第2話 1020
あの日の昼休み以降、私は事あるごとに逢木くんにちょっかいをかけにいった。
持ち前の自意識過剰によるマウンティング精神で、話しかけるのに勇気はいらなかった。
たまたま通学路で見かければ挨拶をしたし、男子と女子の体育場が別なのをいいことに、忘れてもいない体育館シューズを借りたりもした。そのときの逢木くんは困惑気味だったけれど、私は「大丈夫、私、意外と足おっきいから」と誤魔化しきった。もちろん平均的な女子である私の足のサイズが異様に大きいわけもないので、彼から借りたシューズは更衣室のロッカーに残しつつ、普通に自分のシューズで体育をした。
だが、そんなふうに奮闘した、逢木くんの心情調査状況を表すには、平行線という言葉が一番しっくりくる。
つまり、なんにもわかっていないのである。
いろんなことをして反応を伺ってきたけれど、どれも思ったものとは全然違くて、参考になりゃしないのだ。
ちなみに、私たちの関係性に着目するならば、少し進展していた。というか、私が自主的に進展させてしまった。
そりゃ、話しかけてるんだから当たり前だけど、つい最近までお互い挨拶さえしなかったというのに、そこそこしゃべる間柄にまで発展している。我ながら自分の行動力が恐ろしい。まあ、やめるつもりなんてないけども。
とはいえ、めちゃくちゃ意識しあってるだとか、交際秒読みだとか、そんなはっきりくっきりとした交流ではなくて、気まぐれに話したり、すれ違ったとき会釈くらいはする程度の、まさしく、ただのクラスメイトの間柄ではある。私も逢木くんも、あまり異性と話すようなタイプでもないし、そういうのが得意なひとたちからしたら、お愛想程度の付き合いに見えるのかもしれない。
こうして考えてみると――私が動かなかったら、本当になにも起こらなかったんだろうな、私と逢木くんには。
現状の、ただのクラスメイト以下で、特に私は彼の名前さえ知らなくて、そのまま彼の存在に気づかずに、卒業していった可能性だってある。
そんな彼が私のことを好きになってくれたなんて、どういう経緯あってのことだろう。たとえば、一目惚れとか? 個人的には、一目惚れって、軽いノリな感じがしてしまって、あんまりいい印象を抱かないのだけれど。いや、でも、卑下でも謙遜でもなんでもなく――謙遜は苦手だ―― 一目で惚れこんでしまえるほどの魅力なんて、私にはないはずだ。よくある焦げ茶けたセミロングも、平均的な体格も、決定打にはなり得ない。恋は盲目というけれど、盲目だから恋をしたりして。恋をしたことのない私には想像できない。恋って、とても不思議だ。
「永……久……恋……愛……と。ふう、我ながら、なかなか上手に書けてるでないの」
「懐ちゃん。命が惜しくないようだね」
怖っ。
前の席から、縦長の文鎮を持った依本に振り向かれ、私は、筆を包むための簀巻を盾のようにして構える。
私たちのクラス、二年二組の芸術選択は、書道にあたる。一週間に一回、教室で墨と筆をとるのだが、それが今日この時間だったというわけだ。提出課題が終われば、あとは好きに書いていいことになっている。普段は早々に片づけて雑談に興じているのだが、せっかくなので、今日は滅多に使えない長半紙を前に、私は書の道に勤しんでいたのだ。達筆とは言えないものの、丹精こめて筆捌かれた友の名前の書。それに気づいた友・依本は、凄まじい真顔で私を見つめている。
「心外だなあ。私はただ、恋の神話性について、大きなスケールを以って考えていただけだよ」
「懐ちゃんの存在を神話にしちゃおうかな」
怖すぎ……キラキラネームなんてつけるもんじゃないな、背負っている負のオーラが違う。
私は、ゆっくりと簀巻を定位置に置き、新しい半紙を広げ、硯につけていた筆を持つ。
「じゃあ、依本はさ、どんな名前がよかったとかあるの?」
「あるよっ」依本は即答した。「ななこ、とか。まりこ、とか。普通にかわいい感じの、子、とかがつく名前がよかったなって思うんだ」
ふむふむ、と頷きながら、私は半紙に、奈々子、真理子、と綴っていく。左のほうに、小筆で自分の名前も書いておく。すると、依本は「あとでこの紙ちょうだい」と言った。緩い表情で「好きなものだらけ」と続けた。昔はこの名前、画数多くて面倒だなって思ってたけど、依本にそう言われると嬉しくなる。
「懐ちゃんの、なつき、っていうのもかわいいよね。字は珍しいけど、見事に名が体を表してる感じがする。懐ちゃんって、人懐っこいでしょー?」
「そうかしらねえ」
「もう永久恋愛じゃなければなんでもいいよ。私は私以外になりたい」
「もはや哲学じゃん」
「名前なんてただの記号だもん。我思うゆえに我あり……つまり、名前などいらぬ……」
負がやばい、負が。
