんはしかと頷いた。「別守さんのことが好きだ。僕と付き合ってほしい」


 改めて聞いて、私は顔を赤くしながら困惑した。

 熱を奪うように両手に頬を当て、必死に思考した。全然無理だった。そもそもこんな状況で冷静に考えられるほうがどうかしてる。そんなわけで、私は直接、彼に聞いてみることにした。


「えっと……でも、なんで? っていうか、私のこと、いつから好きだったの?」

「気になりはじめたのは、入学式のあとの部活紹介のときから」

「えっ、入学初日から?」


 クラスだって違うのに、なにがあったの。

 そんな私の驚愕に気づいた逢木くんは、解説するように教えてくれた。

 部活紹介のとき、クラス順かつ出席番号順で体育館に並ばされた私たちだったが、野球部の漫才を経てから呵々大笑の大盛り上がりを見せ、熱気と陽気により、列は完全に乱れていた。まったく違うクラスのエリアへ右往左往した、というほどではないにしろ、少なくとも、一年三組の〝わ〟こと別守懐と、その真後ろに配置されていた一年四組の〝あ〟こと逢木直流が、隣り合って座っていたというのは、無理からぬ話であった。私たちのファーストコンタクトは、そのときだった。


「あのとき、別守さん、話しかけてきただろ? 僕を友達だと勘違いして」


 覚えている。私はそのとき、自分の隣にいるのが一年三組の〝よ〟である依本だと、信じて疑わなかった。体育館の照明は消えていたし、暗幕で窓も遮光されている。舞台に落とされるライトだけが唯一の光源で、自然、観客である一年生たちは真っ暗闇の中だった。そのなかで人の顔を見分けるのは困難で、声を出さないかぎり、誰が誰かはわからなかったのだ。

 私は、隣にいた逢木くんを、ずっと依本だと思って話しかけていた。内容はよく覚えていないけど、「なにあれ変」だとか「楽しそうだね」だとか「おんなじ部活入ろうよ」だとか、そんな感じだったはずだ。なかなか返事が返ってこなくて、おかしいと思って振り向いたのが、間違いの発覚した瞬間だった。隣にいたのは気まずそうな顔をした男子生徒。いやいや、気まずいのは私のほうだよ、と内心ビビりながらも、私は必死に「ねっ」と念押ししていた。隣にいる人間が依本ではないと気づいてからも、引っこみのつかなかった私は――恥ずかしさを紛らわすためでもあった――まるで、最初から話しかけていたのは貴方だったんですよ、とでも言わんばかりに、ちょっかいを出し続けてやったのだ。

 私はよく人懐っこいと言われるけど、実際はちょっと違うと思う。ノリと勢いとやけくそで他人とのコミュニケーションを乗り越えようとするから、そのように見えるだけなのだ。私の性格が読みとれるエピソードとしては、最上級の代物だろう。

 いまさらそのことをからかうつもりか、と思ったが、そうではないらしい。


「別守さんがオカ研の紹介を見て、ここにするって言ったから、僕も気になって入部したんだ」


 逢木くんは語ってくれた。あの、騒がしく真っ暗な空間の中でのひそひそ話は、周りに大勢の人間がいるもかかわらず、まるで、この世界には二人だけしかいないような、淡い感覚に陥るのだと。そんなドキドキ感の中、偶然話した私のことを、少しずつ、少しずつ、雪や埃が降り積もっていくように、好きになったのだと。

 私はそれが恥ずかしくて、だけど、好きになってくれたことが嬉しくて、でもやっぱり、逢木くんのことは好きでもなんでもなかったから、「ごめんなさい」と返事をした。

 しかし、逢木くんは諦めなかった。

 毎日、部活終わりには、ひっそりと、私に想いを告げてくるようになった。

 そうこうしているうちに、部員にそのことがバレてしまい――むしろよくもったほうだった。初めての告白のときだって、隣の元第二会議室には部員が残っていたというし――そこから広まり、瞬く間に、一年生中の噂になった。ゴシップとして消費されることが恥ずかしくて、いっそ死んでしまいたかったけれど、当の逢木くんは開き直って、「もうみんな知ってるなら、どんなタイミングにどこで告白しても、かまわないってことだよね」などとのたまってきた。


