第3話 1023

 そういえばご存知だろうか。

 実は、私はオカルト研究部に所属している。

 なんだその怪しげな部活は、と思っていただければ重畳。私もその魔力に引っかかって入部したクチである。

 なんだその怪しげな部活は、と思って倦厭した場合、私とは気が合わないのだと思う。残念。

 しかし、まあ、そんな私と気が合わない代表・依本永久恋愛は絶賛大親友継続中なので、交友関係において、気なんてものは合っても合わなくてもどっちでもいいのだという可能性を示唆している。

 気が合うか合わないかなんて、本当、どうでもよくて、たぶん、まっすぐな好意さえあれば、きっとそれだけでうまくいくのだ。

 さて。そのオカルト研究部の部員は、受験により勇退した三年生を除き、十二名。現在は、私を含めた二年生で、オカ研を回している。

 私は、回してるっていうか、ほとんど見てるだけだ。ちょうどいま、オカルト研究部の部室でもある旧校舎二階の元第二会議室にて、くっつけあった長机の周りに椅子を置き、みんな思い思いの意見を言い合っている。


「――じゃあ、超心理学でいうところのESP、つまり超能力の覚醒は、思春期を迎えたティーンエイジャーに多いってこと?」

「思春期って……でも、なんか、心理学っていうから、心的なものに可能性がありそうだね」

「はじめちゃんのレポートは統計から来てるんだっけ? それも聞きこみの」

「うん。コリアタウンの超能力研究結社ってところまでインタビューしてきちゃった!」

「変なところじゃなくてよかったですね、そこ」

「名前からしてめっちゃ危なそうじゃないですか。オカ研の人間が言うことじゃないんだろうけど」

「俺も今度行きたいから場所教えて」

「えー、行くんですかー? 先輩つよすぎー」


 いやあ、奇妙珍妙。

 肘をつきながら、私は彼らの様子を適当に眺めている。

 オカルトっていう一種のファンタジーをがんばって理論的に捉えようとしてるちぐはぐ感が面白くて、なに言ってるか理解できないことは多いけど、見てて全然飽きない。

 積極的にディスカッションに参加することこそなくとも、私は、この雰囲気がけっこう好きだった。入部の動機も怖いもの見たさだったし。実際入ってみると部員とは気が合ったし。サボっててもなんにも言われないし。居心地がいいったらないや。

 ううん、でもな。

 端っこの席にいた私は、ちょうど隣にいる後輩の沙奈々さななちゃんの制服の裾を引っぱり、こちらへと注意を向けさせる。

 沙奈々ちゃんは「え、どうしたんですか、先輩」と目を瞬かせた。


「眺めてるだけじゃだんだん暇になってきたから。絵しりとりしよ?」

「いやいや、先輩も真面目に部活動しましょうよ」


 後輩に叱られてしまった。でも、罪悪感とか反省の気持ちとか、全然湧いてこないんだよねえ。私ってだめな先輩。

 私が「ちゃんと討論会には出席してるよ」と返すと、沙奈々ちゃんは「出席するだけじゃなくて参加してください」と指摘した。淡々とした、真っ当な意見だった。

 沙奈々ちゃんは、天パのショートカットが綿菓子みたいでなんかかわいくて、こういう先輩に対しても物怖じないフランクな性格で、実はお気に入りの後輩だった。だから、わざわざ彼女の隣を陣取ってやったし、いまみたいに相手にしてもらえないと寂しかったりもする。

 沙奈々ちゃんは「そんな顔しても無駄です」とまだまだ叱る。そろそろ、どっちが先輩か、わかったもんじゃないな。

 すると、沙奈々ちゃんだけでなく、同学年の女子部員の――本名を〝はじめ〟ちゃんで、じめじめとは私がつけたニックネームである――も追い打ちをかけてくる。


「そうだよ、別守ちゃん。そもそも、今回の議題でもある超能力は別守ちゃんのためにチョイスしたんだよ?」

「えっ、そうなの?」


 私が驚くと、みんなが頷く。

 じめじめは解説してくれる。


「前に別守ちゃん、超能力のことについてけっこう熱心に調べてたじゃん? だから、幽霊とかよりそっちのほうが興味あるのかなって、定例討論会の議題を超能力にシフトしたんだよ」

