第6話 1030

 朝のテレビに映るのは「明日はハロウィンですね」と告げる女性アナウンサー。今日は十月三十日。都会では、コスプレした大勢の若者による夜の徘徊が懸念されているらしく、交通機関への影響やゴミ問題についても言及されていて、マジでごもっともと頷くしかなかった。ハロウィンなんてすべからくなくなっちゃうべきなんだよ。普段は気にもしないような自分と関係のないところに当たり散らかしたくなるのは、ここ数日の私の機嫌があまりよろしくないからである。

 制服に着替え、登校準備万端の私は、最後の仕上げとして、右手首にビクトリノックスをつける。そのまま家を出て、通学路を歩んだ。あちこちがハロウィンカラーで、妙に浮かれているのにも腹立たしさを感じる。そんなふうに、私はもやもやもやもやしたまま、その日、登校したのだった。

 こんなに腹が立ってしまうのは、なにを隠そう、逢木くんのおかげだ。基本的に最近の私の情緒は逢木くんが原因である。

 三限目の授業を休んで語らった先日の出来事――あれが奇跡で、超常現象であることに、私はようやっと気づいたのだ。

 あの日から今日までの数日間、逢木くんは、〝僕も君と話せたらと思ってたんだ〟なんてことを言ってくれた人間とは思えないほど、これまでどおり、もしくはそれ以上の、私との無関係を貫いてくれちゃったのだ。負けじと私も食らいつき、ちょっかいをかけには行ったのだが、話をするのは瞬く間で、会話はあっけなく途切れていく。

 もちろん、ビジョンを裏切るのも健在だ。目が合って、ビビッときたとしても、逢木くんが私に告白してくる兆しはない。なんでだよ。私に恋してるんじゃないのかよ。

 さすが、一筋縄ではいかない男、逢木直流。

 期待を裏切らない……いや、期待もしていない淡白さだよ畜生。

 今日も今日とて、教室の隅の逢木くんは、教室の隅の私の視線に気づくことなく、生野とやらたちと、なにやら楽しそうに会話している。それとは対称位置かつ対照的に、私はむくれっ面でいちごカフェを飲んでいた。


「ああ、もう、懐ちゃん。また足開いて! 音立てて飲むのも、睨むのもだめだよ。全然かわいくないよ」


 私は足を閉じ、いちごカフェから口を話し、緩やかな目つきで、前の席の依本を見た。


「……恋ってなんだと思う?」

「いきなりだね、懐ちゃん」


 そうは言っても、依本は嬉しそうだった。

 まあ、この子は私と話すとき、いつも嬉しそうなんだけど。


「恋っていうのは、素晴らしいものだよ」依本は両手を組み、夢見心地の様子で続ける。「世界が金ぴかに輝いて、そのひとのためならなんでもしてあげたくなるの! 多分!」

「多分」


 依本の話って、実はなんやかんやであてにならないんだよねえ。私と同じで考えるの苦手だし、言うこと超絶ふわふわしてるし。


「私にとっては、恋は不思議なものなんだ」

「まあ、たしかに、不思議でもあるよねえ。多分」

「多分」


 本当に超絶ふわふわしてる。依本にとって、それだけはたしかなようだ。


「そういえば、言ったっけ、懐ちゃんに、私の初恋の王子様」

「小二のときに中国旅行の兵馬俑ツアーで見つけたハンサムな兵士」

「それはノーカン。小三のときに飼育小屋で見かけた美形な壁のシミもなしだよ」

「依本、貴女って、恋に向いてないんじゃないの? 話せもしない相手ばっかり」

「薄々そう思ってる」きらきらの睫毛を伏せ、依本はため息をついた。「初恋の王子様もさあ、結局は夢に出てきた黒人の不良だったし……いままで付き合ってきたひとたちだって、そんな、ハチャメチャ好きってわけじゃなかったんだよねー」

「なるほど。依本は永久に恋愛ができなさそうだ」

「判定としてはグレーだよ。懐ちゃんじゃなかったら殺してる」


 ヒェッ。今回はエクレアとは言ってないのに。

 依本からの愛を感じながらも、私は尻ごみをした。

 その肝心の依本は「はあ」と青色のため息をつき、「恋とはどんなものかしら」と呟いた。会話から滲み出てたけど、依本にも、恋とはなにかなんてわからないらしい。


「ちなみに、懐ちゃんはどうなの? これまで付き合ったこととかあるんだっけ?」

「ない」

「告白されたことは?」

「これからされる予定」

「ウケる」


 ウケんな。

 でも、予定は未定だし、不確定だし、かれこれ一ヶ月近くは裏切られ続けてるんだよなあ。もう、逢木くんから告白されるビジョンを見ても、どうせされないんだろうなって、思うようになってしまった。どうせ言ってくれないんだろうなって。だから、すごく言わせたいんだけど、逢木くんは相変わらずだし。

