第1話 1009

 我が郭都谷高校は百二十年の伝統を誇っているらしく、その旨を祝う垂れ幕が、体育館奥の旧校舎に垂れ下がっていた。

 遠目にそれを眺めながら、なーにがお祝いじゃ、といちごカフェのパックジュースをズズッと啜る。

 昼休みのこの時間、学校中どこもかしこも往来が盛んだ。購買からいちごカフェを買って帰ってきた私は、教室廊下側の最後列、慣れ親しんだ自分の席に腰かける。

 自分の席と対角の位置にある席を見た。そこには、私のビジョンを裏切った件の男子生徒・逢木直流が座っている。

 逢木直流はクラスメイトだった。

 これは、あの告白未遂行事件後に発覚したことで、私はそれまで彼が同級生であることさえ知らなかった。

 まさか、自分のクラスメイトの顔と名前さえきちんと憶えていなかったとは。記憶力に自信のある私にとって、このことは衝撃的かつ屈辱的な事実であった。

 しかし、よくよく考えてみると、ひとえに縁がなかったというだけの話。私のクラスの担任は、あんまりそういうのに気が回らないタイプなので、いまの年度になってから十月現在に至るまで、一度たりとも席替えを行なっておらず、おかげでというべきか、私と彼の席は、教室の中で一番離れている。

 逢木と別守。。窓際最前列と、廊下側最後列。関わりの薄さは最強、濃さは最弱といった具合である。

 私がビジョンを見る体質でなければ、はたまた、彼が確定事項を覆すようなことをしなければ、私たちは、きっと永遠に、互いを意識しなかったに違いない。

 反実仮想は脇に置く。現在、私と彼の運命の歯車は回り始めてしまったわけだから、そんなことはどうでもいいのだ。

 問題は、そう、現在のことだ。お互いを意識しまくってるはずの、現在の話だ。

 私はいちごカフェを飲みながら、自分の席と体格の位置にいる彼を、半目で見つめる。

 逢木直流。お前はとても罪深い男だよ。

 寄せては返す、波のような男だよ。

 初めて確定事項が覆った日からちょうど一週間経ったけれど、その一度に飽き足らず、あれから二度も、三度も四度も、私への告白を拒みつづけるとは。おかげで私は、何度も何度も身構えては、それが徒労に終わるような、空しい思いを味わわされたよ。

 たとえば昨日、また目が合ってビビッときたのに、実際はなんにも言わないで、いまみたいに友達と談笑していたよね。なんで? 優柔不断? 好きなら好き、嫌いなら嫌いでバーンと言っちゃえばいいのに。わけもわからず焦らされる私に悪いとは思わないわけ。最初は意地悪でコテンパンに振ってやろうと思ってたけど、いまは違う。考えるふりくらいはしてあげてもいいかなって、そう思ってるんだよ。私の意地が軟化したいまが告白するチャンスだよ。さあ、こっちを向いて、貴方の本心を聞かせて!

 ふと、窓に背凭れて友達と話している彼と目が合った。



『別守さん、好きです、大好きです!』



 目が合った一瞬間いっしゅんかん、ビビッとビジョンが見えたのに――また、彼は私に告白しなかった。

 何故だ!? 何故お前は私に告白しない!?

 ほんの撫でるだけで終わり、すぐ逸らされた彼の視線に苛立ち、私のいちごカフェのパックを持つ手に自然と力が入る。圧で押し上げられた甘味が口内に広がった。

 悔しい。悔しいというか腹立たしい。

 ビジョンのように私に告白してくるそぶりも見せないのだ。

 目は合うけど、一瞬だけ。その視線の離れかただって、恥ずかしくて目を逸らすというより、偶然合って必然離れただけって感じなのだ。

 おかしい。私は貴方にとって、告白しようと思ってる女の子のはずでしょう。男の子ならさっさと告白してこい、逢木直流。一寸先に垣間見た貴方は、あんなにもまっすぐだったのに。