「そうですよ。私だって、先輩のために、つい最近までやってたミステリーサークルと魔法陣の研究、っぽってあげたんですからね」


 沙奈々ちゃんの発言に「そうだったの……」と内心感極まる私。バサバサ切るようなこと言ってくるけど、この子絶対私のこと好きじゃん。ありがとう。私も好きだよ。


「沙奈々ちゃん。嬉しい。そこまで気合い入れてくれたんだね」

「や、超能力に関しては先達が熱心に調べてくれてるので、片手間でできました」


 あれ? 全然自分の研究っぽってなくない?


「それに、じめじめも、コリアタウンの超能力研究結社とかいう、拉致られて人体改造でもされそうな組織にまで行ってくれたんだよね……大丈夫? 気づかないうちに記憶操作とかされてない?」

「されてない。されてても覚えてない」


 そこそこ心配になるようなコメントをじめじめはしてくれたが、それでもいまだ、私のためだという驚きのほうが勝っている。

 いつも会議に参加しない私が議論しやすい題材を、みんな考えてきてくれたなんて。それはそれは、だとしたら、余計なお世話だなあ――ここまで来てもなお罪悪感の欠片も湧かないのが私の性格である。

 たしかに、私が超能力について興味を持ちだし、精力的に調べていた時期はあった。私の見るビジョン――数秒後の予知という現象について、どうにかこうにか解明してやろうと躍起になっていたときのことだ。

 そのときに知ったことなのだけど、超能力は大まかに二種類に分けられるらしい。

 念力のように、触れることなく物体を動かすなど、周囲になにか影響を与えるものをPKと呼び、テレパシーや透視など、超感覚的な知覚能力のことをESPと呼ぶ。

 私の能力は後者に当たり、オカ研らしく申し上げるなら、私はエスパー、またはサイキックということになる。

 神聖じみたPKのサイキックはともかくとして、ESPのサイキックについては、古来より数多くの記録が残されている。そもそも、占いで邪馬台国を統治したという卑弥呼だって、見かたを変えればESPのサイキックである。科学技術や論理的思考も十分に発達したであろう十九世紀、二十世紀に至っても、世界三大予言者などが現れ、散々に持て囃されていたのだ。

 超能力だと言われては世間に叩かれてきた、嘘か真かもわからぬサイキックも山のようにいるけれど、実際の当時の私のビジョンは百発百中で、疑いようがなかった。これを超能力の一種だと信じ、自分の力で解明しようとしていたとしても、なんら不思議ではあるまい。私は考えるのが苦手だったから、すぐに挫折はしたけれど。

 とにかく、一度は試みたとはいえ、私はもう、自分の予知現象を解明しようなんて思っていないのだ。最近では、逢木直流の登場のおかげで、そもそもその予知能力ビビッも百発百中でなくなってしまったことだし。

 そう、そうだ。

 逢木直流である。

 私は、この前の、書道の選択授業のときの一件を思い出し、さりげなく口元を手で覆う。

 不思議で不可解なことが多すぎて、それまで若干疑ってはいたけれど、あのときの、熱烈な発言といい、よかったという言葉といい――やっぱり逢木くん、私のこと相当好きじゃない?

 でなきゃ、どういうつもりなの。私に好きなひとがいないことを知って、よかったって。

 もう完全に読めてしまった。私という好きなひとに好きなひとがいなくてよかったって、それならいくらでもチャンスがあるしあわよくばって、そういうあれである。

 彼の本心に確証が持てなかったけれど、もうこれは決まったも同然だ。彼は私に恋をしている!

