第7話 1031

 ジョルジュ・クールトリーヌという、フランスの劇作家の言葉には、こんな言葉があるという――もはや愛してくれないひとを愛するのはつらいことだ。けれども、自分から愛していないひとに愛されるほうがもっと不愉快だ。

 どうしてそんな外国の劇作家の名前と名言を私が知っているかというと、オカ研のハロウィンパーティーから文字どおり逃げだし、家に帰った瞬間、世界の名言集を調べ漁ったからだ。迷える私はまだ女子高生だから、切実な気分になると、世界の偉人だかなんだかの聡明なお言葉に啓発されたくなるのだ。先見の明で一寸先どころか千里先まで照らしてしまえていたような彼、彼女らの言葉は、たしかに、私を納得させ、現状を見つめなおさせるに至っていた。

 わかるよ、ジョルジュ・クールトリーヌ。

 まさにそのとおりだと、私も思うよ。

 だって、あんなの、あまりにも卑怯じゃないか。

 安全圏からの狙撃。

 相手のことを顧みずに、思わせぶりな態度だけで、はっきりしたことはしないで。

 これまで警戒していた先輩が、いよいよ怖いものであるように感じられた。

 ずっと好きの価値観が違うと思ってたけど、それ以上であるような気がした。いっそ、あのひとは私のことが嫌いなのではないかとさえ思った。だって、あんなのはじゃない。好きって、もっと偉大で、素晴らしいもののはずでしょう。

 忘れよう。あの告白はなかったことになった。というか、実際には行われなかった、ビジョンの中だけの出来事――実現されなかった未来だ。なにも気にすることはない。知らないふりをして居直ってやればいい。大丈夫。

 そんな意気ごみで、翌日の十月三十一日、私は学校に行った。


「おはよう。約束の品だよ」


 途中のコンビニで適当に買ったチョコレートを持って、生野とやらの席へと向かった。件くだんの約束により、私は、彼にハロウィンのお菓子あげなければならなかったのだ。

 生野とやらは「律儀にサンキュ」と言って、パイン飴の袋から二つ分取り出して、私の手のひらに乗せてくれた。


「やる。依本と分けっこしろ」


 お前のほうが律儀だよ。

 私は「ありがとね」と呟いて、自分の席に戻ろうとしたけれど、そのとき、宙ぶらりんに腰元で揺れていた手首を、誰かに掴まれる。


「私に触れるな!」

「え、ごめん」


 堅物の女将軍みたいなことを反射で叫んでしまった私に、手首を掴んだ逢木くんは反射で謝る。正気に戻った私は「はっ」となって、「違うの。ごめんね」と告げる。


「……いや、ううん。勝手に掴んで悪い。不躾だった」逢木くんは真摯に謝ってくれた。「えっと、それで。生野にお菓子渡してたけど、どうして?」


 逢木くんは気まずそうに尋ねてくる。近くにいる友達の生野とやらに聞かれるのも、渡した張本人である私に聞くのも、そりゃあはばかれるだろう。だけど、そうまでして、私に理由を聞きたかったんだ。

 気にしなくてもいいのに。大丈夫なのに。

 そうは思いつつ、なんでって思ってくれたことが嬉しくて、私の気分は浮上する。


「約束したから」

「約束?」

「うん。前に、生野くんを呼びだしたときに」


 なにそれ聞いてない、とでも言いたげな顔を、逢木くんはした。逢木くんでもこんな表情をすることにびっくりして、それから少しだけ微笑ましくなった。しかし、すぐにいつものおとなびた態度を取り戻して、「なら」と私に言うのだ。


「僕にもくれる?」

「えっ」

「トリック・オア・トリート」


 なんと!

 にやけちゃうくらい嬉しいけど、困ったぞ。制服のポケットは空っぽ。持ってきたお菓子だって、依本と生野とやらの分で全部だ。鞄の中には昨日食べ損ねたクッキーがあるけど、あれは敬井先輩もらったものだし。しかし、お菓子がないからいたずらしてよ、なんて言う勇気は、私にはないわけで。

