第4話 1024
「そういえば、あと少しでハロウィンだね、懐ちゃん」
翌日の十月二十四日。昼休み。互いの席で向かい合って弁当を食べていたとき、依本がそんなことを口にした。
依本はどこか楽しそうだったけど、私はさしてテンションも上がらなかったので、いちごカフェをズズズッと吸い上げてから、「そだね」と返した。
「えー。懐ちゃん、反応鈍くない? 神経
季節行事に疎い私を非難した依本に、私は「散々な言いよう」と素直な意見を述べた。
そんな私の言葉も無視し、依本はてれてれと笑って続ける。
「私ね、今年も手作りのお菓子持ってこようと思うの。去年はドーナツ作ってきたでしょ? 懐ちゃんはなに食べたい?」
「依本は私になにを食べてほしい?」
「えっ、ええぇ……ヒジキ?」
依本は、自分のお弁当箱の中に入ったヒジキを、箸でちょいちょいと指した。
今日も今日とて学食でパンを買っていた私には箸がない。しかたなく、依本の使っていた箸を借り、ヒジキを食べてあげた。
私が「じゃあ、ハロウィンも手作りヒジキでいんじゃない?」と言うと、「ヒジキが海で採れるか山で採れるかは知らないけど、わざわざハロウィン用に育てたくないよっ」と依本は怒ったふりをした。
「依本。ヒジキは海藻だよ」
「そういう意地悪しないでよ。本当はなに食べたいの?」
「エクレア」
「死ね」
これはふりじゃない。
ガチで怒ってる。
一気に荒んだ依本の眼差しを受け流しながら、「いや、ただのリクエストだよ」と方便をつく。
「依本がなに食べたいのって聞くから、普通に食べたいものを答えただけで、他意はないんだって」
嘘。本当はありまくる。
「だとしてもね、懐ちゃん、二度とその単語を口にしちゃだめだよ……」呪いの言葉だとでも言いたげな表情の依本。「それにね、エクレアはね、だめ。ママに作ってるところ見られたくない。もう大丈夫なんだって、ママに勘違いされたくない。ママには一生、十字架を背負ってもらうんだから」
相変わらず負のオーラすごいな。そういうおばけしい意味では、依本は年がら年中ハロウィン状態だ。元凶は依本ママ、原因は主に私のせいで。
そのとき、机の上に置いておいた私の携帯スマホがバイブした。LINEのメッセージ通知だった。その差出人の凶悪な名前とメッセージの害悪味の強い冒頭を確認したあと、私は既読をつけずにスルーする。
「迷惑メール?」
「うーん」
鼻で返事をすると、依本は仕切り直しと口を開く。
「今年は気合い入れてくつもりだから、マカロンとか難しいのでも大丈夫だよ。とにかく、ヒジキとエクレア以外で、考えてみて」
「えー」正直、依本が作ってくれるものなら、なんでもいいんだけどな。「それじゃあ……チョコチップざくざくのクッキーが食べたい」
「いいねー」依本も嬉しそうに笑った。「私も、チョコチップざくざくのクッキー、懐ちゃんに食べてほしい」
決まりね、と依本はスケジュール帳を取り出し、ハロウィンとその前日を、カラーペンやシールでデコり始める。その前日の枠には〝お菓子作り〟と記入していた。
依本って、けっこうマメな性格をしてるんだよねえ。だから、スケジュール帳もびっしり。主に意味のないことで。今日はヨーグルトの匂いのバスボムを使うとかなんとか、それもはや日記じゃん。依本の一年ってどんなだろ、と気になって、使い終わったスケジュール帳くれないかなあとか思ってしまった。たまに読み返してクスッときたい。
手持ちのシールから最適なものを選びながら、依本は「懐ちゃんはハロウィンにお菓子作ったりしないの?」と私に尋ねた。
「いいかなあ。めんどくさいし。なんか買ってこようとは思ってるけど」
「ああ、部のみんなに配ったり?」
「ううん。なんか、ハロウィンの日は部活休みなんだって。よくわかんないんだけど」
「へえ。珍しいね」依本はシールを貼ってから言葉を続ける。「オカ研って、火曜日だけは休まないようにしてたのに。なんだっけ。運動部が大抵、火曜日が定休日だから、静かでいいとかなんとか……」
「うん。人目を気にせず、エイリアンと交友するための儀式ができるの」
「……ほんとになんでそんな部に入ったの、懐ちゃん」
面白いんだよ。オカ研。
しかし、フム、ハロウィンに手作りのお菓子か。ないな、と思ってたけど、いいかもしれない。手作りのお菓子を持ってきて、逢木くんをドキッとさせてやるのも、また一興。話しかけるきっかけにもなるし、〝お菓子作ってきたんだ、いる?〟てな感じで、彼に探りを入れてみるのも悪くない。
