第5話 1025
二限目の休み時間に購買を利用する人間はそういないので、校舎から購買までの道のりも、目当ての購買部にも、ほとんど人がいない。おかげで、私は移動することができたし、こいつあラッキーと鼻唄を歌いながら歩くこともできた。そんなふうに、いちごカフェをじゅうじゅうと吸いながら中庭を歩き、購買部を目指していたとき、その超常現象は起きたのである。
あの逢木くんが、私に話しかけてきただって?
こんなのはじめてじゃないか!
「……はじめましてじゃないか!」
「えっ」
混乱しながら弾きだされた――それも誤って弾きだされた――私の言葉に、逢木くんは顔を強張らせる。いつも落ち着いていて、どこか余裕のある彼にしては、珍しい表情。それがなんだか面白くて、ついついじっと眺めてしまう。眺めながらも、「ううん。嘘、嘘。ウッソピョーン。ぶいぶい」と返事をした。ついでに、いちごカフェを持っていないほうの手でピースサインを作り、左右に揺らした。初めてのことだったから、驚いているだけじゃなく、テンションまで上がってしまっているらしい。
そう親しくもない人間からこんなノリのいい返答の仕方をされれば、そりゃあ誰だって引くに違いないのに、意外にも逢木くんは引くことなく、私に歩み寄ってきただけだった。
「別守さんも購買?」
まるで、一緒に行こうよ、という副音声でもついていたかのように、そして私がそれに了承でもしたかのように、逢木くんは自然と、私の隣に並ぶ。
お、おう、いいけどよ……私は頷きながらも内心びっくりである。
だって、本当に、いきなりのことだったから。逢木くんから話しかけられたことも、隣に並ばれたことも、これまで一度もないんだもん。いつも私から話しかけて、私から隣に並んで、そうやって、これまで彼とコミュニケーションを取ってきたから、今の状況が、というか、どうしていいのかが全然わかんない。
だけど、でも、私には思い当たるフシが一つだけあった――昨日の、生野とやら呼びだし事件である。
あんな作戦どうせ無駄だって半ば諦めていたのだけれど……はっはーん、さては、逢木くん貴方、内心メチャクチャ焦ってるな? これまで幾度となく私に告白フェイントをかましてきてくれたわけだが、さしもの逢木くんにもその余裕がなくなったと見える。どうしよう! 僕の別守さんが取られちゃう! ってな具合に。その証拠に、ほうら。
「……そういえば、別守さん。昨日のあれ、なんだったんだ?」
逢木くんウルトラ気にしてるー!
私は内心でしめしめと思いながら、そんなかわいげのない心根を顔には出さないよう、歩きながら逢木くんに返事をする。
「あれって、なんだっけ」
まずはすっとぼけて見せた。なんのことかしら。私にはさっぱり。そう、まるで、先日のあれが――私にとってもない脳みそをフル回転させられたあの珍事が――私の中では大したことではないかのように振る舞った。少なくとも、貴方にはまったく関係がないから、なにを聞いているのか心当たりがない、とでも言いたげに、純真に振る舞った。
「えっと、ほら、放課後に……生野を呼びだしてたやつ」
「ああ」
続いて、私は曖昧に頷き、逢木くんを焦らしてやった。ここで簡単に口を割っては旨味がなくなるというものだし、いっそなにか別の話題に挿げ替えてやろうかと思ったくらいだった。
しかし、伊達に沈黙を破った心持ちではないということか――逢木くんは、こちらを伺うように微笑みながら、問いかけを重ねる。
「生野に聞いても、要領を得なくってさ。気になって」
「気になった? なんで?」
なんでなんでなんで、と重ねたかったけれど、あんまりグイグイいくのもなあ、と思い、私は我慢した。我慢するのに足るだけの、優越と多幸感があった。
「別守さんと生野、別に委員会が一緒とか部活が一緒ってわけでもないし、そんなに話すほうでもないのに、なにかあったのかなって……普通は気になるだろ?」
普通は、と付け加えることで、自分の疑問を正当化し、これ以上私が拒むのを、先回りするように阻止した。なるほど。逢木くんは処世術に長けている。