 まずったなあ。

 そう思っていると、自分の手の平の感触に気づく。

 セロファンがパリッと鳴る、パイン飴が二つ。


「はい」


 私がそのパイン飴を一つあげると、逢木くんは眉を下げた。


「……これ、生野のじゃなかった?」

「今は私のじゃん」

「それと依本さんの分」

「うん。だから、言っちゃだめだよ」私は人差し指を口元に寄せる。「逢木くんと分けっこしたなんて知ったら、あの子拗ねるから」


 そう言うと、逢木くんははにかむようにして「ありがとう」と受け取ってくれた。


「そういえば、どう? 別守さん」

「うん? なにが?」

「例の先輩絡みで、困ったことにはなってない?」


 ああ、そっか。

 逢木くんにはこのことを話していたんだっけ。

 私はピースサインを作って「ファインプレーかましてきた」と言った。

 それだけで逢木くんはなにもかもをわかってくれたようだ。心底ほっとした様子で「よかった」と言った後のち、「引き止めてごめん」と手を振ってくれる。

 私も手を振り返す。自分の席へと戻っていくすがら、逢木くんが心配して話しかけてくれたことを噛みしめていた。切り分けた自分の本音を預かってもらっているみたいで、なんだかこそばゆいけれど、悪い気はしない。むしろ大切にしてもらってる気がしてわくわくする。逢木くんは私以上に伊蘭坂先輩を警戒していたし――そこまで考えたとき、はた、と気づく。

 そういえば、伊蘭坂先輩が告白してくるかもって、なんで逢木くんわかったんだろう。

 昨日の出来事まで思い出してしまうのが億劫で、あまり考えたくはないのだが、どうしても気になってしまう。気になってしまうのは、あの逢木くんだからかも知れない。何度も何度も、私の見た告白のビジョンを、見事にスルーしていく男の子。不思議なクラスメイト。そんな逢木くんが、会ったこともない先輩の動向に、いち早く気づいていた可能性があるのだ。

 もちろん、たまたま予想が当たったとか、偶然であるという結論が自然だ。だけど、もし私が依本から彼女持ちの男にちょっかいかけられていると相談を受けても、そのうち告白されんじゃね、とは間違っても言わない。言わないと思う。言わないよね?

 席に着いた私は、依本に尋ねてみることにした。


「ねえ、依本。もしもの話、依本が彼女持ちの男にちょっかいかけられてるとするじゃん?」

「え? うん」

「そのうち告白されんじゃないの?」

「なに言ってんの?」


 依本は真顔で答えた。やっぱそうだよねえ。ウーン。

 そこで私は、いつか考えて、考えきれなかった議題を思い出す――どうして逢木くんはビジョンを裏切ることができるのか、というあれだ。あのときは明を得られなかったけれど、今回の謎とか、そういういろんなことをごちゃまぜにして考えると、一番座りのいい結論が出てくるではないか。

 私と同じように、逢木くんにもビジョンが見えるのかもしれない。

 それも、一寸先どころか、もう何寸か先まで。

 だからこそ、告白してこなかったのだ――たとえ告白したところで、私が振る未来が見えていたから。こう考えるのが、最も現実的な可能性じゃないか。こんな超常に頼った着地点が最も現実的だなんてわけがわからないけれど、少なくとも、私のビジョンの矛盾点への説明はつく。気づくのに遅れてしまった。私が考えるのが苦手だから、という理由もあるだろうが、そもそも、自分以外にも予知能力ビビッのあるひとがいるなんて思いもよらなかった、というところが大きい。それも、よりにもよって、自分に告白しようとした人間がだったなんて。

 いや、でも、待てよ?

 この仮説にも、やっぱり矛盾点は出てくる気がする。

 私の何寸か先まで逢木くんにも未来が見えているとしよう。どうせ振られるんだからって告白を諦めるとしよう。実現しない未来だ。その実現しないと確定された未来を、どうして私はビジョンに見るんだ? これは、鶏が先か卵が先かのパラドックス的問題だと思う。理論を越えた超理論。超常現象理論。

 ……無理だな。私には対処しきれない。

 ちょっと考えすぎてるのかもしれない。

 もうやめよう。どうせ考えてもわかんないんだから。

 その後、私は昼休みの時間を使い、依本の作ってきてくれたチョコチップクッキーを完食した。注文どおり、チョコチップはザクザクで、噛むたびにテンションが上がっていた。依本からも「トリック・オア・トリート」と言われたので、依本用に買っておいた高級ポッキーを渡した。依本は喜んでくれた。

 他のクラスメイトともお菓子の交換をした。もっとも、私はなにも用意していなかったので、一方的にもらいうけただけだが。教室移動のときにじめじめともすれ違い、じめじめは「プレゼント」と言って、手作りのマシュマロパウンドを私にくれた。私が「交換するものがない」と言うと、「知ってる」と返ってきた。神妙な顔つきで「その代わり、私の変顔の写真は消して」と言われた。しょうがなく、じめじめの目の前で消してあげた。あとで沙奈々ちゃんか藻場くんあたりからもう一度頂戴しよう。じめじめが先回りして消させてないといいけど。

 放課後。依本と私はトイレ掃除の係だったので、談笑しながらホースの水を撒き散らした。依本はそのあと用事があるらしく、先に教室に荷物を取りに戻り、そのまま帰っていった。トイレ掃除を終えて、教室に戻り、さて、私も帰るか、と鞄を肩にかけたとき、教室掃除をしていた逢木くんに「もう帰るんだよね。別守さん」と話しかけられた。

 話しかけられた! 本日二度目!