「もう、懐ちゃんってば。足開かないの。音立てて飲まないの。あと睨まないの。女の子なんだからー」


 ずっと携帯スマホを弄っていた、私の一つ前の席の友達が、机の下から私の脚を叩いた。短くしたスカートはそれを防御するに至らず、ぺちんと素肌同士の音が鳴る。

 私は逢木くんから視線を外し、友達のほうへと向けた。


依本よりもと。手ぇ湿ってる」

「そ、そんな恥ずかしいこと言わないでよ! ていうか、懐ちゃん」椅子に横向きに座っていた依本は身を乗り出し、私の机に頬杖を突く。「最近ばり不機嫌じゃん。どうしたの?」


 首を傾げた拍子に、ふわふわとカールした依本のロングヘアが、胸元や机に雪崩れこんだ。依本の髪の色は、私の茶けた黒髪よりもよっぽど明るい色をしていて、深緑の制服によく映える。だから枝毛もよく見える。しかも三つ子ちゃんじゃん。

 私はそれを教えてあげようとして、けれども思いとどまる。これ言ったら、また恥ずかしがって怒るかもしれないな。たちまち閉口した私は、素直に依本に打ち明けることにした。


「……依本よ」

「なあに?」

「貴女は私を裏切らないと誓うか?」

「まじでなに言ってんの?」


 いえね、ここ一週間、自分を好きなはずの男の子に、裏切られつづけてるだけですよ。


「や、わかってるよ? 貴女が私のことをズッ友だと思ってくれていて、私のことを好きなことくらい。こんなことを聞くのもおこがましいくらい。でもさ、絶対そうだと言いきれるほど強い確信を得たとしても、裏切られることってあるのよ。あったのよ。だから、やっぱりそういうのって、直接聞きたいのよ。永久恋愛えくれあちゃんもそう思わない?」

「次その名前で呼んだら殺す」


 怖っ。声がまじだ。

 私のお友達こと依本永久恋愛ちゃんは、このとおり、自らのキラキラネームを相当嫌っていた。その名前でいじめられたことも、母親と喧嘩して家出したこともあるらしい。顔に似合わず過酷な運命を背負って生きてきたようだ。

 普段は、その甘い名前に似つかわしい、女の子女の子した雰囲気をふわふわ漂わせているのだが、たちまち地雷を踏み抜けば、本性の鬼神が飛び出てくる。


「あとやっぱなに言ってんのかわかんない」鬼神が鳴りを潜め、私の友達が帰ってくる。「でもー、私と懐ちゃんはー、ズッ友だよん」


 依本は私の小指に自分の小指を絡めてきた。だから、湿ってるんだって。

 でも、やっぱり解せない――依本に応えるように私も小指をクネクネ動かしながら、逢木くんのことを考える。

 貴方はいったいなにがしたいの。私のビジョンを裏切りつづける、貴方はいったい何者なの。

 それとも、まさかとは思うけれど、私のビジョンが間違ってるとか?

 これまでずっと感じていた確信は偽物で、本当は、私にはビジョンなんて見えてなくて。だとしたら、話したこともない男の子から好意を寄せられているなんていう、悪質極まりない妄想癖のが私にはあるのだと、そんな不名誉な可能性が浮上してしまうのではないか。しまった。いよいよ私の自意識過剰が致命的なものになってしまう。それだけは避けたいから、とっととビジョンどおり告白してこい、逢木直流。

 コイコイ、と唸りながらいちごカフェを飲んでいると、また一つ、めんどくさそうな、数秒後のビジョンが浮かんだ。



『今日の日直って別守さんだったよね? 四限目の体育の場所、先生に聞いてきてもらいたいんだけど』



「…………うっ、うあっ、アイタタタ!」


 いきなりお腹を押さえ、前のめりに倒れこむように背を丸めた私に、慈しみ深い依本は「懐ちゃん?」と心配そうに囁く。

 その数秒後、すぐ近くの教室のドアが開いた。


「あっ、いたいた! 今日の日直って別守さんだったよね? 四限目の……って、どうしたの? お腹痛いの?」


 教室のドアから顔を覗かせたクラスメイトが、お腹を押さえる私を見て、そう尋ねてきた。私の代わりに、「そうみたいなの。急に蹲りだして」と答える依本。慈しみ深いクラスメイトも心配そうに「大丈夫?」と尋ねてくれる。