私も、こういう駆け引きを現在進行形でやっているわけだし、苦手なほうではないとは思うんだけど、頭の弱さは
しょうがない。ここは素直に白旗を振ってやろう。
貴方が素直になってくれたから、もうそれだけでじゅうぶんいいよ。
私は「大したことじゃないよ」と素直に口を割った。
「ただ、ちょっとビクトリノックスの話をして、あとは後輩を紹介して、終わり」
「終わり?」
「うん」
一切の脚色のない、純度百パーセントの事実を述べただけなのに、なんだか、妙な勘繰りをされそうな発言になってしまったなあ。逢木くんの「別守さんの腕時計と……後輩?」という不可解そうな呟きを聞き、私はそう思った。
けれど、逢木くんがそれ以上を尋ねてくることはなかった。おそらく、この情報だけで考えうるであろう、〝その後輩と我が友を引き合わせようとした目的〟を聞かなかったところが、逢木くんの品位なのだろうな、と思った。目的もなにも、沙奈々ちゃんは巻きこまれただけだし、生野とやらなんてもっと巻きこまれただけなのだが。
逢木くんは、その落ち着いた眼差しを伏せ、咀嚼するように考えこみ、納得したころに私のほうを見た。
「そっか。変なこと聞いて悪かった」
「なにも変じゃないし、謝るようなことでもないよ」
むしろ嬉しかったよ、だから早く告白してきていいんだよ、と私は思わずはにかんだ。逢木くんも優しげに笑い返してはくれたけれど、告白してくるようなことはなかった。まあ、こんなところでいきなり告白されても、ムードもへったくれもあったもんじゃないけどね。
購買部に着くと、私はフルーツサンドを、逢木くんはコーヒーゼリーをそれぞれ購入した。逢木くんもおやつを買いにきたのかと思うと、お揃いな気がしてなんとなくむず痒かった。せっかくなのでと帰り道も一緒になった。未だかつてないほどの時間共有に、私はいたたまれなくなっていた。
そんな私の心境を察してか、逢木くんは少し控えめな様子で、「あのさ」と話しかけてくる。
「実は試してみたんだ。いちごカフェとラムネ」
「えっ」私は驚いてしまった。「そうなの? なんで?」
嬉しい気持ちもあったのに、まず私が吐きだしたのは疑問だった。ちょっと失礼というか、かわいげのない聞きかただったかもしれないのに、逢木くんはなんてことないように返してくれる。
「前に言わなかったっけ? 自分で試してみるって」
「言ってた気がするけど、社交辞令的なあれだと思ってた」
「せっかく勧めてくれたんだから、試してみたくなって」
「あ、ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」私は思わず身を寄せる。「それで、どんな感じだった?」
逢木くんはちょっと仰け反ったかと思うと、まるでそれが反動をつけるためであったかのように、私のほうへ顔を寄せ、囁いてくれた。
「天国の味がする」
「わかった?」共感を得られたことが嬉しくて、私の声は自然と跳ね上がる。「だから、私、大好きなんだ!」
そこで、私よりも少し高い位置にあるはずの逢木くんの顔が、知らず知らずのうちに至近距離にあったのに気づき、私は、そのときはじめて、自分が爪先立ちをしてまで彼にかぶりついていたことを知った。
「…………」
私はぬるうっと彼から離れる。
いちごカフェのストローにほんのり口づけながら言葉を続けた。
「で、ね」
「うん」
「甘くて、酸っぱくて、しゅわしゅわしてて、幸せな気分になって、まるで天国にいるみたいな気分になるの」
逢木くんは思い出し笑いするように、手を口元に寄せて「わかる」と言った。
「後味もすごいし。頬っぺたの奥っていうか、耳の下のところ?」逢木くんはそのあたりを指差した。「きゅんってくる」
「そうなの。きゅんってくる。その、きゅんっ、が好きだから、私はお気に入りなんだよね」
「他にきゅんってくる食べ物といったら……いちご大福かな」
「前に北海道で食べたハスカップのジャムトースト」
「梅干し」
「梅干しはちょっと違う気がする」
「ごめん。僕、まだきゅんっに詳しくないから」