「そういう問題じゃないよ。みんなに知られて、恥ずかしい」

「大丈夫。振られてる僕はともかくとして、別守さんが恥ずかしいってことはないから」

「貴方は恥ずかしくないの? みんなに噂されて」

「大丈夫。君を好きなことに、恥ずかしさなんて一つもないよ」


 そんな恥ずかしいことを言われると、ぐうもうんもすんも言えない。

 だけど、人間とは慣れる生き物らしく、私と逢木くんの応酬は常現象と化していった。私も私ですっかり慣れきってしまい、それを察してか、彼は私と目が合うごとに、告白してくるようになった。


「別守さん、好きです、付き合ってください!」

「一昨日来てね」


 今日も今日とてそうあしらった私に、隣にいた依本が「どんまいっ」と呟く。


「でも、今日も情熱的だったよ、逢木くん! 私なんてもう、ドキドキしちゃった!」

「本当? 嬉しいな。ありがとう、依本さん」


 なんでそこが仲良くなってるんだよ。

 粘り強い逢木くんに心を打たれたのか、一年の冬に差しかかるころには、依本は逢木くんに味方するようになっていた。

 逢木くんの告白はほぼ一年も続いていたのだ。二年に上がっても続くのだから、こんなのはまだ前哨戦と言えたけれど、当時の私にとっては驚きでしかなかった。

 いずれやむと思っていたからだ。部活でも顔を合わせるし、それなりに話すけれど、こうも何度も振っていては、さすがに私に飽きるだろうと。というか、飽きていてほしかった。少しずつ降り積もっていったのは、私だって同じだ。恋愛感情とは別に親しくなった彼を振るのは心が痛んだ。

 罪悪感が募っていった時期は、私が伊蘭坂先輩を警戒するようになった時期でもあった。

 明るく、気さくで、頼りがいのある先輩が、なんだかもっと別なものに感じられてきたのだ。私は少しずつ先輩との距離を測るようになり、そして、それにいち早く気づいたのが、私を常日頃から見ている逢木くんだった。

 逢木くんは、そっと、私を先輩から庇うように動いてくれることが増えた。無理に触られたり、近づいてこられるのが苦手なことを知ると、そのように配慮してくれた。逢木くんは私を気遣いながら、好意を寄せてくれた。幾度となく「好きです」と想いを告げてくれた。それは痛いくらいにまっすぐで、このひとは私のことが好きなんだと、芯に刻みこまれるほどだった。

 ああ、どうしよう。

 どんどんどんどん蘇ってくる。

 忘れていたはずの記憶が。

 冬は終わり、新たな一年を迎える春。私たちは晴れて同じクラスと相成った。頬に朱を散らすほどそのことを喜んでいた逢木くんは「今年も君が好きだよ」と告げてくれた。その言葉をもらうことで私の胸の中に広がるのは、罪悪感だけではなくなった。負荷はいつしかときめきになり、高鳴りになり、ドキドキになり、そして、恋をした。

 それは滲みだしていくようなもので、けれど、一度外に出てみれば、今度は溢れだすほどの力で、重さなんて少しもないのに、持て余してしまう感情。

 間違えてしまっていたらどうしようと悩みながら、私はその感情に恋と名づけた。

 きっかけなんてないの。貴方がそうであったように、私もだんだん、貴方のことを好きになっていきました。真摯に想いを伝えてくれるところ。私の言葉をきちんと受け止めてくれるところ。そのようなものに、ときめきを覚えました。

 貴方がいるというだけで、世界はどこもかしこも美しい。ラムネなんかなくとも、いちごカフェは天国の味がする。貴方に話しかけられると嬉しくて、思わず口元が緩んでしまう。それを我慢しなければならない難しさを、好きという感情の偉大さを、貴方が教えてくれました。

 けれど、私はなかなか素直になれなかった。ずっと断ってきた手前、どうやって自分の想いを伝えればいいのか、わからなかったのだ。せっかくだから、私だって、自分から伝えたいのに。私がこんなにも貴方を好きなこと、貴方だけに伝えたいのに。