だけど、普通に〝いいの? ありがとう〟って受け取る未来が見えてくるな。ビジョンでもないのに。どうやったら逢木くんは、私にドキッとするんだろう。ていうか、どうしたら告白してくるんだろう。
悔やまれる。もし私が有しているのが予知能力ではなく、テレパスだったなら、逢木くんに、私は告白を心待ちにしてるよって、伝えられるのに。
もしくは逢木くんが読心能力を持っているかだな……いや、だめだ、自意識過剰な私の醜い心までバレる。
そのとき、また、ビビッときた。
『えー、次の時間の日本史ですが、自習になりました。翌週の授業で小テストをするとおっしゃっていたので、教科書の五章から十ページ分をよく読んでおいてください』
ラッキー。
ひらめいたビジョンから、私は、机の上に出していた教科書とノートを片づけ始める。
その様子を見た依本は「えっ? 次って日本史だよね?」不思議そうに呟くけれど、私がどうこう言うよりも先に、教室の前のほうの扉が開き、一年のときの日本史の先生が顔を出した。
「えー、次の時間の日本史ですが、自習になりました。次の授業で小テストをするとおっしゃっていたので、教科書の五章から十ページ分をよく読んでおいてください」
その言葉に、クラスメイトは各々の反応を見せる。大抵が気楽そうに教科書とノートを片していた。依本も「先生休みなんだ。ラッキー」と呟き、微笑んでいる。
五限目のチャイムも鳴ったけれど、監督の先生もそこまで厳しいひとではないので、談笑する私たちに、ちゃんと自習しなさいとか、そんなうるさいことは言わない。
今日も私のビジョンは完璧だ。逢木くんという一点を除いて。
私は逢木くんのほうへ視線を向ける。
彼は机の上に並べていた文房具を置きっぱなしにして、他のクラスメイト達のように、友人たちと談笑している。周りが騒がしくて、どんな話をしているかまではわからなかった。こっちを振り向かないかな、とも思ったが、一瞥だってくれない。貴方はそういうひとだよね。
私のことが大好きなくせに、彼は絶対に告白なんてしてこない。それどころか、話しかけてくることも、視線を遣ってくることもない。まるで関わりを持たないと固く誓ってでもいるかのように。
だから、私の中でどれだけもやもやしていたって、状況は変わらないのだ。
「……第二段階に移行しようか」
「なに悪役みたいなこと言ってるの、懐ちゃん」
悪役結構。
私はね、逢木くん。平行線にはもう飽きたんだよ。
これまでいろんなちょっかいをかけてきたけど、貴方がそれでも尻尾を掴ませないというなら、素直に思いを告げてこないというなら、私にだって考えがある。
というわけで、その日の放課後。教室の左側前列で固まっている、男三人衆に、私は「ちょっといいかな」と話しかけたのだった。
振り向いた三人――逢木くん、生野とやら、帰山とやらは、話しかけてきた私に対し、「え、なに?」と返してきた。
私はそんな三人を見遣りながら、中途半端な位置で用意していた右手の人差し指を、迷うように回す。逢木くんでなければどっちでもいいんだけどな、と思いつつ、先に目が合ったほうを、その人差し指で指名した。
「生野くん。話があるの」
「え、俺……っ?」
「うん。いきなりで悪いんだけど、来てもらっていい?」
これから三人で予定があるならまた今度でもいいよ、と私は続ける。
しかし、存外気のいいらしいそのクラスメイトは、「大丈夫」と返してきた。それから、逢木くん、帰山とやらに「待っててくれるか?」と尋ねた。あっ、これはファインプレーだ。その当事者意識が鼻につきはするが、ナイスだぞ、生野とやら。
帰山とやらは動揺したふうな態度で「いいけど」と呟く。逢木くんもなんとも言えない表情だったが、最終的には「いいよ」と返していた。そして、私へと視線を遣った。
「……なにかあったの?」
「ううん。別に」
私は微笑んでそう返したが、内心は〝気になるか! 気になるか逢木くん!〟と、彼の周りを小躍りしてやりたいほどだった。
相変わらずビジョンは見る。けれど、告白はしてこない。そんな逢木くんの心理を、実は私のことがハイパー好きだという本音を、否が応でも暴き出してやろうと思ったのだ。
自分以外の男の子と私が絡むと、彼がどういう反応をするのか気になったわけだけど、これはなかなか上手くいってしまった。生野とやらが逢木くんに対して〝待っててくれ〟と言ったのもよかった。その一言のおかげで、私と生野とやらの関係が主軸となり、それに二人が巻きこまれた形ができあがる――つまり、逢木くんは蚊帳の外。そのもどかしさといったらたまらないだろう。どうだ!