 ……いっそ私から告白してみたら、なにかが変わってくれるのかしら。


「懐ちゃんのロックナンバーが変更される日は、まだまだ先だね」


 依本は、机の上に出しっぱになっていた私の携帯スマホを掴み上げる。ボタンを押して、起動させた。


「メッセージ来てるよ」

「……誰から?」

「オカ研のグループLINEからだよん」依本はロックを解除して――ロックナンバーまで知らせている相手だ、いまさら弄られることは気にならないない――トーク画面を開く。「明日部活休みだから、本日部室で早めのハロウィンパーティーをしましょう、だってさ。四時までに部室に集合」


 へえ、今年もやるんだ。去年はやったけど、今年は全然話に上がらなかったから、てっきりやらないと思っていた。だけど、いくら部活があるとはいえ、普通そういうのって当日には話さないでしょ。藻場くんと脇沖くん、そんなんで来年大丈夫かなあ。まあ、今年もみんなとワイワイできるなら嬉しいけど。

 私は依本に言う。


「了解のスタンプ押しといて」

「はいはーい。ど、れ、に、し、よ、う、か、な」


 私の保持する数ある中から、最適なスタンプを依本は選んでいる。そんな動作さえ楽しそうだ。私は課金とか普通にするタイプだから、依本よりもずっと多くのスタンプを持っているため、新鮮なのだろう。彼女の人差し指はゆらゆらと揺れている。

 そのとき、私の携帯スマホがバイブし、新しいメッセージを受信した。


「ん、追加連絡?」

「ううん。伊蘭坂先輩ってひとから」


 げっ、またかよ。と、私の内心は不貞腐れた。

 そして、面倒な先輩の名前を聞いたことにより、先日、逢木くんと授業をサボったときにした話を、私は思い出した。

 回想すると、以下の内容である。


「別守さんは、伊蘭坂先輩に告白されたりしたら、どうする?」


 ずぽっと、飲んでいたいちごカフェがストローを逆流した。

 私はそのとき、とてつもなく驚いていた。

 たしかに、ついさっきまでそんな感じの話をしていたし、延長線上の話題としては、まあ、さもありなん、といった話題だったけれど――先輩が告白してくるなんて、そんなこと、ないと思っていたからだ。

 だって、先輩、彼女いるんだよ? 彼女と別れたって話も聞かないし。いくら先輩でも、告白まではしてこないでしょ。あの先輩の好意がそこまでのものとは思っていない。思っていないから、私はもやもやしているわけだし。

 ていうか、逢木くんから告白ネタを振ってくるなんて、いきなりなんなんだい。まさか、これは、自分の好きなひとに対する調査かな。もしも告白されたらなんて返答するの、という。だとしたら失敗だよ逢木くん。告白されるにしても、相手が先輩なら答えはノーだよ。もっと質問の仕方は選ばなきゃだめだよ。