 そんな私がようやっと素直になれたのは、オカ研のハロウィンパーティーで、伊蘭坂先輩に告白されたときのことだった。


「ご、ごめんなさい!」


 強張りながら、一途に、私は拒絶を口にしたのだ。

 先輩からの告白が本気か嘘か、はたまたもっと別の意図があるのかは知れなかったけれど、私は寸分の狂いもなく、ストレートに突っ返すことができた。いま思えば、もしかしたら、たとえ現実で告白されてしまっていたとしても、私は先輩をきちんと拒むことができたのかもしれない。過去の私は、そうすることができたのだから。


「私、好きなひとがいるので、先輩とは付き合えません」


 俯きながらも、私は必死だった。このときの私の脳内でだって、超新星爆発とマサラムービーはセットで登場してきたし、謎の堅物女将軍は者どもに酒を煽らせていた。

 先輩どころか、みんなの顔だって、怖くて見ることができなかった。

 けれど、近くの椅子がガタッと揺れたのを、私の耳はしかと捉えた。


「えっ」


 逢木くんは、そんなの聞いてない、というような顔で、私のことを見つめていた。

 ややこしいことになったなという表情をしている敬井先輩は「ええっと……はい、じゃあ、次のくじは自分が」と、気遣うように間を繋いでくれたのだが、私と逢木くんは腫れ物のように扱われまくり――数分後、居た堪れなくなった私は、覆面もそのまま、荷物を持って逃げだした。

 家に帰ってからも顔の熱は引かなかった。思い出すたびに温度は上がり、病気にでもなってしまったかのようだった。生き恥を晒した。もうどうすればいいの。こんなはずじゃなかったのに。逢木くんにだって勘違いをされてしまったかもしれない。そんなのやだ。このままじゃいけない。

 覚悟を決めた私は、翌日、登校してすぐに、逢木くんに告白した。


「好きです」


 それは、クラスのど真ん中。みんながいる前での、壮絶な告白だった。

 このときはすでに、私と逢木くんのことを学年中が知っていたので、浴びたのは白い目ではなく、大喝采の拍手だった。

 逢木くんが湿った雄叫びを上げると、クラスメイトは次々に、逢木くんの背中を叩いていった。特に友人の生野くん、帰山くんは「やったな!」「別守さん、ありがとう!」と、逢木くんと同等のはしゃぎっぷりだった。依本は私に抱きついて「彼氏ができてもズッ友だよ」と泣きついていた。焼け焦げそうなほど恥ずかしく、また、幸せな瞬間だった。

 私はすぐに、携帯のロックナンバーを、その日の日付である1031に変更した。私たちはその日、一緒に帰る約束をした。私は、借りていた宇宙人の覆面をずっと持ってしまっていたことに気づき、じめじめからの「部室のほうに置いといて」とのお達しもあって、途中で逢木くんと別れ、旧校舎のほうに向かったのだ。

 そして、悲劇へと繋がる。

 私はその日、あの不審者の手によって、包丁でめった刺しにされて殺された。






「気づくと僕は、桜も満開の入学式にいた」


 逢木くんは静謐せいひつな声で語る。

 しゃがみこんだ元第二会議室の地べたには体熱が移り、生温かくなっているように感じた。遠くのほうで、階段を上るような足音が聞こえる。あの不審者のものかもしれない。かつて私を殺し、そしてまた襲いかかってこようとした、あの――それだけで身も竦むけれど、私は、逢木くんの言葉に、一途に耳を傾けた。


「前の記憶があるのは僕だけで、みんな全てを忘れているみたいだった。僕は一年四組の逢木直流で、君は一年三組の別守懐に戻っていた」


 タイムリープ。

 タイムトラベルやタイムスリップとも呼ばれるそれを、私はよく知っている。彼だって知っていたのだろう。前の時間では――いわゆる、一周目の世界では、彼だってれっきとしたオカルト研究部の部員だった。