「じゃあ、ごめんね、ちょっと生野くんお借りします」内心ほくほくしている私は生野とやらを先導する。「生野くん。ちょっと移動するからついてきて」
私と生野くんは廊下へと出た。廊下の窓は解放されていて、肌寒い風を送りこんでくる。教室を振り返ることなく、私は、生野くんの前を歩いていく。階段を下りて、外靴に履き替えないまま、校舎を出た。
――さて。
逢木くんを嫉妬――実際にしたかどうかは定かではないが――させることには成功したぞ。しかし、問題は、私は生野とやらになんの用事もないことである。
まじで困ったな。これから彼をどこへ連れていこう。どこへ連れていって、どういう言い訳をしよう。逢木くんに見せつけたかっただけで、まじで全然用事とかないから。
なんだか、背中に刺さる視線が訝しげだし、一言もしゃべってないせいで空気が変だ。それだけじゃない。なんとなく、告白でもしそうな言いかたや雰囲気を含んでしまったため、生野とやらに勘違いをさせてしまっている可能性がある。これはまずい。私としても本意ではないし、生野とやらに申し訳ない。
私はこのピンチをいったいどう乗り切るんだろうと、そんな他人事の危機感を抱く。こんなときに限って、アイディアやヒントになりそうなビジョンは出てこないし。っていうか、本当に、私たちはいったいどこまで移動すればいいんだ。
じわじわと不安になっていったのか、生野とやらも話しかけてきた。
「……なあ、別守。どこに向かってるんだ? これ」
さあ……どこだろうなあ……私にもわからんの……。
しかし、私の事情など生野とやらには関係ないだろう。いきなり、大して親しくもないクラスの女子に、行き先も知らされず歩かされれば、そりゃあ、そういう反応もするというものだろう。私としては〝考えるな、感じろ〟である。私なんていっつも考えてないよ。ただ感じて行動しているだけ。その結果がこれなわけだから、もう全然えらそうにできないけど。
「そういえば」
と、生野とやらは思い出したように口を開いた。
それは、この状況にそぐわないような普通の音色――要するに、私を責めないような声調――だったので、私もビクビクすることなく、普通に「なに?」と返すことができた。
「その腕時計……ビクトリノックスだっけ」生野は続ける。「逢木が見せてくれたんだけど、驚いた。めちゃくちゃ高いじゃん」
「え」私こそ驚いた。「逢木くんも持ってるの?」
「いや、ネットの画面で」
私は「あっ、そう」と肩透かしを食らった。
なんだ。びっくりした。一瞬、お揃いかと思っちゃった。
だけど、逢木くん、食堂で話したときも、ビクトリノックスに詳しいみたいだったし、やっぱり、そういうのに興味はあるのかも。
「……でも、安いほうだよ」私は生野とやらに返事をする。「もっと高い時計とかごろごろあるし。ちなみにね、この子はオーバースペックって言っても過言じゃないくらい頑丈なの。かっこいいよね」
「たしかに。いい趣味してるよ」
こいつ、けっこうわかるじゃねえか。
私が感心していると、生野とやらが続ける。
「逢木も言ってた。そういうのは、失くさないようにずっとつけてたほうがいいんだけど、って。安いって言っても、やっぱりブランドものだし、普通に高いんだろ?」
「まあねえ」
言われなくとも、ずっとつけてるんだけどな――でも、それ以上に、私のいないところで私の時計の話をしていることに、ちょっとした優越感を抱いてしまった。ムフ。もしかして、私のいないところで、私の話をしてたりするのかな。今日の五限目の自習時間の雑談も、実はその話だったりして!