しかし、彼女の机をよく見てみると、さっきまで取り組んでいた書道作品がぺらぺら束になっている。書道作品っていうか、もはや絵だった。ちょうちょとかひよことか、お花とか流れ星とか、自由気ままに絵を描いている。依本、元々はこういう、和みの性格をしてるんだよなあ。ちょっとかわいかったので、写メらせてもらった。これ、ホーム画面の待ち受けにしてやろうと、私は携帯スマホをたぷたぷと弄った。
「ていうか、懐ちゃん、まだロックナンバー、9999のままなの?」
そのロック解除を見ていた依本がそう尋ねてきた。
「うん。銀河鉄道」
「なら0999でしょ」
「わざわざ指の位置動かすの面倒だから、フォーナインにしてやった」
「それじゃ、もしものときにすぐ解除されちゃうじゃん。変えたら?」
「んんー」私は唸った。「私にはちょっとした夢っていうか、ロマンがあってね、そのときに変えるつもりだから、直近ではちょっと」
「え、なになに、聞きたい」
「もし誰かと付き合ったらね、そのひととの交際記念日をロックナンバーにすんの」
「ばり乙女!」
依本はきゃらきゃらと笑った。基本、芸術の時間は騒がしくしててもやることやってれば大丈夫なんだけど、さすがに先生もちょっと顔を顰めていた。依本は声のボリュームを抑え、耳打ちするような近さで「じゃあさ、じゃあさ」と囁く。
「懐ちゃんは、気になるひとっているの?」
気になるひとぉ?
強いて言うなら逢木くんだけど、あれは気になるっていうか、私のこと気になってるみたいだから気になってるだけだしなあ。
考えるまでもなく素直に「いないかなあ」と答えた私に、「つまんないの」と依本は呟く。
「じゃあ、懐ちゃんのロックナンバーが変更される予定はないってことかあ」
「まあ、直近でその予定があるわけでもなくもなくもないけど」
「なくも、なく、なく? これって結局アリのほう? ナシのほう?」
私はそれを無視して、新たな半紙を用意する。
アリかナシかなんて、私だって知らない。なんか考えるのも憂鬱になってきたのだ。
だって、そうでしょう。告白してくるビジョンは見えているのに、実際の彼はなにも言ってこなくて。私はそのたびに、心地好いところをくすぐられては、さよならも言わずに去られてしまった気分になるのだ。なんかアンニュイ。
「貴方は私のことが好きなはずなのに……」
「えっ、なに、恋バナ?」
「ううん、どっちかって言うとミステリー」
「恋はスリル・ショック・サスペンスだもんね」
違う。違うけど、なんかその歌のタイトルの意味がめちゃくちゃわかる。告白されるかもしれないというスリル。告白されなかったショック。いったいどういうことだと推理するサスペンス。でも、私、探偵じゃないからなあ……この謎は一生解けないのかもしれない。
「Ah~謎が~と~けて~ゆ~く~」
暢気に歌う依本をよそに、十二画以上の漢字という縛りをつけて、私は思いつくままに書いていった。ずらずらと綴っていくうちに、そういえば、逢木くんのアイって漢字、難しいほうの会うって字だったっけ、と思い出した。
思い出したものだから、私は、教室の前の左隅、自分と対角にあるほうの席を見てしまう。
けれど、そこには誰もいなかった。トイレに行っているのかもしれない。私に断りもなくトイレに行くとは、と思ったが、そもそも逢木くんがトイレに行くのに私の断りが必要なわけがないし、実際に断られても困るだけだとは思う。
私は席を立つ。そろそろ書道道具を片づけようと思ったのだ。課題は書けたし、墨の匂いがしんどくなってきたし、さっさと洗ってこようかしらね、と。
「依本も洗いに行く?」余分な墨を新聞紙で吸い取りながら、私は依本に声をかける。「ぼちぼち片づけるひとも出てきたし、授業もあと十分くらいで終わるし」
「私、まだ課題のほう書けてないから無理」
「書いてから遊べよ」
私は道具を持って教室を出る。廊下を歩いていると、先に洗い終わったクラスメイトが、いそいそと教室へ戻っていくのにすれ違う。そして、いざ、トイレの向かいにある大きな水道場に来てみると、そこには逢木くんがいた。
勝手にトイレに行ったものと思っていたが、そうか、もう授業も終わるし、私と同じような考えに至る者も多い。しかし、そんなことよりだ。なんと、水道場には、逢木くんしかいなかった。廊下を振り返る。誰かが来る気配もない。
二人っきりの空間――これはチャンスだ。
「……お隣失礼しゃーす」
水道場の蛇口はどこもかしこも空いていたが、私はそのなかでも、彼の隣を陣取った。
突然隣に現れた私に、逢木くんは驚いていたが、すぐに紳士的な笑みで「どうぞ」と告げる。