 超常現象だ! 奇跡だ! 滅多にないぞ、こんなこと!

 者ども! 今日は宴だ! 好きなだけ飲め!

 私の精神世界にまたもや堅物の女将軍がログインし、そんなことをのたまった。あらゆる細胞同士がさかずきを交わしているような感覚。私は興奮を抑えながら「うん。逢木くんは、お掃除お疲れさま」と返す。


「ありがとう」逢木くんは続ける。「別守さん、今日はまっすぐ帰るんだよ」


 なんだかお母さんみたいなことを言うなあ。いや、先生か?

 そんな感想を抱いていたとき、逢木くんはさらに追い打ちをかけてくる。


「今日はオカ研もないんだろ? 寄り道せずに、家に帰るんだ」


 あれ。オカ研が今日休みだって、逢木くんに言ったっけな。そこだけが少し引っかかったけれど、私は「はーい」と苦笑して返した。そのまま別れて、私は階段を降りていく。

 いいハロウィンだったけれど、やっぱり逢木くんは、今日も私に告白してこなかったな。話しかけてきてくれただけで、それ以上はなかった。どころか、今日は一度も逢木くんから告白されるビジョンを見ていないんだけど、なんで? 逢木くんにとって、今日は告白する日ではなかったとかかな。どんな日だよそれは。逢木くんが告白してくるビジョンは、廊下ですれ違った日から毎日見ていたというのに、今日、急に、それがぱたりとやんだ。まさか、逢木くん、私のことなんてどうでもよくなっちゃったとか。


「…………」


 いや、いつもの自意識過剰はどうした、別守懐。貴女らしくないよ。逢木くんが私を好きなのは揺らぎようのない事実だって。間違いない。その証拠に、私は何度も何度も、彼が私に想いを告げてくる未来をみている。まるで真っ赤な稲妻に撃たれたかのような、熱き衝撃。フラッシュバックやデジャビュの類にも似ている。ビビッときたのだ。あの感覚が、間違いなわけがない。

 でも、実際は、彼が私に告白してきてくれたことなんてない。

 たくさん自分に言い聞かせてきたけど、答えは全部そこにあるんじゃないのかと思う。彼がエスパーであろうとなかろうと、私のビジョンが正しかろうと間違っていようと、本当はそんなことなにも関係なくて、現実だけが真実なのだ。

 過剰に期待されたり、求められたりしても、逢木くんだって困るはずなのに。

 そんなことを考えこんでいるうちに――私はハッと気づく――オカ研の部室のある、旧校舎のほうまで来ていたのだ。

 ルーチンワークとは恐ろしいもので、考え事をしながら歩いていると、体が勝手にそちらへと動いてしまうらしい。この二年で身についてしまった習慣病のようなものだろう。不真面目な部員でも、私もオカ研の人間ってことなんだよなあ、と感じた。

 そういえば、沙奈々ちゃんにそんなことを言われたんだっけ、とあたりを見回す。

 旧校舎周辺は静かだった。走りこみをする運動部も、魔法陣を描いている沙奈々ちゃんも、誰もいない。今日はオカ研の活動もないし、こうも閑散としているのは当然だろう。

 そういえば、昨日のハロウィンパーティーの片づけって、どうなってるのかな。私、途中で帰っちゃったし。あの量の片づけとなると、後日に持ち越されている可能性もある。となると、明日は大掃除か。面倒だなあ。

 踵を返し、正門のほうへ向かおうとしたとき、人影を見つける。

 あれ? なんだろ、あのひと。

 遠目だけど、体格からして男だということはわかった。真っ黒い薄手のウインドブレーカーのようなものを羽織っている。帽子を目深に被っているため顔はよく見えない。だけど、あんな先生見たことないし、事務員さんや清掃員さんの制服でもないし、なんとなく、部外者なんだろうな、と思った。

 もしかしたら、郭都谷高校の卒業生かも。大学生なら私服で来てもおかしくはないし。でも、裏門から入ってきたのは不思議だな、と思った。こちらは最寄り駅から離れているし、人通りも少ないから、みんな好んで使わないのに。

 そう、暢気に考えていたとき――その人影の右手に、包丁のようなものが握られているのが見えた。


「えっ」


 私の心臓は一瞬、けたたましく跳ねる。

 いや、けれど、どうだろう。包丁のように見えただけで、実際は違うのかも。そう思い、目を凝らしてみるけれど、夕みを帯びた陽の光に晒され、刃が閃くだけだった。

 もしかして、部外者じゃなくって、不審者?