「他には? 他にはなんて?」
「特になにも」
は? 断罪!
一瞬でテンションが下がってしまった私は、すごく悔しくて、生野とやらがいなければ舌打ちの一つや
いや、でも、待てよ? いくら逢木くんが〝実は僕、別守さんのことが……〟なんてことを話していたとしても、それを本人である私に話すわけがないじゃないか。
むしろ、生野くんの反応を見るに、絶対してるな、これは……ふう。やれやれ。小賢しい思春期の男の子どもめ。せめて情報収集くらいは、させてもらいますわよ。
「ちなみに、三人で恋バナしたりとか、してるよね?」
「いや? 別に?」
なんでよ!
生野とやらの返答が純粋な真実だと悟った私は、眩暈すら起こしそうな心境に立たされた。
おかしい……どうして逢木くんは、そんなに淡泊なの……そんなに私のことを弄んで楽しいのか。告白してきてもスルーしてやるぞ、なんて脅しも、現在進行形でスルーされている私なんかじゃ、格好もつかんしなあ。
第二段階に移行したけど、この作戦が上手くいかなかったら本当にどうしよう。こんな私に頭脳労働を求められても(求めてない)困るだけだ。けっこう本格的にお手上げ状態。
「ガードが固いのよ……」
「あ? ああ、そうだな。その時計、戦車に下敷きにされてもへっちゃらなんだって?」
違う。そうだけど。
「まさか……実は興味がないとか?」
「まあ、俺たち腕時計とかつけないしなあ」
違う。でもそうなんだ。
後ろの生野くんは、私のテンションに気づかずに続ける。
「食堂のときにたまたま一回見させてもらっただけだし。それ以上に近づくことなんて、なかっただろ?」
生野とやらは逢木くんとビクトリノックスの話をしているのだろうけれど、私はそれを、逢木くんと私の話をしているように感じてしまった。
あのとき一緒にお昼ごはんを食べたのが奇跡で、それ以上のことは絶対に起こらないって。くっそう。
私のこの作戦までもが無駄であるように感じられた。さらにテンションの下がってしまった私の足は自然と速まっていく。
そのことに生野とやらは困惑しているようで、だけど、歩幅でいうなら女の子よりも男の子のほうが大きいわけだし、大した先導の弊害にはならなかった。
問題は、一向に鮮明にならない状況のほうだろう。いよいよ生野とやらの機嫌も右肩下がりを始める。どこへ行くのかという問いかけを曖昧な返事で乗り越えてきた私だが、もはや限界だ。その足並みが体育館を横切り、旧校舎のほうへと向かったところで、さすがに生野とやらもなにかがおかしいことに気づいたらしい。
「おい、別守」さきほどよりも低いトーンで言った。「お前はどこへ行くつもりだ」
いい質問だ。私が聞きたい。
しかし、クラスメイトとはいえ、男の子の威嚇するような声にビビッてしまったのか、私は自分でも気づかないうちに、その足を止めていたようだった。生野とやらも、ここでぴたりと足を止める。
……しまった! ここが目的地みたいな空気になってしまった!
どうしよう! まじでなんの用もないよ!