「うっ、い、痛いーっ」私は捻り出すような声で言う。「急にすごい腹痛が……なんか立てないくらいなの……生理来たのかもしんない」


 慈しみ深いクラスメイトは、やはり、「えっ、それは大変!」と私の身を案じた。


「んんん、まだ休み時間あるし、保健室で薬もらってきたほうがいいかな……えっと、ちなみに、私になにか用だった?」

「あ、いいのいいの!」慈しみ深いクラスメイトは、慈しみ深く手を振ってくれた。「別のひとに頼むから気にしないで! お大事にね!」

「うん。ありがとう」


 会話を終えると、その慈しみ深いクラスメイトは去っていった。私はそれを見送り、完全に見えなくなったところで、パッとお腹から手を離し、背筋を伸ばした。


「懐ちゃん?」

「引っこんだわ」

「生理が……?」

「腹痛が」


 フム。やっぱり私の見るビジョンは本物のようだ。ビビッとひらめいたとおりの未来が、数秒後にきちんと訪れている。

 もちろん、これまで百発百中の常勝記録を打ち出していたこの体質を、たかだか男の子一人のために本気で疑っていたわけではなかったけど。このビビッも、あのビビッも、なにもかも同じ。一寸先を照らすフラッシュ。逢木直流からの告白のビジョンが異質なだけで、あとは全てが現実となっている。

 困った。ビジョンが本物であることから、やはり私の能力は本物だということは証明されたのだが、彼がビジョンどおりに告白してこないことの理由はまだわからない。

 照れ屋だとか、奥手だとか、公衆の面前で告白をぶちかませる人間に、そんな理由は見こめないし。

 もしくは、大勢の前で告白される私のことを慮って、我慢してくれているとか? だとしたら、ちょっと好感度上がっちゃうなあ。まあ、たとえ一対一で告白されても困るんだけど。だって私たち話したこともないんだし。

 んー!

 彼がなにを考えているのか、さっぱりわからん!

 この一週間、一人で唸ってきたけど、いよいよ、考えこむにも限界がきた。

 恥を忍んで白状するが、私は、勉強を代表とするような頭を使う作業が、あまり得意ではないのだ。幸い記憶力はよいため、暗記系の科目はそこそこの成績を取れているけれど、思考力を試される科目となると、とことん無理なんて状態だった。お手上げである。降参。

 いまの状況にもお手上げ、降参だ。どうして逢木直流が私に告白してこないのかなんて、どれだけ考えたってわかるわけがない。

 ただし、降参するつもりは毛頭ない。

 何故なら、彼は私を好きなはずだからだ。惚れた弱みという言葉があるように、恋愛において、マウントを取っているのは常に惚れられた人間のほうなのだ。私と逢木直流とでいうなら私にあたる。惚れられている私がどうして降参しなければならないの。どうせなら告白されたい。あわよくば振りたい。

 というわけで、翌日、とうとう私は、彼に話しかけてみることにした。


「ごめん。そこ、よろしいかしら?」


 我ながら、マウントを取っているのは私、という性根の醜さが露呈するような台詞だった。

 昼休み。食堂の五人がけテーブルで、一人ポツンと座っていた逢木くんに、そう声をかけた私は、彼の返事よりも先に、自分の持っていた親子丼をテーブルに置き、席に着いた。

 隣の依本はいじらしくも「え、いいのかな」と呟いていたが、いいっていいって、焦がれる私が目の前に座ったんだから、彼も悪い気はせんだろう。ていうか、悪くなってたら許さん。

 私が彼に話しかけたのは初めてのことだし、彼の顔を間近で見たのも初めてのことだった。

 彼はびっくりしていたけれど、すぐに「いいよ。二人だけ?」と尋ねてきた。


「僕の友達も、このあと二人来るから、ごめん、人数が多いようなら、どこかから余った椅子を持ってきてほしいんだけど」


 彼の態度は実に普通で、大して会話のしない女子に話しかけられたらこんなことを返すだろうなというような台詞を吐きだした。

 私の代わりに「二人だけ。こっちこそ、ごめんね」と依本が答える。

 彼は「そっか。なら、どうぞ」と返し、しっとりと微笑んだ。ついでに、そばにあった濡れ布巾で軽くテーブルを拭いてくれる。紳士的なやつめ。私は置いてあった自分の親子丼を持ち上げて、「ここも」と促した。彼は文句も言わずにするすると拭いてくれた。もう少し焦ったりきょどったりすると思っていたのに、なんか余裕の反応だな……ちょっとつまんない。