「あんなことがあったはずなのに、僕の体には傷一つなかったし、君も、ちゃんと、生きていた」彼は短く息を吐いた。「……奇跡だと思った」


 今ならわかる。

 私のビジョンは未来視や予知ではない。

 あれは、過去視であり、既知だ。

 時を遡ることで失くしてしまった記憶は、海馬の奥底に、とても強いイメージだけを焼きつけていった。私は自分の中に秘められていたその記憶の残骸を、まるで予知能力のようだと感じていたにすぎない。

 記憶にはいろんな種類があって、たとえば、私の体が自然と旧校舎へ向かったのは、経験記憶と呼ばれる記憶からくるものだ。ずっと与えられていたもの、また、自分と関連の強いものは、なかなか頭から離れない。自然とその動きをしてしまう。思い出してしまう――過去に体験した物事や、それに類似した状況をトリガーに、引っかかった記憶を回帰する。をデジャビュのようだと思ったことがあったけれど、あながち間違いではない。私は、エピソード記憶とも呼ばれるに、フラッシュバックを引き起こしていただけなのだ。

 今日、逢木くんから告白されるビジョンを見なかったのにも説明がつく。一周目の私は、今日この日――ハロウィンの朝一番に、逢木くんに告白したのだ。私から、告白したのだ。その日、見事に交際を果たした逢木くんが、さらに私に告白してくるはずがない。

 好きじゃなくなったとか、ビジョンが間違いだったとか、そういう理由ではないのだ。そもそも、これは予知でもなんでもない。過去に一度経験しているのだから。

 時間遡行。

 本当にを経たのは――サイキックとして力を使ったのは、私ではなく、逢木くんのほうだったのかもしれない。


「……でも、どうして、私は今日、死ななかったんだろう」私は手首にあるビクトリノックスをやんわりと撫でた「過去の私は、腕にビクトリノックスをしてなかったみたいだけど……」


 現在の私は、ビクトリノックスのおかげで助かったと言っても過言ではない。ビクトリノックスの硬いボディーが、包丁の斬撃を防いだのだ。

 しかし、過去の私は違った。あろうことか、ビクトリノックスを外した状態だったのだ。この私にかぎって、まさか、朝つけてくるのを忘れたなんて、そんなことは。

 逢木くんは忌々しそうに答える。


「忘れたんじゃないさ。盗られたんだ」

「盗られた……? 誰に」

「伊蘭坂先輩に」目を見開く私に、逢木くんは続ける。「君に告白を拒まれたあと、どさくさに紛れて、先輩は君の鞄から、ビクトリノックスを盗んだんだ」


 そういえば、私はあのとき、パイ投げで汚れるのが嫌で、ビクトリノックスを外したんだっけ。結局パイ投げには参加しなかったので、汚れることはなかったものの、私はその日、ビクトリノックスを鞄に入れっぱなしにしていた。

 でも、にわかには信じがたい話だ。それを、先輩が盗っただって?


「なんで」


 私の声は引いていた。


「さあ? それは僕にもわからない」

かまってくれなかった振られた腹いせに、困らせてやろうと思って、とか……?」


 語尾が震えていく私の声に、逢木くんは「よそう」と制する。


「今回はそのかぎりじゃないんだから、考えるだけ無駄だ」逢木くんは顔を歪め、言葉を続ける。「ただ、君が日頃抱いていた警戒心は、大当たりだったってこと」


 私はそれを聞いてぞっとした。

 盗られなかったビクトリノックスを、片手で強く握りしめる。


「じゃあ……逢木くんが、私との係わりを失くそうとしたのは?」


 私がこのことに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 当然だ。現在は、過去のような流れを辿っていない。逢木くんはオカ研にいないし、二年に上がり、同じクラスになったというのに、十月の頭にすれ違うニアミスするまで、私は、逢木くんの存在さえ知らなかった。

 知らなかったというより、知らされなかったのだろう。逢木くんはずっと影を薄め、私との係わりを絶っていた。これはきっと逢木くんが意図的に仕組んだことなのだ。


「わざと、私を避けてたんだよね」


 私の問いかけに、逢木くんは悲痛に表情を歪めた。見ているだけで切なくなるような、そんな侘しい表情だった。


「生き抜いてほしかった」逢木くんは続ける。「僕は、たる日に君を生かすことを、それだけをずっと考えていた」


 私の殺害事件は、偶然にも旧校舎へ向かってしまったことや、気のおかしくなった通り魔の存在を加味したとしても、それに付随した諸々の行動が、全て悪手だったことに起因する。