 へらへらと笑っていた私に、逢木くんは真剣な表情で、悟すように告げるのだ。


「わかんないよ。もしもってことがあるかも。こんなにしつこい先輩なんだし」


 この話、まだ続くのかな。私と逢木くんの温度差が違いすぎて戸惑ってしまう。


「本気かどうか、どういう意図なのかはともかくとして、もしもその先輩から告白されたらどうする? 別守さんは、気になるひとも、好きなひともいないんだろ?」

「……好きなひととしか付き合いたくないよ」


 告白されたから付き合ってみる、なんてこともあるだろうけれど、少なくとも私は嫌だ。

 嫌じゃだめだ。嫌々でもだめだ。私はただ、好きなひととだけ、恋をしたいのだ。

 逢木くんなら悟ってくれると思ってたのに。

 よりにもよって貴方がそんなことを言うんだ。

 私がそういう目線を送ると、逢木くんは「ごめん」と謝ってくれた。逢木くんにも逢木くんなりの思惑があったようで、「だけど、」と言葉を続ける。


「そういうことがあるかもしれないって、一応は、身構えておいたほうがいい……一寸先は闇って言うだろ? 人生、なにがあるかわからないし」


 まさか人生にまで発展するのか……でも、真剣な表情でそう言われると、たしかにそんな気もしてくる。ないと思っているのは、ないと信じたいだけなのかも。

 弱気になった私は、自意識過剰もいいところな妄想を繰り広げる。

 先輩が私に告白、かあ。


「絶対やだな」


 抱いたのは失礼千万な感想だったけれど、それぐらい嫌だった。

 もし、本当にそういうことを望まれているとして、そしたら、きっとこれまでのこと全てに理由が見出せるんだろうけれど――たとえそうでももう手遅れなのだ。


「少なくとも、あれは好意の皮を被った悪意じゃないの。嫌」

「断る?」

「断るに決まってるよ」

「決まってる……か」

「それでもやっぱり、先輩が私に告白してくるとは到底思えないけどね」


 ていうか、そういう逢木くんは告白してくれないわけ?

 そんなこと言えるはずもないので、そのあとは、最近のドラマだとか、ラジオで聞いたなぞなぞだとか、あとは、最近起こっているらしい通り魔事件についてだとか、そんな他愛もない話を一時間丸々しゃべりまくって、私たちは次の休み時間、教室へと帰還したのだ。

 以上、回想終了。


「……依本。先輩、なんて?」


 私はおずおずとした気持ちで、私の携帯スマホを弄っている依本に聞く。


「今日のハロウィンパーティーにこの先輩も来るんだって」

「へぇーん」


 私はいちごカフェを口に含み、ゆっくりと飲みこんでいく。

 伊蘭坂先輩、本当になにがしたいんだろう……参加表明なら、オカ研のグループで話せばいいことじゃん。わざわざ私に話す意味ある? みんなに伝えとけって、そういうこと? それとも逃げるなってこと? ……だめだ。自意識過剰だけじゃなくて、ついには被害妄想まで。


「それで、懐ちゃん。なんてお返事すればいい?」

「適当なスタンプ送っといて。あ、でも、かわいいスタンプは送らないで」

「どういう注文?」


 そうは言いつつも、依本は従順に、私のリクエストを守ってくれたようだ。数秒後に、「お相撲さんかな」という呟きが聞こえたので、おそらく力士が四股しこを踏んでいるスタンプを送ってくれたのだろう。依本はオフにした状態で、携帯スマホを私へと返してくれる。


「明日はハロウィンだね、懐ちゃん」依本は嬉しそうに笑った。「チョコチップざくざくのクッキー、楽しみにしててよね」


 帰ったら早速作るんだ、と依本はにこやかに話してくれた。

 そして、放課後である。

 オカ研のハロウィンパーティーの時間が始まる。掃除当番を終わらせた私は、予定の四時のニ十分ほど前に、オカ研の部室である旧校舎の元第二会議室に到着した。入ってみると、いち早く到着していた部員たちが、ハロウィンパーティーのセッティングをしていた。


「魔女の帽子じゃん」


 金色と紫のモールを天井にくっつけていたじめじめの頭を見て、私はそう呟く。


「家近いからね、せっかくだから一旦帰って、仮装道具持ってきたの! 私の家、毎年イベントごとで買ったりするから、こういうの有り余ってて。つけたかったらそこから取ってっていいよ」


 じめじめはテーブルの上に置かれた段ボール箱を顎で指す。

 私はそれに近づき、物色させてもらった。

 わっ。面白い。帽子に猫耳に、覆面まである。私が惹かれたのはエイリアンの覆面だ。先っぽに星のついた触覚がついているやつで、動くたびにビヨンビヨン揺れている。けっこうかわいいかもしれない。

 じめじめと同じ魔女の帽子でもよかったけど、私は興味本位で、その覆面を選ぶ。

 頭から被って部室を見渡す。思いの外、視界は開けていた。周りがよく見える。でも、ちょっと臭いことと、お菓子が食べられなさそうなところが難点か。


「ねえ、じめじめ、似合う?」

「似合う。あとで写真撮ろ」

「おーい、脇沖ー! パイ投げ用のチョコレートプディングパイ買ってこよーぜ!」

「オッケイ」

「えっ、聞いてないんだけど、パイ投げすんの?」

「する! 力入ってるだろ?」


 入れすぎだと思ったけど、なんか面白そう。でも、制服汚れるだろうな。こういうのって、だいたい女子は不参加でいいよね。それでも、もしプディングが飛んできて、ビクトリノックスがべたべたになったら。そう思うと、この時間は外しておいたほうがいい気がした。