 依本も椅子に座り、自前の弁当と水筒をテーブルに置く。私は、親子丼の乗ったトレーの位置を動かすふりをして、逢木くんのほうを見遣る。

 目は合わない。なにを考えているのか、どこを見ているのかも悟りにくい様子で、肘をついている。

 本当につまらなくなってきた。話しかけたときもそうだったけど、もう少し慌てふためいてくれたらかわいかったものを。

 他人よりも一つ分多く余裕を持ち歩いているかのような態度は、おとなびていて素敵だとも思うけど、人生を達観してる感じがして、ちょっと気に障る。間近で見た逢木くんは、真面目で穏やかそうな風貌どおりの、だけど、なんとなく不思議な雰囲気を持つ男の子だった。

 よく知りもしないクラスの男子生徒と相席することになったのがむず痒いのか、依本は世間話でもするかのように口を開く。


「なんか、変な感じだよねえ。私たち、同じクラスだけど、席は離れてるから。あのクラスになってから半年以上経つのに、全然しゃべったことなかったし」

「そうだな」逢木くんは頷く。「別守さんと、依本さん、だよね? ちなみに二人は僕のこと知ってる?」

「逢木直流くん。覚えてるよ」


 実際のところはつい最近知ったようなものなのだが、私は平然とそう答えていた。

 逢木くんは、フルネームで覚えられていたことがよほど意外だったらしい。緩やかな目をほんの少し見開かせてから、「……そっか」と返す。

 あっけない一言。けれど、こいつは私が好きなんだという、私の偏見に満ちた眼では、少し嬉しそうにも見えた。


「別守さん、記憶力いいんだ」

「記憶力って」依本はおかしそうに笑う。「同じクラスなんだから、さすがに顔と名前くらい把握してるよ」

「じゃあ、生野うぶの帰山きやまのことは? 学食買ったらあいつらここに戻ってくるんだけど」

「ああ! 出席番号順で、教室の左上のほうで固まってるよねえ、三人とも」


 へえ、そうなの。私は逢木くん以外ノーマークだったので知らなかった。

 依本の話を聞きながら、ここに彼女がいてくれて助かったな、と思う。私だけだったら、全く会話をしないまま、無言で反応を伺うしかなかったはずだ。

 話を聞いている分には、逢木くんを含むその三人、出席番号順に並んだときに知り合ったとかなんとかで、そのままつるむことになったらしい。友人グループを作るのにありがちな話。等身大の男の子って感じがする。

 依本の「逢木くんも弁当なんだ?」という質問に、彼は「うん」と答えていた。


「私、毎朝ちゃんと手作りしてるんだあ」

「僕も」

「えっ、すごい」

「よく見せてよ」


 私はふと声をかける。聞き役に徹していてもよかったけど、せっかくだから話しかけてみることにしたのだ。

 突然の私の言葉に「えっ」と驚いた逢木くん。と、目が合った。ビビッと、ビジョンがひらめいた。



『好きです、別守さん。よかったら、僕の作ったお弁当、食べてみてくれないかな?』



 重っ。

 そう、思わずツッコミを入れたくなったけど、好意を前面に押し出してくれるような、初々しいビジョンだった。

 これが数秒後に訪れるとしたらと身構えて、なのに、目の前の彼は「ほら」とお弁当箱を開けてくれるだけだ。しばらく待ってみたけれど、それ以上の言葉は発さない。次第に逢木くんの顔色に困惑が滲みはじめる。困惑したいのはこっちだよ。相席を誘ったのもこちらからだし、告白してくる気配だってない。