 ……その割には、相変わらず告白してこないから、やっぱわけがわからんけど。

 私は小さくため息をつく。

 逢木くんめ。不思議の国の不思議くんめ。そういう思わせぶりな態度、私はあんまり好きじゃないんだぞ。駆け引きのつもりなら逆効果だ。悪意と一緒。

 あんまり調子に乗るなよ。貴方は私が好きなんだから。いざとなったら、私は貴方を、振ることだってできるんだから。ま、告白されてもないのに事前に振ってしまったら、私の自意識過剰が表沙汰になって、いっそ私の社会的立場が危うくなるのだが。

 ああ、もう、やめいやめい。

 いまは、性格のいい部員たちによる気遣いの話だ。

 私はさりげなく口元を覆った手をそのままにして、テーブルに肘をつく。

 申し訳ないが、いらぬ気遣いなのだ。そんな、超能力の研究を議題として採用されても。私の心境としては、完全に冷めた熱でパンでも焼かれてる感じだ。持て余しまくってる。これ以上掘り下げたって、お互い、なんの実りもないよ?

 しかし、そんな私の心情とは裏腹に、ディスカッションは進んでいく。


「話を元に戻すけど……超能力者と言えば、やっぱ、ユリ・ゲラーだよね。スプーン曲げの」

「それは僕も聞いたことがある」

「そいつの登場で、世界中でスプーン曲げのできる人間が現れて……たしか、ゲラリーニ現象でしたっけ? いいなあ。俺もスプーン曲げたかったあ」

「超常現象とかオカルトって、なんとなくムーブメントがあるよね。流行る時代っていうか。たとえば、最近はテレビでもそういうのとかってないじゃん。次のムーブメントっていつになるんだろう。みんながオカ研にいるうちに、一回くらいは来てほしいよね」

「ちょっと怖いですけどね……ほら、超能力の全盛期ともなると、否定意見のほうが多いイメージとかありません? 超能力者へのバッシングがほとんどで、ワクワク感よりも、なんか嫌な感じがして」

「たしかに。ミステリアスなユーモアを解さない番組ばっかりだったような気がするよ。超能力に理由とか原理とかつけて、インチキ呼ばわりして。テレパシーも、あらかじめ決めておいたんだとか、よく知ってる相手だからわかるとか、そんなのばっかりで」

「SFっぽくなっちゃいますけど、タイムスリップやタイムトラベルにも、私はロマンを感じちゃいますね。ジョン・タイターもそうですけど、サウス・フォークスブリッジの男とか!」

「チャップリンの映画に出てくる、携帯電話を持った女とか? でも、そういうタイムスリップものの写真って、勘違い系が多いよね。時代錯誤な格好をしているようでも、実際よく調べてみるとそうでもなかったり」

「私は、タイムスリッパーと予言者は、全部合致した一つの事象だと思ってますけどね。さっき名前の出た、ジョン・タイターみたいな」

「なにそれ。面白そうじゃん。聞かせて」


 ははあ。物知りだねえ。さすがオカルト研究部。世界史や日本史の暗記はからっきしのくせに、こういう知識だけは湯水のように蓄えてあるんだから。

 私は世界史や日本史の暗記とかのほうが得意だよ、とか思いながら、その様子を眺める。

 元は私への気遣いからだろうけど、そんなのはそっちのけで、みんなは意見交換を楽しんでいるようだった。私はディスカッションに参加しているふりをするため、ウンウンと相槌を打っていく。


「そういえば……超能力者はユリ・ゲラーも有名だけど、もう一人有名なので言うと、やっぱりニーナ・クラギーナじゃないですかね?」

「テレキネシスの?」

「そうです。しかもですよ……そのニーナ・クラギーナが超能力に目覚めたのって、結婚後のノイローゼが原因らしいんですよ。これって、はじめ先輩のレポートにも則れると思うんですよ」後輩の一人は続ける。「思春期に能力の覚醒する人間が多いってことは、なんていうか……自身の感情の波とか爆発とかで、目覚めてるんじゃないかなって思うんですよ」

「なるほど!」


 じわじわと熱が上がっていき、彼らの妄想もたくましくなっていく。

 依本がこの場にいたら、気味悪がってドン引きするだろうな。あの子、私のことは大好きなくせに、オカ研には絶対付き合わないとかなんとかで、料理部に入っちゃったから。懐ちゃんも入ろうよって、一年のころは威勢よく誘われてたっけ。そもそも依本は入学のときの部活紹介から〝なんこれ〟みたいな目で見てたし。

 思い出に浸っていると、沙奈々ちゃんが私の制服をクイックイッと引っぱってきた。

 ほほう、さては、やっと私にかまってくれる気になったのね!