そう言って笑う逢木くんの顔を、私はじっと見つめる。逢木くんは柔らかい眼差しのまま、見つめ返してくれた。先に逸らしたのは私のほうで、まさにそのとき、ポケットがバイブしたのだ。どうしてくれよう。無視したいけど、どうしても意識がポケットの中に向いてしまう。
逢木くんは私の制服のポケットを一瞥したあと「……確認したら?」と告げる。もごもごとストローを口に含み、眉を顰めた私は、彼に「いいんだ」と呟き返した。
「多分、出たくないやつ」
「それって……たとえば、しつこい先輩からのメッセージとか?」
私は目を見開く。逢木くんの読みは、見事に当たっていたからだ。
しつこい先輩こと伊蘭坂先輩は、部室で会って以降、しょっちゅうメッセージを送ってくるようになった。メッセージのやりとり自体は別にいい。世間話をしたり、受験の話をしたり、部長である敬井うやまい先輩を含めた、三年生の送別会を指示したり。先輩と後輩のやりとりなら、別になんら問題はない。問題があるのは、その延長戦で、私はそれにずっと憂鬱を感じていた。
だけど、こんな私の事情、逢木くんが知っているはずないのに。
「なんでわかったの?」
私が尋ねると、「なんでだろう」と逢木くんは誤魔化すように目を浮かせた。
「ちなみに、それってオカ研の? 男の先輩かな」
見抜かれていることに若干驚きつつも、私は頷いて肯定する。
「苦手な先輩。や、別に嫌いとかじゃないんだけど、なんか、苦手で……あーえーと、悪いひとじゃないんだよ? 気が合う、合わないで言うと、きっと合うほうだと思うんだよね。だけど、なんだろ、波長が合わないのかな。もしかしたら、一種の同族嫌悪だったりしてねえ」
別にあのひとの全部が嫌いだとか、そういうんじゃなくて、そこだけは勘違いしてほしくないから、当たり障りのないことを言うんだけど、そうやって先輩を庇うあまり、私の抱いている感情から逸れてしまっているように思った。私は数瞬悩んだ挙句、核心的なことを言ってしまう。
「……過剰に期待されたり、求められたりしても、困るんだよね」
どうしよう。失敗した。すごく性格の悪い女みたいなことを言ってしまった。もしも私が逢木くんの立場で、クラスメイトの男子がそんなことをのたまったら、なに言ってんだこいつ、調子乗んなよ、って思うはずだ。
でも、逢木くんは納得したような顔をしただけで、私を責めるようなことはなかった。
「そういうことあるよね」
逢木くんの言葉に、私はおそるおそる「……ある?」と尋ね返す。逢木くんは「あるよ」と即答してくれたから、私はほっとしてしまった。
「……そう。あるんだ。嫌な感じがするっていうか、わけがわからなくて。それが、すごくしんどくて。どういうのって聞かれたら、説明しにくいんだけど……」
「どういうの?」
「説明しにくいって言ったよね」
「ごめん」
あえてからかうことで、私に気を遣ってくれたんだろうなと思った。
だからかもしれない。なんとなく、まあいっか、というような心境で、私は伊蘭坂先輩とのトーク画面を開いて見せてやった。さっきのメッセージにも既読をつける形となってしまったため、逢木くんは二重の意味で――おそらくプライバシー的な問題でも聞いてくれている。紳士的な人間だ――「いいの?」と尋ねた。私は頷いて、たぷたぷと画面をスクロールし、過去のトークを前に持ってくる。私たちはその場で立ち止まり、画面を覗きこんだ。
逢木くんは、伊蘭坂先輩からのメッセージをなぞっていく。
「〝久しぶりにご飯食べに行こうか〟」
私はそれに自分の答えを連ねる。
「いいですね! でも、私、お金がないんですよね。またお小遣い入ってからで」
「〝金欠かよ(笑) なんなら奢るし!〟」
「それはさすがに申し訳ないんで。私、大人数で行けそうなとこ探しときますね」
「〝オカ研のやつら?〟」
「はい。みんなにもいつ行けるかも聞いてみますね! また連絡しますー」
私はこのとき、勝った、と思った。都合のいい返事ができたと思ったし、もう先輩との会話はこれでブチギレたとも。だからこそ、すぐに〝バイナラ!〟のスタンプを送ったのだ。
しかし、その返信から二分後。なんと、第二戦目が幕を開けた。