 興味がなさすぎて、誰と話して聞き得た情報かは忘れてしまったのだが……そういえば最近は、通り魔事件も多発していて、犯人がまだ捕まっていないのだとか。まさかこんなタイミングで、ここに来るのか。ありふれたハロウィンの日に、ありふれた学校へ。そんなことが。

 ずるずる、ふらふら。そんな足取りで歩いている不審者に、私は焦燥を感じた。

 とにかく、先生か事務員さんか、誰でもいいから、知らせないと。

 走りだそうとしたとき、その不審者と、目が合った。

 と、雷が落ちる。



 それは、不審者が私に襲いかかってくるビジョンだった。



 数瞬、私の体は恐怖によって強張り、どうしていいのかわからなくなる。そこで怯えてしまったことから、私はせっかくの数秒のアドバンテージを無駄にした。結果、私がやっとの思いで逃げの一歩を踏みだしたのと、その不審者が私のほうへ走りだしたのは、同時のこととなってしまった。

 運動不足の女子高生の脚力など、高が知れている。通っている高校の敷地内という地の利はあっても、とっくに成人していそうな男の脚には、どう足掻いたって敵わない。足音がどんどん近づいてくるのを感じながら、私は懸命に走った。

 そのとき、目の前に、逢木くんが飛びだしてくる。


「別守さん!」


 彼の声は怒気を孕んでいたけれど、私の背後を見て、目を見開く。私は咄嗟に、助けて、と言おうとして――そのとき、逢木くんが不審者に襲われるビジョンを見た。


「走って!」


 私は彼の腕を掴み、走っていた勢いのまま、その場から離れようとする。

 しかし、トップスピードでここまで来た私と、小走りで来た逢木くんとでは、勢いに差があった。いきなり引っ張られた逢木くんはつんのめり、逢木くんという重りができたことで私は勢いをなくした。

 おかげで私たちは、不審者に追いつかれてしまった。


「あ、ぶ、離れてて!」


 逢木くんは私を押しやることで、不審者から遠ざけようとしてくれた。不審者は逢木くんに向かって、包丁を振り上げた。逢木くんは、まるで見切っていたかのようにそれを避けて、包丁を持つ相手の手首を押さえこむ。二人の力は拮抗していたけれど、逢木くんの顔はりきんで真っ赤になっていた。切迫した状況だった。


「……っわ、たし、警察呼ぶから!」

「もう呼んでる!」逢木くんは叫ぶ。「いいから逃げろ!」


 でも、だって、逢木くんが。

 そのとき、不審者の力に逢木くんが押し負けた。逢木くんは吹っ飛ばされて、数歩たたらを踏む。不審者が視線と包丁を逢木くんに向けたとき、がら空きだった右肩めがけて、私は突進した。

 見事に吹っ飛んでくれた不審者だが、包丁は手放していなかった。私は、突進させた肩を撫でながら、逢木くんに「早く逃げよう!」と声をかける。

 すると、勢いよく頭を振りかぶった不審者が立ち上がる。沙奈々ちゃんの描いた魔法陣を蹴った不審者は、私目がけて包丁を振り下ろしてきた。

 殺される。

 そう思ったとき、反射で、私は腕をクロスさせた。本当は逃げるほうが賢明だっただろうに、とりあえず身を守らなければと、頭を防御する姿勢を取った。けれど、それが功を奏し、いや、を奏し――右手首につけていたビクトリノックスが、包丁から身を守ってくれた。硬質なビクトリノックスは包丁の刃を防ぎ、なんなら弾いたくらいだった。甲高くもおぞましい金属音が鳴り響く。衝撃に手首が震えた。

 そのときまみえた不審者の目が、全身を激流したこれ以上ないほどの恐怖心が、私にいかずちを落とす。

 ビジョン――いや、フラッシュバック。



『――あ、ぶ、離れてて!』


 私が不審者に襲われそうになっているところを、逢木くんが見つけてくれた。逢木くんは、私を自分の背中に押しやって、不審者から守ろうとした。不審者は逢木くんに向かって、包丁を振り上げた。逢木くんはなんとかそれをかわそうとするも、避けきれなかった刃が腕を掠めた。