 私がビクトリノックスに手をかけたとき、部室のドアがガチャリと開いた。


「よう! 急拵えのわりには準備は順調そうだな」


 伊蘭坂先輩だった。先輩は、天上にぶら下がったモールや、窓に貼られたジェルシールを見て、そんな感想をこぼした。飾りつけていた部員たちの「こんにちは」という声に手を振る。そして、一番近い距離にいた私を見て、目を見開く。


「えっ、これ、誰?」


 宇宙人の覆面を被っているのだから、もちろん顔は見れない。制服から女子ということはわかるだろうが、女子部員の人数は総部員数のおよそ半数だ。割りだすのは困難だろう。先輩の反応は、当然と言えた。


「……あ、その時計」


 しかし、先輩はビクトリノックスをつけているほうの私の腕を掴みあげた。いきなりのことにびっくりした覆面越しの私の目を、面白そうに見つめてくる。


「懐か!」

「ははは、正解です」手を離してくれないかなあ、という意味もこめて、私は身を捩った。「どうも。部屋中の飾り、すごいですよね。じめじめや藻場くんが、いろいろ持ってきてくれたみたいで」


 けれど、先輩はいつまで経っても離してはくれず、「ああ、すごいな」と話すだけだった。

 なんで。なんで私、ずっと掴まれたままなのよ。


「わ、私たちも、飾りつけのお手伝いしましょうか」


 やっとのことで、先輩は「おー、そうだな」と私を解放してくれた。

 ビクトリノックスを鞄にしまった私は、小走りでじめじめと合流し、飾りつけを手伝う。

 部活でこんなにしんどいのって、本当にしんどいなあ。あと数ヶ月で、伊蘭坂先輩はいなくなる。それまでの辛抱だとも思うんだけど、もやもやするのはストレスだ。逢木くんといい、伊蘭坂先輩といい、不可解な行動をするひとばっかり。もちろん、並べてしまったとはいえ、この二人じゃ全然違うくて――逢木くんと伊蘭坂先輩のなにが違うのかは、言うまでもないのだけれど。

 準備も完了し、人も揃ってきたところ、ちょうど予定の午後四時。

 私たちオカ研はハロウィンパーティーを開始した。

 みんなが買ってきたお菓子は、ポテトチップスなどのスナック系から、チョコレートやキャンディーなどの甘いもの。ラムネ、グミ、果てはおつまみや珍味など、多種多彩だった。今日突然決まったパーティーのはずなのに、こんなにお菓子が集まるなんて。みんなけっこう楽しみにしてたんだなあと思った。

 聞いていた伊蘭坂先輩だけでなく、普段来ない三年生の先輩や、敬井部長までいる。なんと敬井部長は、部員全員にコウモリ型のクッキーを作ってきてくれていた。かわいくて食べるのがもったいなかった私は、それを鞄の中に入れる。


「誰だよ、チーズ鱈買ってきたやつ、優秀!」

「ハロウィン感なくない?」

「大丈夫。このあとパイ投げするから」

「それのどこがハロウィンなんだよ」部員の一人が声を張りあげて言った。「オカ研部員なる者、ハロウィンがどんな文化か、わかってて当然だよなあ~?」


 ここで、いつものオカ研の空気が漂い始める。

 なんだっけ。ハロウィンは、死者の霊が現世を訪れるんだっけ。ケルト人の風習や文化だった、っていうのは覚えてるんだけど、詳しい内容は知らない。日本では、もうほとんど仮想大会みたいになっちゃったし、お菓子を交換しあう程度の行事でしかない。

 しかし、覆面だとお菓子が食べにくいなあと思いつつ、私は突然始まったディスカッションどんちゃんさわぎを眺めていた。そのディスカッションは十分ほど続いていたが、「パイ投げいくぞ」という声で一旦お開きとなった。

 噂のパイ投げだが、やはり、参加するのは男子だけのようだ。ビニールで覆われたスペースに移動し、体操服に着替えた男子部員たちは、力いっぱいパイを投げまくった。私たち女子部員はそれを動画に収めながら笑っている。熱気に舞い上がり、テンションはハイへと突入していた。