「〝前部長の
これは実に卑怯な手だった。まさか、敬井先輩の名前を出してくるなんて。敬井先輩には私もお世話になったし、そんなことを言われたら、私だってなにかしてあげたいという気持ちを持ってしまう。敬井先輩のために、私が伊蘭坂先輩に寄り添う構図ができてしまう。
だから、私はこう返事をした。
「出歩くの面倒なので、候補の写真送ってくださいよ! どれがいいか返事します」
これも、我ながら上手い返答だと思った。わざわざ他人を呼びだすのは申し訳なくなるだろうし、普通ならこの手段を選ぶはずだ。そもそも、候補で送った写真に返事をするのだって手間なのだ。これ以上は譲歩しないと、きっぱり、水面下で、伊蘭坂先輩に叩きつけたはずだった。しかし。
「〝出歩くのめんどいのか(笑) スタバ奢るから、余裕ありそうなら来て!〟」
余計な金を出してまで、私を外に出したいらしい。
そんな先輩のレスポンスに、私は愛想よく「わーいスタバ! 行けたら行きますね~」と返事をしている。この〝行けたら行く〟が〝絶対行かない〟であることは周知の事実だが、そこへ〝それって来ないってことかよ〟とわざわざ突っこんで掘り下げるような猛者はいない。私はそう読み切っていたし、実際そのように問いただされることはなかった。
だから、このやりとりは、ここで終わりたかった。終わりたかったのだ。しかし、伊蘭坂先輩は突っこんでくる代わりに、確実性を求めて言葉を重ねることにしたのだ。
「〝スタバ奢るから来てくれー〟」
まだ言うか!
あまりのしつこさに、
そこへ、伊蘭坂先輩から、それはそれはありがたい言葉を頂戴してしまったのだ。
「〝懐だから来てほしいんだけど〟」
「黙れ!!」
ちなみに私はそんなふうには返答していない。差し支えたくなかったから、なんか適当にのらりくらりとかわしていったはずだ。ただ、読み返したいま、あのときの苛立ちが再熱してきたので、心のままに叫んだだけである。そして、これらと似たような会話は、いま現在まで続いている。さてさて、ここからどうやって返事をしよう。携帯を持っていないほうの手だけで腕を組む私。
逢木くんは突然叫び立った私に引くことなく、むしろ、見ることもなく、ずっと画面を注視していた。
「これって……伊蘭坂先輩が、別守さんにアプローチかけてるってこと?」
「どうだろ。このひと彼女いるし」
「え?」逢木くんは拍子抜けしたように声を跳ね上げた。「いたんだ?」
「うん。一個上の。元々はオカ研の先輩で、地元の大学行ってんの。伊蘭坂先輩もその大学行くってさ」
私もその彼女を知っている。別段仲は良くなかったけれど、笑顔のかわいい感じの先輩だったことは覚えている。卒業後に連絡を取り合うような仲でもなかったので、いまどうなっているかは知らないけれど、伊蘭坂先輩の会話の中に、ちょくちょく出てくることがあった。
「でも、それ、彼女いるのにちょっかい出してくる最低な先輩だったってことかよ」
「逢木くん、けっこう言うね」
「別守さんもそう思ったんじゃないの?」
逢木くんはしっとりと微笑んだ。
こういうこと、逢木くんに言うの、なんかおかしいような気がするんだけど――逢木くんはとても聞き上手だった――私はのせられるままにぽんぽん話してしまう。
「多分だけど、私は、伊蘭坂先輩にとって、恋愛感情とかそういうのじゃなくても、好きって部類に当たる後輩なんだと思うの。私にもね、そんな感じの、お気に入りの後輩っていうの? いるからわかるんだ。だから、私にかまってくれるんだろうな、って……だから、普通に考えたら、お気に入りの後輩だからこそ選んでほしいんだって意味で取るべきなのかもね。会話のやりとりだって、よくよく考えたら、そんなにおかしな話でもないし。ずっと私に話しかけてくるのも、出かけたがるのも……かまいたいだけで、かまってほしいだけなんだって」
そう。気に入った後輩だからかまっているだけ。少なくとも、表面上はその範疇を逸脱していない。私たちはあくまで先輩後輩だし、仲だってきっと悪くない。先輩は、ただ私にかまっているだけなのだとは思う。信じている。信じたい。