 逢木くんは低い悲鳴を上げて、腕を押さえこむ。深緑のブレザーの袖が、だんだんと赤黒く染まっていく。


『あ、ああ逢木くん!』


 私は恐れおののいて、立ちつくしてしまった。

 逃げたい気持ちでいっぱいだったけれど、逢木くんを置いてはいけない。


『……っわ、たし、警察呼ぶから!』


 即座に携帯スマホを取りだしてロックを解除しようとする。9999。バイブ。ナンバーが違う。解除できない。私は焦る。9999。9999。開かない。何度も9を連打するけど、いずれは〝五分後にお試しください〟の文字が画面に映しだされた。


『あ、あ、あ』


 私は涙目になって逢木くんのほうを見遣る。

 逢木くんは歪んだ表情で、それでも私を逃がそうとしてくれていた。


『いいから逃げて!』


 でも、だって、逢木くんが。

 そのとき、不審者が逢木くんの腹を蹴った。もろに食らった逢木くんは吹っ飛ばされて、お腹を押さえてうずくまる。不審者が視線と包丁を逢木くんに向けたとき、がら空きだった右肩めがけて、私は突進した。

 見事に吹っ飛んでくれた不審者だが、包丁は手放していなかった。私は、うずくまったままの逢木くんをなんとか立ち上がらせようと、『早く逃げよう!』と手を貸した。

 すると、勢いよく頭を振りかぶった不審者が立ち上がる。沙奈々ちゃんの描いた魔法陣を蹴った不審者は、私目がけて包丁を振り下ろしてきた。

 殺される。

 そう思ったとき、反射で、私は腕をクロスさせた。私の腕に、ビクトリノックスはなかった。包丁はいとも容易く私の腕の皮膚を割き、骨を砕いた。


『いっ、ああぁあ!!』


 あまりの激痛に悲鳴を上げる。

 不審者は私の腕から包丁を引き抜き、その顔に血飛沫を浴びた。

 怯んだ私に向かって、何度も何度も、包丁を突き刺す。私は痛みと恐怖にまみれて、悲鳴だけを叫びながら、そして、そのまま。

 そのまま――――



「……死んだ?」


 永遠にも感じられた刹那を彷徨さまよっていた私を、逢木くんは腕を引くことで呼び起こす。


「走って!」


 今度は逢木くんがその言葉を言った。私の腕を引きながら、旧校舎のほうへと走っていく。もちろん、不審者は追いかけてくるけれど、弾かれた包丁の振動により右腕が痺れているらしく、そちらに気を取られ、うまく走れずにいるようだった。

 逢木くんは旧校舎に入ると、階段を駆けあがっていった。二階の元第二会議室のほうへと向かう。そのまま、オカ研の活動外時間は当然閉まっている元第二会議室を無視し、その隣にある準備室の窓に手をかけた。準備室の窓の鍵は壊れていて、外側から簡単に開けられるようになっているのだ。


「入って、早く」


 切羽詰った逢木くんの声に押されるように、私は窓枠に身を乗り出し、足をかけるようにして、準備室の中へと入った。逢木くんもそれを追い、準備室の中へと入る。

 逢木くんは自分たちの入ってきた準備室の窓を閉めて、接続した元第二会議室へのドアの前にしゃがみこんだ。ドアの前にあるマットの下には、元第二会議室に入るための予備の鍵が隠されてあるのだ。これはオカ研の部員ならみんなが知っていることだった。

 逢木くんは元第二会議室の扉を解錠し、中に入るよう促した。そして、二人が侵入したあと、その扉の鍵を内側からかけて、誰も入ってこれないようにする。密室完成。

 もしも不審者がこの階のこの部屋にいるとわかっても、入ってくることはできない。もちろん、窓を割られてしまったら終わりだけれど、少しの時間くらいは稼げるはずだ。

 私たちは、荒くなった息を落ち着かせる。地べたにしゃがみこむと、中途半端に落とされたモールや、パーティーグッズ、お菓子のゴミなんかが落ちていた。

 息も落ち着いたころ、私は、逢木くんへと視線を向ける。


「……あ、貴方は、知ってる?」


 眼球に、脳裏に焼きついている、痛みと恐怖。本物だ。私は、無数の包丁を身に受けて、あの旧校舎前で死んでしまった――これは、未来予知などでは、ビジョンの中の出来事などではない。

 あのとき、私はたしかに死んだ。

 私は覚醒し――やっと、わかったのだ。


「私があのとき、死んじゃったこと、知ってるの?」


 逢木くんは悲痛な表情を浮かべて、ようやっと吐きだした。


「覚えてたんだね」

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