「あの……別守先輩ですよね?」


 楽しみながらパイ投げを眺めていると、沙奈々ちゃんがするっと私の隣に立った。


「よくわかったね」私は沙奈々ちゃんのほうを振り向く。「さては、私のことが好きだな?」

「いちご系のお菓子ばっか食べてたんで」

「やっぱり私のことが好きだな」


 しみじみとそう思っていたが、沙奈々ちゃんは「意味わかんないです」と紙コップに入ったカボチャジュースを飲むだけだった。私は「ふうん」と呟いてから口を開く。


「沙奈々ちゃんが、カボチャジュースとかにんじんパウンドケーキとか、野菜の入ったものが好きなのを、私は知っているわけだけど、どう? 意味わかっちゃった?」

「わかんないです」にべもなくそう言った沙奈々ちゃんは、ていうか、と言葉を続ける。「その覆面なんなんですか? 一瞬誰かわかんなくてドキッとしました」

「ああ、これねえ……」


 そう言いつつ、私は頭をぶんぶんと振った。頭の上で二つ、触覚が揺れている気配がする。


「ほら、かわいくない?」

「キモッ……」


 沙奈々ちゃんは普通に引いていた。せっかく話しかけてくれたのに、彼女はしずしずと下がっていく。どうやら沙奈々ちゃんとは気が合わないらしかった。でも、私は沙奈々ちゃんのことが好きだから、そんなのどうでもいいんだけど。

 私は頭をぶんぶんと揺らしながら、沙奈々ちゃんをかまいにかまった。沙奈々ちゃんはささっと逃げてしまうんだけど、そのとき髪がふわふわ揺れるのがかわいくて、私はなんだか幸せな気分になった。

 しばらくして、パイ投げは終了した。チョコレートプディングまみれになった男子部員たちは、濡れタオルやお手拭きで拭い取り、準備室へと着替えに行く。その跡を女子部員が片づけることになった。

 みんな席に着き、次の余興へと移る。

 くじを引いた人間が、くじに書いてある命令に従い、アクションを行う、というものだった。ちょっとした命令ゲームを想像すれば、わかりやすいかもしれない。藻場くんたちが即興で用意してくれたのだとかで、ティッシュケースだった箱には、小さく折りたたまれた色紙が入っている。紙吹雪のようでかわいかったけれど、それにどんな指示が書いてあるのかと我に帰れば、なかなかに怖い状況ではある。


「では、トップバッターは、はじめちゃん!」


 いきなり指名されたじめじめは、「えっ、私!?」と裏返った悲鳴を上げる。戦々恐々と箱に近づき、黄色い色紙を手に取った。パラリと開いて、「うっわ」と嘆き笑う。


「なんて書いてあったの?」

「〝十秒間、渾身の変顔をする〟」


 その命令内容に歓声と笑い声が上がる。

 じめじめは顔を赤くしながら、鼻と目の周りの筋肉をこれでもかと言うほど動かし、渾身の変顔を披露してくれる。その出来栄えは、全員が思わず写メったほどだった。

 なかなか面白いではないか。

 このネタで、最低でも一週間は、じめじめをからかうことができるだろう。

 タスクを終えたじめじめの「……ちょ、みんな消してよ!」という悲鳴を無視し、藻場くんは「では次に参りましょう!」と進行させる。

 その後、先輩、後輩の分け隔てなく、全員が指名され、ちょっと恥ずかしい命令を受けていった。幸いにも私は選ばれることなく、笑いながら眺めることができた。楽しい時間だった。


「伊蘭坂先輩、お願いします!」


 次に指名されたのは伊蘭坂先輩だった。先輩はぶんぶんと腕を振り回し、藻場くんのほうへと近づいていく――不思議なことに、なんとなく、嫌な予感がした。

 心のざわめきというものを、私ははじめて実感したかもしれない。本当にざわめいているのだた。やめてって震えでもしているかのように。その感覚が奇妙で、少しだけ怖い。どうしてそんなことを考えてしまうのだろう。

 私は伊蘭坂先輩の選んだピンクのくじを凝視する。

 そのとき、ビビッと、見えた。



――開かれた先輩のくじを覗きこんだ藻場くんが、叫ぶ。


『好きなひとに告白してください!』


 ざわっと騒ぐ声の波。飛び交う視線。じめじめの言った『彼女さん呼んでくる?』というからかいの声は、夥しい動揺の声に掻き消されている。口笛。持て囃すようなかけあい。研ぎ澄まされていく部屋の温度。