 そして、どうしてそうなったかを紐解いていったとき、きっと必ず、逢木直流という人間に突き当たる。

 警察に連絡できなかったのは、その日の日付1031に変えたはずのロック解除のナンバーを、私が手癖で9999と押し続けたからだ。ビクトリノックスを腕につけていなかったのだって、もし、伊蘭坂先輩に告白されたときの私が、もっと別の――好きなひとがいるなんていう痛いほどまっすぐな言葉ではなく――先輩を刺激しないような返答を吐きだせていたら、盗まれることもなかったかもしれない。いや、そもそも、私が逢木くんに恋心を抱いていなければ、襲われたあのとき、逢木くんを置きざりにすることで、逃げおおせていたはずなのだ。けれど、私は逢木くんのことが好きだったから、怪我をした彼を放って、逃げるなんてことはできなかった。それどころか、彼を助けようとした。

 恋は盲目だ。

 だから、一寸先の闇さえ見えない。

 自分の命の危機でさえ、偉大なる恋の魔力の前では。


「僕が動かないかぎり、告白しないかぎり、君は僕を知らないままでいられる。ナンバーも9999のまま。ビクトリノックスだって健在だ。僕を置いて逃げて、先生なり警察なりを呼んでくれれば……君が助かってくれれば、それが唯一無二なんだ」


 私は彼の気高い表情を見つめる。

 恋は盲目とは言うけれど、本当にその通りで、こんな回りくどいことをしなくとも、もっと他に手立てがあっただろうに――なんて、そんなことを言うのはお門違いというものか。当事者意識に欠けた、第三者からの言葉なのだろう。私の死は、様々な要因から引き起こされたもので、その要因の全てを潰すともなると、男子高校生一人きりではどうにもならない。手っ取り早く、わかりやすく、逢木直流への好意という、逢木くん自身がコントロールしやすい要因を、まず潰そうと選んだのだろう。そして、それは、きっと正しかった。貴方の言葉がなければ、私の胸に、貴方への好意が芽生えることはなかっただろうから。

――好きです。

 その言葉がどれだけ大きなものであるのかは、きっと私よりも、貴方のほうがよく知っていた。けれど、だからこそ貴方は、その一言で私が悪い運命へと導かれないように、一瞬ひとまたたきで飲みこんでくれたんだね。私はそれが寂しかった。貴方との運命が、貴方からの言葉が、どうしても欲しくなってしまったから。くれないなら、と何度も何度も話しかけて、私を見て、と迎えに行った。


「だけど、困ったよ。君ってば、覚えのない行動ばかりするんだから。本当なら、こんなはずじゃなかったのに……」


 しっとりと苦笑していたはずの逢木くんの表情が再び歪んだ。耐えきれずこうべを垂れる。やわい彼の前髪が、痛々しい顔色にさらなる影を落とす。擦り切れてしまいそうな声で、もう一度言葉を吐きだす。