「初めは私だって、先輩のこと、普通に好きだったもの。面倒見いいし、後輩相手でも気さくに話しかけてくれるし。何度かみんなでお出かけすることもあったけど、それも別に、嫌じゃなかったし……」私は、
私が変わったのではなく、先輩が変わったのだろう。私にも沙奈々ちゃんというお気に入りの後輩がいるわけだけれど、私の場合とは違って、先輩と私は異性だった。それがどう作用したかは私にもよくわからない。口にすれば、それこそ自意識過剰なものしか出てこない。しかし、多分、それが原因で、先輩の態度が少しずつ変貌し、私はそれを嫌うようになった。でも、相手は先輩だから、口には出せなかった。本当は名前だって気安く呼んでほしくなかったのに。だって、私にとって、異性の名前を口にするのって、すごく特別に好きなひとだけだから。
好きの価値観が違う――多分、そういうことなんだと思う。
重いことを言ってしまうけれど、私の好きはそんなに生易しいものじゃない。
もっとストレートで、まっすぐで、あなただけって、そういう好きなのに。
貴方には彼女がいるのに、別のひとがいるのに、私を自意識過剰にさせるようなことをしている場合じゃないのに。思わせぶりなだけで、一番大事なところでなにを考えているのかわからないのは、とてつもなく怖いことだった。安全圏から狙撃されているような気分。もやもやするのだ。そしてそれがたまらなく無理なのだ。
だから、どういうつもりなのって、私は先輩のことが怖くなったのだと思う。ひとの気持ちなんてわからなくて当たり前なんだけど――そういうところじゃない、見えなくても見えるはずの部分のことを、私は言っている。
「なんでこのひとは、私を困らせるようなことばかりするんだろう。言葉の端から、私の嫌だって気持ちに、怖いって気持ちに気づいてくれないんだろう。もし気づかないふりをしてるなら、それって悪意だし、脅威なんじゃないの。それとも、私がはっきりすれば、これ以上はっきりしてあげれば、なにかがうまいこと変わってくれるの? あのひとの好きっていったいなんなの?」
先輩になにを言われるのかが怖くて、どういうことを望まれているのか、考えるのも嫌で、だから、先輩とどこかへ出かけるのも、会うのも嫌になってしまった。わけがわからなくて、しんどい。疲れる。憂鬱になる。別次元の〝好き〟をぶつけられても、混乱するだけなのに。
「もう無理なんだよ……」私は本心を口に出す。「生理的に無理」
凄まじい暴言を吐いてしまった。
吐いてしまったけど、それが本心だ。
私と先輩は、たとえ気が合っても、他が全然合わないのだろう。
こんなの、人間関係における、価値観の違いにおける、ありふれた悩みなんだろうな、とは思う。きっとみんなこういうのを人生のどこかで経験していて、私はそんななかで、みみっちく杞憂してるだけ。それに、私が勝手に嫌になっているだけだし、考えすぎだって、と一笑に付されればそれまでの話。
だから、誰にも相談できなかった。相談したところで、きっと、みんなを困らせるだけだ。
こんな話をされて、逢木くんも困ったろうに、それを顔にも出さないで、最後まで聞いてくれるなんて、本当に紳士的な男の子だ。
私は俯いてため息をつき、額に手を当てた。
「……ごめん。忘れて。リセットして」
項垂れるような声でそう言った私に、「気にしないでいい」と逢木くんは言う。
「いやいやいや、気にするでしょ。こんなの全然気分のいい話じゃないし……なに言ってんのって感じだよね」
「そういうことある、って言ったろ」
「そういうこと、よくある話で、ちっぽけなことじゃない?」
「それで別守さんは悩んでるんだろ? 僕に気を遣ってるなら全然気にしなくていいし、先輩に気を遣ってるならもっと気にしなくていい。むしろ、別守さんの感覚は正しいと思う」
「……そうかな」
「そうだよ」逢木くんの返答ははっきりとしていた。「その警戒心は大事にするべきだよ」
私は
――部活継承のことで、藻場くんだけじゃ頼りないところとかいくつかあるんだよなあ……懐に教えときたいから、部活のあと残れない?