 ふんだ、と思いながら、私はお弁当箱の中身をじっと見る。


「へえ、すごいじゃん、逢木くん」


 意外としっかりしたお弁当の中身に、私は素直に感心した。毎朝自分のお弁当を作ることもできない私からしてみれば、実に高度な次元。男の子が弁当を作るだけでも意外なのに。きっとしっかり者なんだろうなっていうのが伺える出来栄えだ。

 私と同様、お弁当箱を覗きこんでいた逢木くんが「毎朝適当に詰めてるだけなんだけどね」と顔を上げる。


「別守さんは弁当じゃないんだ?」

「うん。だいたい購買」

「お金かかるし、大変くない?」

「逢木くんみたいに上手には作れんからね。あと、ごはんにいちごカフェは合わない」


 いちごカフェとは、私の大好きな飲み物のことである。

 一口飲めば、舌にとろやかな甘さが広がる、飲めるピンクオパール。こう言うと、だいたい「なに言ってんの懐ちゃん」とツッコまれるのだが、私はそのいちごカフェが大好きで、気づいたら四六時中飲んでしまっているのだ。お昼ごはんのときだっていちごカフェをお供にしているのだから、万全な状態で飲みたい。

 ふっと、あるかなきかの笑みを浮かべ、「親子丼にもいちごカフェは合わないだろ」と逢木くんは言った。


「それがね、合う。味の濃いものにはなんでも合うよ」

「ソース物は合うかもね」逢木くんは続ける。「焼きそばパンとか」

「あとラムネ」


 追言ついごんした私の言葉に、依本も「ラムネ?」と首を傾げた。

 私はにやりと笑った。


「依本も、いっぺん試してみたらわかる。天国の味がする」

「天国の味があるってことは、地獄の味もあるのかな」


 これ、これ、いまは天国のほうの話をしようよ。神妙な表情のわりに上の空気味の発言をする依本の体を、私は揺する。だけど、「じゃあ、地上の味ってどんなの?」と呟きだしたあたりで、依本から手を引くことにした。

 依本は期待外れだったが、私の話に感化されたのか、逢木くんは興味深そうに「なるほど」と頷いている。


「そういえば、別守さんって、ずっといちごカフェ飲んでる。よっぽど好きなんだね」


 あら。私がいちごカフェ飲んでるのを知ってるなんて。よっぽど好きなんだね、私のことが。

 そんなふうに調子に乗った私は、普段ならまずしないであろう、大胆な行動に出てみた。


「……逢木くんも、いちごカフェの無限の可能性を体感してみようよ。ほれ、まずは一口」


 まるで間接キスを促すかのように、逢木くんのほうへパックを向ける。

 そもそも、今日は彼を知る以前に、手の平の上でコロコロ転がしてやるため、彼に話かけたのだ。話しかけて、本心が探れればしめたもの。それが無理でも、少しでも反応を引きだせれば作戦成功だ。そして、日頃の鬱憤も晴らしておきたい。


「ははは」逢木くんはまたしっとりと微笑んで言った。「嬉しいけど、そんなに好きなら君が味わいなよ。僕は僕で試してみるから」


 はあん? 私の厚意ゆうわくを、貴様。

 けれどすぐに「ありがとうね、別守さん」と言って、私のトレーにおやつのこんにゃくゼリーを置いてくれる逢木くん。許す。でも依本にも「おすそわけ」ってあげるのはやめて。私だけの特別にして。

 そこへ、ようやっと、生野とやらと帰山とやらが、テーブルに戻ってきた。相席している私たちを見て、最初は顔を訝しくしていたけれど――友人である逢木と近い気性をしているようで――彼らもすぐに私たちに順応した。

 しかし、メンバーが揃ってしまったことで調和が生まれ、逆にというか当然の摂理で、男グループである彼らと女グループである私たちに壁ができてしまった。

 これまでの、全てが期待外れで、淡彩で描かれたようなさっぱりとした雰囲気に、拍車がかかった。

 あっちはあっちで話が弾んでいるし、こっちもこっちで、「あそこのひとが持ってるコーラボトルめちゃくちゃ大きいね」「飛ばないミサイルみたい」とか他愛もない会話をしている。