学校の敷地内でも、この旧校舎近くは、普段から誰もいなくて、よくよく考えなくともすごく怪しげなスポットである。
私はちらりとビクトリノックスを見遣った。余談だが、私は右利きのくせに右腕に時計をつけている。まじでただの余談だ。時間を気にしているふりなんかしても、別に誰を待ってるわけでもないし。
生野とやらを怒らせでもしたらまずいぞ。百パーセント私が悪いから、反論もできない。正論の前では私は無力で、赤子の手みたいに捻られてしまう。なんか、がんばれば理由になりそうな、ちょうどいいなにかがあったりしないかな。
そのとき、神の助けか、天の恵みか、私は少し離れたところに、かわいい後輩こと沙奈々ちゃんがいるのを見つけてしまった。
沙奈々ちゃんは地面にラインカーで石灰の線を引いているところだった。彼女の研究分野は魔法陣なので、きっとそれを描いてるんだろう。傍目に見ると、くるくる回ったり急に止まったり、面白い動きをしている。
「…………、……っ、……!」
本当にかわいいな、と思っているうちに、私の脳はみるみるうちにひらめきの向日葵を咲かせ、電球を点灯させ、喝采の拍手を打ち鳴らし、なけなしの回答を弾きだした。
私は、沙奈々ちゃんのほうを指差して、「あれね、私の後輩なの」と言った。
生野とやらは困ったような顔で「あ、ああ……」と頷く。
「かわいくない?」
「えっ」
「かわいくない?」
生野とやらはますます不可解そうな表情をしたけれど、元々気のいい性格なのだ、がんばって目を細め、その姿を括目しようとがんばってくれた。
「……ごめん。遠目だから、よくわかんねえや」
「そっか……」
私は努めて残念そうに首を傾げて、足元の砂を蹴るふりをする。それから、もじもじと体を揺すり、生野とやらを見上げた。
「以上。帰っていいよ」
私は生野とやらにぶん殴られた。
わけないじゃん。ウッソピョーン。
私が思っていたよりも、生野とやらはずっと紳士で、そして、私とまともに話をするのを面倒に思っていたらしい。味気ない「は?」という呟きこそ頂戴したものの、二つ返事で踵を返してくれた。
怪我の功名がすぎる。むしろ私は無意識下でこれを企んでいたのではないか。天才的作戦。すべては計画どおりだ。とはいえ、さすがの私も、完全に私の被害者である生野とやらに対して罪悪感は抱いていたので、ちゃんと謝ったのち、お詫びとしてハロウィンにお菓子をあげることを約束し、いらぬわだかまりを半ば無理矢理に解消しておいた。
そんな感じで生野とやらを帰したあと、沙奈々ちゃんにかまってもらいに、私は彼女のほうへと歩み寄っていた。
相変わらずラインカーで魔法陣のようなものを描いている。今回は超大作のようで、いつも描いているものよりも大きい気がした。
私はラインカーを牽引する彼女の後をついていきながら、それを見学させてもらっていた。
「遠くで見てましたけど、先輩、なんか用だったんですか?」
話しかけてくれた沙奈々ちゃんに、私は「なあんにも」と返した。
「でも、なんか男のひと連れて、私のこと指差してましたよね?」
「あの子かわいくない? って話してたの」
「いや、冗談はいいんで」
冗談じゃないんだなあ、これが。
沙奈々ちゃんは半身で私へと振り向き、シッシッと手を払った。邪魔だと思われたみたいだ。
もしくは、せっかく描いた魔法陣が、私の踏み痕の餌食になることを恐れたのかも。
なにが理由であれ、沙奈々ちゃんに嫌われたくはないので、私はおとなしくしていることにした。これでも引き際は弁えているつもりだ。
少し離れたところで、スカートを押さえてしゃがみこむ。
「ねえねえ。沙奈々たゃん」
「なんですか」
噛んでしまってえげつない音になったけれど、沙奈々ちゃんは突っこむこともなく流してくれた。正直、突っこんでくれたほうが嬉しかった。
私は気を取り直して話しだす。
「これ、なんの魔法陣? また、瞬間移動のやつ? それとも使い魔召喚?」
「いえ。今度は時間遡行を目的にしてます」
「へえ」私は
「知ってます。ちゃんと調べてから描いてるんで」
「さすがだねえ」
セオリスト揃いのオカ研のなかでは、沙奈々ちゃんはアーティスト気質な子だった。
ミステリーサークルや魔法陣を描くことを趣味としていて、いろんな円を研究しては、こうして旧校舎の近くの土に石灰で線を引いていった。
けれど、それが不思議な恩恵を齎してくれたことは一度もないようで、大概は雨によって消されてしまうだけなのだとか。