 テンションが上がった私は「なになに」と振り返ったけれど、沙奈々ちゃんは「いや、だから、真面目に話に参加してくださいよ」と諌めてきただけだった。

 そんなこと言うんだ。期待して損した。もっと私を喜ばせるようなこと言ってよ。

 内心拗ねている私に対し、沙奈々ちゃんは「ほら」と催促してくる。

 他の部員たちもそうだぞって目で私のことを見てきたので、しょうがないなと口を開く。


「思春期で感情の爆発って言うと……恋とかかしらん?」


 その場しのぎで適当に言っただけなのに、思いのほか、みんな食いついてくれた。机から身を乗り出して「ありえる!」と叫ばれる。


「恋愛感情から覚醒する超能力! ニーナ・クラギーナの場合、結婚後のノイローゼが原因だったわけでしょ? 夫婦間の倦怠期や愛の比重からくる気の病とも考えられるんじゃないかな。そういう意味で改めて見直してみると、はじめちゃんのレポートって、けっこう信憑性高いんじゃないの?」


 私のその場しのぎはなかなかのファインプレーだったらしい。白熱していた議論爆弾に、追い火薬を加えちゃった感じだ。

 みんなの声のボリュームキーは数度ほど右に回されてしまった。女三人寄れば姦しいとは聞くが、オカ研十二人いればけたたましいな……いや、二年に幽霊部員が一人いるみたいだし、正確には十一人か。幽霊に興味は持つくせに、幽霊部員には興味ないんだもんな、この部。ウケる。

 そういえば、三年生のいた少し前までは、もっと騒がしかったんだよなあと、そんなことを考えていた、まさに、そのとき――いきなりことだった。



『ウーッス。みんな、久しぶり!』


 

 ビジョンが見えた私はすぐさま席を立ち、床に置いていた鞄を持ち上げ、肩にかけた。


「あ。急用思い出しちゃった。ごめん、先に帰るね」


 突然の私の発言に、みんなは「えっ」と驚嘆する。あるいは、そさくさと身支度を整える、私の移り身の早さに呆然としていた。沙奈々ちゃんからは呆れの眼差しをプレゼントされる。悲しいけど、沙奈々ちゃんの私への好感度を無下にしてでも、私はなるべく帰りたかった。

 現在のオカ研は二年が主体だった。三年生は、受験のために、活動を制限しているのだ。部活によって勇退の時期はまちまちだが、大概は夏までとなっていて、オカ研もその風習に倣っている。

 その中でも、AOやら推薦やらで受験を終えた三年生が、たまーに部室に遊びに来たりするのだが――そうこうしているうちに、懸念していた数秒後は訪れる。


「ウーッス。みんな、久しぶり!」


 私のビジョンどおり、突然開け放たれた部室の扉から、伊蘭坂いらんざかという先輩が、近所の商店街で買ったプチシューを携え、顔を出した。

 私以外の人間は全員そちらへと目を向けた。そのまま「わっ」と顔色を変え、「お久しぶりです、先輩!」と歓迎する。


「そら、お土産」伊蘭坂先輩は、空いていたスペースに、大きな箱の入った袋を置く。「ここに置いとくから、みんなで好きなときに食えよ」

「先輩の奢りですか?」

「当たり前だろ」

「やった! ありがとうございます!」


 みんなのにこやかな返事を受け取ったあと、伊蘭坂先輩は、一人、鞄を持って立っていた私に、その目を向けて、「えっ、懐、もう帰る感じ?」と尋ねてきた。


「はい。用事がありまして」

「せっかくお土産も持ってきたのにかよ」伊蘭坂先輩は顔を顰める。「せめて食って帰れば? それくらいの時間はあるだろ?」

「え、えー……」


 そのあいだにも、他の部員ががさごそとプチシューの箱を開けている。


「……わっ、これ、外側がアメ焼きになってるやつじゃないですか! 俺、好きなんですよ! ほら、せっかくだし、別守ももらおうぜ!」


 てっぺんのところをカリッとアメ焼きにしたプチシューは、私も大好きだった。私は絶対に帰るとしても、みんなだけで食べられるのだって、それはそれで嫌だ。だけど、さすがの私も、みんなに食べるの我慢してなんて言えない。自意識過剰に自己中が付け足されたら、もう目も当てられなくなる。