「今日まで、僕は」


 私は、地べたに広げられていた逢木くんの手に、自分の手を重ねた。

 逢木くんはハッと顔を上げる。

 あのね。私を動かしたのは、幾度となく私に思いを告げてくれた、過去の貴方なの。私は、貴方にドキドキしたかったし、貴方とドキドキしたかったの。

 私が貴方を意識したのはつい最近のことで、だけど、逢木くんはそんな私よりも、ずっとずっと前から、私を想ってくれていたんだね。

 そう思うとたまらなくなって、私は口を開いていた。


「私は、貴方を想ったこと、たとえ死んでしまったとしても、後悔してないよ。今も昔も」私は言葉を続ける。「無理させてごめんね。ずっと、ありがとう」


 逢木くんは双眸を潤ませた。

 しめやかに震える唇は淡く息を吐く。

 決してこぼれない涙を拭い、切なげに首を振る。やっとの思いでというふうに、「本当は、」と口を開いた。


「何度も何度も、君が僕を好きだと言ってくれた未来に、帰りたいと思った」


 飲みこんだ想いを告げてしまえば、なんでも起きたはずだ。

 別守懐は逢木直流を意識しはじめ、ときめきを覚え、いずれは恋心を抱き、結ばれる。

 過去にはそれが現実となったのだ。

 一度でも想いを口にすれば、その運命を辿り、あの日に帰ることだってできた。

 それを叶えたいと、何度も何度も思った。

 彼の切なげな目が、ふっと伏せられた。懺悔しているようにも、恋希こいねがっているようにも感じられた。

 そんな彼に、私が口を開こうとしたとき――窓ガラスの割れる音が部屋中に響いた。

 砕けたガラスは足元に落ちて、煌めきながら散らばっていく。割れた窓ガラスの向こう側からは、包丁を持ったあの不審者が覗いていた。

 逢木くんは、潤みながらも強張った「あいつ!」という声を上げた。侵入してくる不審者と対峙して、そして、ここにきてもなお、私を逃がそうとする。


「別守さん、僕が気を引いているうちに、ここを出て。じきに警察も来る」

「でも、」

「出てくれ!」逢木くんは張り叫んだ。「……頼むから。今度こそ」


 逢木くんは、パーティーグッズや本を投げつけた。不審者はそれを避け、時には食らいながら、確実にこちらへと近づいていく。

 私は、壁に背をあて、じりじりと移動しながら、不審者の視界を逃れていった。その隙に、腕につけていたビクトリノックスを外し、基節骨のあたりに文字盤がくるように手中に収め、握り締める。

 膝は笑っていた。床に触れている爪先や踵から痺れは広がり、手も冷たく湿っていた。とんでもないことをしようとしているのは、ちゃんと理解していたからだ。彼の言うとおり、今度こそ逃げなければならない。このあとどうなるのか、私は身を以て知っている。

 けれど、だからこそ、ここから逃げちゃだめなのだと思った。

 震える自分を叱咤する。

 もう一度強く拳を握り、背後から不審者に近づいた。

 そして。


「ビクトリノックス!」


 そんな雄たけびを上げ、籠手代わりにしたビクトリノックス・スイスアーミーの拳で、私は不審者を思いっきり殴りつけた。

 いいところに入ったようだ。運動不足の女子高生の素人パンチにも関わらず、石を砕くような音さえ立て、不審者は一発KOされた。さすが、ナイフと同じ製法で作ったとされるその強靭さだ。これだから、私はこの子が愛おしくてたまらないのだ。


「……いっっっっだああい!!」


 気絶してぶっ倒れた不審者を見下ろしながら、ビクトリノックスを手から外す。やっぱり血が出ていた。というか、指折れてんじゃないの、これ。この子が壊れないだけで、そりゃあ私の手は壊れるってか。

 遠くのほうで、サイレンの音が聞こえる。きっと、逢木くんが事前に呼んでおいてくれたパトカーの音だ。

 私は、倒れこんだ不審者の顔を覗きこみ、もう一度、完全に落ちていることを確認する。念のため突っついてみたが起きなかった。やっと安心できる、とへたりこんだ。

 ポカンとして見つめていた逢木くんだったが、手を撫でながらうずくまりはじめている私に気づき、「大丈夫?」と近づいてくる。そう言う彼の声は潤んでいて、私と同じく膝も笑っていて、逃がそうとしてくれた彼だってとても怯えていたのだと見てとれた。私のための勇気なんだと思うと、居ても立ってもいられなくなって――私と視線を合わせるようにしゃがみこんでくれた彼を、私は抱きしめる。


「好きです」


 たじろいでいた逢木くんは、私の言葉に息を呑んだ。

 私は彼を抱く力を抱きしめて、彼の肩に顔をうずめる。


「……だから、逢木くんも、今度こそやっと、私に告白してくれないかな」


 その心臓が私の想いにドクドクと脈を打ってくれることが、それが奇跡でもなんでもなく、いまこうして現実に起きていることなんだということが、たまらないほど嬉しかった。


「お願い。貴方が、何度も何度も伝えようとしては、押しとどめてくれていたこと、貴方の口から聞きたいの」

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