沙奈々ちゃんはラインカーを動かす手を止めないまま、どこかつまらなそうに言う。
「こういうの好きだからオカ研に入ったし、みんなと話したりするのも楽しいんですけど……超常現象的なことって、滅多に起きないから超常現象なわけだし……なんかつまんないなあって、思いませんか?」
「んー……どうだろうねえ」私は続ける。「たしかに超常現象的なことってなかなか起こらないけど、沙奈々ちゃんが気づいてないところで、案外頻繁に、起こってるのかもしれないよ?」
たとえば、私にはほぼ毎日起こっている。
超能力ならプレコグニション。霊感ならば
「たとえそうだったとしても、観測できない事象なんて、ないのと同じじゃないですか」私の意見を沙奈々ちゃんは断じた。「それに、超常現象が常態化しているとしたら、それはもうすでに超常現象じゃありません。常現象ですよ」
「なるほど」
沙奈々ちゃんのその言葉を、我が身に置き換えて考えてみた。
私にとって、もはや
そこで私は、いや、違うか、と思いなおす。
逢木くんに限っては、予知が外れることのほうが常現象なのだ。あのとき一緒にお昼ごはんを食べたのが奇跡で、それ以上のことは絶対に起こらない。たとえビジョンとして見えていても、現実で観測できない事象なのだから、ないのと同じ。
そう考えると、またもやもやもやしてきて、私は思わず眉を顰め、頭の隅で〝なんかいまもやが三連発しなかった?〟とレビューをした。
「うん、やっぱり、よくよく考えると、つまんないなって思うかも」
「やっぱり先輩もオカ研の人間ってことですね」
「特に最近はつまんないことばっかりで、もやもやしちゃうんだ」
「意外です。先輩にも悩みとかあるんですね」
「あるところにはあるんだよ。お金も、悩みも、超常現象も」
「意味わかんないです」
いよいよ本気を出そう。私もオカ研の部員なので、この機会にみんなのセオリスト気質を見習い、少し頭を捻ってみることにした。
議題――どうして逢木くんはビジョンを裏切るのか。
私は過去、彼がビジョンを裏切る理由として、恥ずかしいとか奥手だとかをこじつけようとしたわけだが、こうして、そうよくもない頭脳をふんだんに使ってみると、そもそもの疑問が湧き立ってくる。
議題――どうして逢木くんはビジョンを裏切ることができるのか。
私は、自分のビジョンを、望遠鏡のようなものだと思っている。少しだけではあるが、遠くのものが見える。当事者が発するなんがしかを私の感覚器官だかが検知し、なんかありますよ、ほら、と見せてくれるのがこの
一目見えた時点で、そこにあるに決まっているのに、絶対に実現される確定事項のはずなのに、どうして彼はそれを捻じ曲げることができるのだろう。一種の物理法則に抗うような、とんでもない事象である気がする。彼自体が超常現象とも言えよう。
ああ、でも、さっぱりプーじゃい。そもそも、自分の能力についてだって、私はきちんと理解してはいないのだ。望遠鏡云々は仮の想定でしかないし、こんなこと、考えるだけ無駄なのかもしれない。本気出して損した。
私の「やっぱりつまんない」という呟きに、沙奈々ちゃんは「でしょう?」と返した。
滅多に起きないから超常現象。私の中で、逢木くんがビジョンを裏切るのは、私に告白してこないのは、もはや常現象。以上を踏まえると、これ以上逢木くんにちょっかいをかける必要なんてないんじゃないだろうか。だって、よくある普通の、当たり前のことなんだから。
自分の自意識過剰を刺激されただけだと思うとなんだか悔しいし、もやもやするけれど、そもそもは、私が一方的にビジョンを感じとっただけ。いろんな謎は残るが、ちょっかいをかけたって色好い反応は得られないし、私の頭ではきっと解決できない。
それから帰って一晩考えてはみたが、やはり、光明を得ることはなかった。おかげで翌朝寝坊してしまったし、それでも登校中にいちごカフェを買っておきたかったから、遅刻は確定されてしまった、なんかもう散々だ。ついでに小腹も空いた。頭脳労働は胃袋にこたえるらしい。いいことなんて一つもない。どうせ昨日の第二段階作戦だって失敗に終わる感じのオチでしょ、とか考えると、よっぽどやめてやろうと思ったのだけれど。
「別守さん」
名前を呼ばれたので、なんじゃらほい、と気軽に振り返り――そこに逢木くんがいたのを見て、飲んでいたいちごカフェ噴きかけた。
超常現象が起きたのだ。
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