 私は、しょうがなく、元の席につき、鞄を置いた。


「それで? 藻場もばくんも脇沖わきおきもしっかりやってるか?」先輩は私の席の近く、ドア付近のお誕生日席に座った。「次期部長、副部長なんだから、部費の管理もお前らがやるんだぞ?」


 藻場くんは「はい」と答えた。他の部員も、持ってきてくれたプチシューを美味しそうに食べながら、久しぶりに会えた先輩の声に耳を傾けている。

 伊蘭坂先輩は、部長や副部長でこそなかったけれど、三年生の中では主体とも言えるポジションにいて、イベントごとで幹事を任されることが多かった。大らかな性格で、場を盛り上げるのが上手い。オカ研の部員たちは、伊蘭坂先輩を慕っていた。

 ちなみに、私はこの伊蘭坂先輩のことが、あまり好きではない。大らかな性格とは言ったものの、よく言えばの話であって、私からしてみれば、軽薄で軽率とも取れる。

 それに、ちょっとチャラチャラしてて、なんでオカ研にって感じ。バスケ部とか軽音部とかのほうがよく似合う。同じ部活でなければ、絶対に関わりを持たなかったであろう人種だ。

 ノリが違うというか、分かり合えないというか。よく話しかけてくるけど、少し相手にしづらいというか。説明するのが困難な部分で、私はこの先輩を苦手としていた。

 だから、一刻も早く帰りたかったのに、まいったな、やっぱりプチシュー美味しい。

 私が三つも四つも食べていると、藻場くんが「おい」と怒ってきた。


「別守、食べすぎ。後輩の分もちゃんと計算して食べろよ」

「こういうのは早い者勝ちだよ。だから私は、みんなが私に遠慮せずに食べまくっても、絶対にみんなを責めたりしない」

「なんでそんな横暴論理を振りかざしてくるんですか、先輩」


 藻場くんや沙奈々ちゃんにそんな小言を言われつつも、早くも五個目のプチシューを堪能している私――決して自己中ではない――に、伊蘭坂先輩が口を開いた。


「そんなにこれが好きなんだったら、今度食べに行くか?」


 心臓の奥底みたいなところがもやっとして、同時にぞわっとした。

 こういうところだ。

 言う相手がいないから、誰にも共感してもらったことはないけれど、私は先輩のこういうところが苦手で、そして、それを誰かに悟ってほしいとも思っている。

 でも、誰もわかってくれないから、私は表面上和やかに聞こえる言葉を弾きだし、なんとか煙に巻こうとする。


「私、金欠なもんで」

「任せろ。後輩に奢る甲斐性くらいはあるぜ?」

「いやいや、先輩に気ぃ使う常識くらいありますよ」

「なに懐らしくないこと言ってんだよ」

「ええー、それどういう意味ですか」


 笑いながらも、これはもう限界だなと思い、私は今度こそ立ち上がった。鞄を肩にかけ直して、最後に一つプチシューをいただく。それを見た沙奈々ちゃんは「あっ」と漏らした。


「じゃあ、私はこれにてお暇します。みんな、またね」

「先輩、それ、六個目」

「沙奈々ちゃんは今度こそ絵しりとりしよ」


 去り際、捨て台詞のようにそう吐いた私に、沙奈々ちゃんは「六個目」と執念深く言った。

 私は廊下を早歩きしていく。

 もやもやすることが多い。あと、なんとなくそわそわする。

 自分の手首につけているビクトリノックスに触れた。

 硬質な感触に何故だか安堵した。

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