本当なら焦ってほしかったけど、まあいい。予想の範囲内。逢木くんは、私が話しかけないかぎり、私と話さないことだってわかってる。現に彼は挨拶をしただけで、私のほうを見さえしない。それでは癪だしつまらないので、私は反抗してやるけれど。
「依本がね」
「えっ?」
「依本が、書道の課題もしないで、絵ばっか描いてるの」
「ああ、うん、依本さん……なんか、そんなイメージあるよ」
私の唐突な会話にも、逢木くんは親切に、丁寧に返してくれる。すごいな、逢木くん。さして仲よくもない異性にこれだけ話しかけられても、心のシャッターがシャッとならないなんて。私ならなんだこいつはとか思ってるところなんだけど。
「だから、いまから書き始めるんだって。課題くらい終わらせとけって感じだよね」
私の感想に、逢木くんは「たしかに」と苦笑した。
「でも、筆で絵を描けるなんてすごいね。けっこう難しくない?」
「難しいけど、依本は意外と上手いよ。お絵描きも好きみたいだし」
「絵を描くことが好きなんだったら、書道選択じゃなくて美術選択にすればよかったのに」
「それはないと思う。私が書道選択だったから」
逢木くんは、わけがわからない、というような、味のある表情を見せた。
私は解説してあげる。
「あの子ね、普通に私のことが大好きなの。だから、私が書道を選択した時点で、あの子の中には書道しかなかったの。私と絵なら、私のほうが好きなんだよ。こっちのほうが好きだから、こっちって、そうやって選んだんだと思うよ」
「……なるほど」
この暴論、男の子なら引くだろうなって思ったんだけど、逢木くんは納得しただけだった。腑に落ちた、みたいな反応。意外。男の子って、女の子よりサバサバしてるっていうか、あいつがいるからここに行く、とか、あの子がいるからこっちを選ぶ、みたいな感覚、わかんないと思ったのにな。
それでも、どうしても、頭ごなしに否定されるよりはよっぽど嬉しくて、私はつい、べらべらとしゃべってしまうのだった。
「上手く言えないんだけど……好きって、ちょっとわがままで、偉大なことだと思うの。どこにでも転がってて、そのたびにね、ちょっとずつ、選択っていう決断をしてるんだと思うの。小さすぎるから、無意識のうちだから、自分にとっては、当たり前のことだから、みんな気がつかないだけでね――たとえば、私はいちごカフェが好きだから、いちごカフェ以外の飲み物にはお金を払わないって決めてるし。お風呂のときと寝るときとテストで時計代わりにするとき以外は、ずっとビクトリノックス腕につけてるし。依本が嫌がるから苗字で呼んであげるけど、実はかわいいとも思ってるから意地悪みたいに名前呼んじゃうし。私がいるから、依本は書道を選択したし」
「好きなひとが、危険な目に遭ってるから、そのひとを置いて逃げられなかったり?」
「そんな感じ」逢木くんのドラマチックな例えに、私は笑って頷いた。「そこまで大胆な気持ちは、さすがにわかんないけど……さては逢木くん、それぐらい好きなひとがいたりするの?」
そしてそれは私だったりするの?
そんな期待もこめて、私は逢木くんのほうへと目を向ける。
見つめたのは横顔だった。彼の目線は、墨の薄まった硯へと下向いていた。黒い靄みたいなものが、水に溶けていくように、人工大理石のシンクを滑っていく。筆を動かし、その汚れを落としながら、彼はおどけるように言う。
「……実際にできるかどうかは、まだわからないけど、きっと僕だってそれぐらいには好きなんだろうな、大事だなって子なら、いるよ」
私は二の句を継げなくなった。声音の中から、轟々と悲しく燃えるような、炎のような想いを、見つけてしまって。優しく落ち着いたその眼差しに、たしかなものを見つけてしまって。ティーンエイジャーの男の子の胸にはあまりにも重い、壮絶ななにかを見つけてしまって。
それがなにかはわからないけれど、彼がハッとしたように私のほうを見たから、私には知られちゃまずいものなんだろうな、と察した。
やっと手繰たぐり寄せられたその目にも、私は一瞬
「別守さんには、好きなひととか気になるひとっている?」
あまりにも
しかし、そんな私の返答に対し、逢木くんは飄々と呟く。
「なら、よかった」
書道道具を洗い終えた逢木くんは、キュッと水道を止める。テキパキと後片づけをして、颯爽と教室へ戻っていく。
私はその後ろ姿を眺めていた。しばらくしてから視線を手元へと下げ、筆を洗いながら、濁りを帯びた飛沫を見つめる。瑞々しく弾けるそれは、私の指先を小刻みに打った。
言いたいことはたくさんあって、恥ずかしいくらい熱烈な発言とか、よかったっていう言葉とか、どういうつもりなのって、
「……貴方、めちゃくちゃ私のこと好きなんじゃないの」
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