「……私、これ、行きたくない」
「だったら行くな」
逢木くんは得意げに笑った。穏やかな容貌は破顔することで、あどけなさと快活さを滲ませる。男の子らしい、強気な笑みだった。
励まされた私は、すぐさま伊蘭坂先輩へ「帰りが遅くなるし嫌です!」と返事を送る。
やってやったぜ、と思ったのも束の間、すぐさま既読がつき、新たなメッセージがぴこんと吹きだした。
「……〝送ってやるから〟?」
「手強いな……」
逢木くんの呟きに、私はしみじみとして頷いた。そう、手強いんだよ、だから嫌なんだよねえ……まあ、最悪、今日部活に行かなかったらいいんだけどさ。やっぱり、当分は、穏便に済ませるしかないわけか。
私は適当なスタンプを送りつけ、
そのとき、ちょうどチャイムが鳴った。休み時間終了のチャイム。つまり、もう、三時間目が始まってしまったことを指す。時間をすっかり忘れていた。私たちは購買部近くの中庭で、ずっと話しこんでいたのだ。おやつのフルーツサンドも、コーヒーゼリーも食べ損ねて。私の小腹は空いたままだし、授業だって遅刻だ。やってしまったなあ。
けれど、私はそのとき、妙な充足感を得ていた。
充足感というより、充実感というのが正しいかもしれない。楽しかったのだ。逢木くんと話していて、すごく、楽しかった――だから私は、大胆にも言ってやった。
「ねえ、逢木くん。このままここにいようよ」
チャイムは完全に鳴りやんだ。いまや、余韻だけが、中庭に響いている。
私は逢木くんをじっと見つめる。
「なんだか不思議だけど、私、逢木くんともっといろんなことを話したいって、思っちゃったの」
貴方は、私が気まぐれに差し出したものに応えてくれた。それはまれでパズルピースのようにぴったりと当て嵌まって、私を楽しませて、喜ばせてくれた。それはきっと紳士的な貴方の優しさでもあるのだろう。だけど、私はそれが嬉しくて――今度はもっと他のことを、話したくなった。なんでもいい。こんにちはから始まって、また明日で終わるような。お気に入りの時計、大好きな食べかた。実に他愛がなく、無益で、すぐに忘れてしまいそうなことでかまわない。羽根よりも軽く、雲よりも柔らかい、そんなことをたくさん話したくなった。
「だから、授業になんて行かないで、ここで私と話そうよ」
緊張した。ドキドキした。怖かったし、不安だった。我ながら、なんてことを言ってしまったのだろうと思った。困らせたり、嫌がれたりしてないかな。気持ち悪いとか思われてないかな。さっきの時間が心地よかったのは私だけで、これ以上は嫌だって、思われたりしてないかな。お願い。断らないで。同じ気持ちだって、貴方も言って。
いろんな不安が、脳やら心臓やらを駆け巡り、私を痺れさせた。わずかに目を瞠る逢木くんは、口を開く。逡巡、耐え切れずというふうに、ゆっくりと眉を下げて微笑んで、私の言葉に応えてくれた。
「……ありがとう。僕も、別守さんと話せたらって、ずっと思ってたんだ」
どうしよう。
彼の、しっとりとした、微笑みかたにさえ。
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