 先輩は『えー! なんだよこれ!』と笑っている。しかし、照れている様子は見受けられない。いつもの悪ふざけに便乗したかのような、先輩らしい笑顔。ふいっと、その目が――どういうわけか――私を射抜いた。

 そのことに気づいた部員たちが一斉に口を閉じる。あらゆる色合いを孕んだ目が私へと集中している。居心地が悪い。しかし、それよりも居心地を悪くさせるのは、先輩の、どこか試すような、戯れるような、悪質な視線。

 いや、射線だ。

 安全圏から突きつけられた銃口。


『……懐。好きだ。俺と付き合ってくれ』



 言いようもない感情が、全身を走った。

 億倍速で開ききった花のように、一瞬にして体の芯は冷え、急速に熱が広がっていった。

 信じられない。処理が追いつかない。ひどい凌辱だ。冗談だったとしても、こんな真似はひどい。え、なんで、だって貴方、付き合ってるひとが。そんな、気分のよくなった部員がいるうえで、たくさんの目上の人が――先輩いる中で、観衆を味方につけた状況下で、私を完全に囲いこんだ。真面目に受け取るか、ふざけたととるかは私次第で、どんなふうに答えればいいかなんてわかるわけがないのに。圧迫感。気持ち悪い。恥ずかしい。酷いよ。なんで。私がどれだけ傷つくのかもわからないの。頭に血が上ってまともな判断ができない。冷や汗が。どうすればいい。みんなに変な目で見られる。顔を出せなくなったら。恨まれてしまったら。波風が立ってしまったら。だからって、私は律儀に、その告白を、待たなくてはいけないの?

 なにも知らないふりをして、耐えていることなんて、ただ待ち受けていることなんてできない。絶対いやだ。震える手をギュッと握りしめる。


「えーと、命令の内容は、」


 刻一刻と、その確定事項は近づいてくる。

 素早く、駆け抜けるような数秒。


「好きなひ」「あああああああ!!」


 怒鳴り散らしたい思いのままに、私は、咄嗟に声を上げた。

 ほとんど奇声だった。

 張りあげた声は部屋中に響いた。それぐらい張りあげなければ、意識を私に手繰り寄せられないと思ったからだ。手繰り寄せて、中断させるための大声だった。

 だから、みんながみんな驚いて、私のほうを振り向いたのは、まさに思惑どおりだった。ただし、手繰り寄せたその先を、考えているわけではなかった。考えみずな行動だ。それぐらいわたしは切羽詰っていて、必死だっただけだ。だから、私は今まさに、この状況をどうにかせんと、あってないような脳みそをフルで回転させた。


「……すみません」打算は弾きだされた。「私、用事を思い出したので、帰ります」


 突飛な発言に、ほぼ全員が「えっ」と反応した。

 私はそのあいだも帰る支度をしていたので、みんなの顔色は見えなかった。見るのが怖かった。見られるのも怖かった。覆面をしていたのが唯一の救いだった。自分でもどういう表情をしているのかわからなかった。ただ、酷い顔をしているだろうことは確実だった。

 驚きながらも敬井先輩が「え、と、用事って?」と尋ねてきたので、マシンガンの勢いで「歯医者です。五時半から予約していたのを、忘れてました」と答える。もちろん嘘八百だった。そこからも「もう少しもいられない感じ?」というお声をいくつか頂戴したけれど、「無理、ごめん」と私はきっぱり言った。

 この場にとどまっていることが怖かった。ここにいたら、あのビジョンどおりになってしまう。もしかしたらすぐに余興が再開されるかもしれない。みんなが混乱しているうちに、立ち去ってしまいたかった。

 私は挨拶もそこそこに、大急ぎで部屋を出る。そのまま廊下を走って去った。そんなことはありえないのに、誰かが追いかけてきたらどうしようと思いながら、俯いて、逃げだした。

 徐々に冷めていく体。脳みそ。それでも私の心は完璧に侮辱されていて、傷ついていて、その傷口からじわじわと熱が上がっている。

 もしもあの場に残っていたら――どう答えたかは私には予想もつかないけれど、それでも、先輩に撃ち殺されてしまう可能性は十分にあった。

 なんであんな場面で、あんなことをするの。あんなふうに、脅すみたいに、搾りとるみたいに、求められても困るのだ。そもそも私は求めていない。

 私の求める告白は、先輩からではないのに。

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