 まずった。これじゃあ探りを入れられないじゃないか。逢木くんはこっちを見もしないし、なんか本当に相席しただけで終わってしまう。

 苦肉の策で、テーブルの下の彼の足を、爪先で二、三度蹴ってやった。


「え、どうした?」


 逢木くんが私へと視線を遣る。

 さあて……ここから私はどうしてくれるんだろうなあ。

 とりあえず彼の意識をこちらへ向けることだけを考えて行動していた私は、このあとなんて言えばいいのだろうというピンチに直面し、そんな、他人事のような感想を抱いた。

 扇風機の羽根のように脳をフル回転させ、私は「ごめん、もっかい、テーブル拭いてもらっていい?」と捻りだした。天才か。

 逢木くんは「ああ、いいよ」と言って、もう一度拭いてくれた。優しい口調で「お盆上げて」と言ってくれたので、私も快くトレーを持ち上げてやる。ていうか逢木くん、トレーのことお盆って言う派なんだ。

 そのとき、右腕につけていた私の腕時計が、光を反射してフラッシュしたのだろう。生野だか帰山だかが「あ、それ」と注目してきた。


「ずっと思ってたけど、ごついよな。すげえかっこいい」

「でしょ?」私は腕時計を見せつけるような、妙ちきりんなポーズをとった。「ビクトリノックス!」


 さっきまでノリよく反応してくれていたのに、生野だか帰山だかは、ぽかんと口を開けていた。ありゃ?


「ビクトリノックスっていうスイスのブランドだよ」そこへ、逢木くんがフォローを入れてくれる。「元々はマルチツールっていうか、ナイフとかのメーカーだから、あんまり知られてないけど……別守さんのは男物だから、ちょっとゴツく見えるのは当たり前。僕たち男側のほうが惹かれる代物かも」


 生野だか帰山だかは「へえ」と感嘆する。

 私も感嘆する。なんだ、逢木くんも詳しいんだ、ちょっと親近感……いや、待て、その手には乗らないぞ! 私がつけているから調べたという可能性が、なきにしもあらず! だとしたら、本当にこいつ、私のことが好きだな!


「懐ちゃんのお気に入りなんだよね、それ」依本も追言ついごんする。「お揃いで女物の買おって言ってるのに、ずっとつけてるの。懐ちゃん手首細いから、ちょっとぶかぶかしてかわいくないじゃんか」


 依本には悪いけど、私は本当にこの時計を気に入っている。壊れでもしないかぎり――とはいえ、この時計が壊れるなんてよっぽどのことだ――新しいものを買うつもりなどないし、いくらかわいくなくとも、私がこの腕時計を外すことはない。


「依本も買ってくれたらお揃いになるよ」

「だってかわいくないんだもん」

「でも、めっちゃすごいんだよ、これ。ちょっと気持ち悪いくらい頑丈なの」

「懐ちゃん、それでなにするつもり? 人でも殴るの?」


 ロマンを解さないやつめ。

 それから私と逢木くんたちは、ときには話し、ときには黙り、そして徐々に分かれながら、昼食を共にした。そして、十数分後、一足先に食べ終わった逢木くんたちは、食堂を出ていった。

 私は、まだお弁当の食べ終わらない依本を待ちながら、いちごカフェをジュージュー啜っている。

 フーム。

 このたびはじめて、間近で身近で話してみたわけだけど、やっぱり、逢木くんがなにを考えているのかはわからなかった。

 ビジョンのように告白してくることはないし、私のことを好いているようなことも言ってこない。本当に誠実そのもので、ビジョンのことさえなければ、彼が私に恋をしているだなんて、思いもよらないだろう。

 しかし、感じたことが一つもないというわけではない。


「逢木くんって、なんとなく、馴れ馴れしいやつだったよね」


 私がそう呟くと、依本はどこかビビるように「懐ちゃんが言うー?」と言い返してきた。


「ほぼ初対面なのに、めちゃめちゃ馴れ馴れしかったよ。逢木くんの彼女かってくらい」

「やだな、まだ告白されてないよ」

「なにその根拠のない自信」


 だって、ビジョンで見たもの。どういうわけか、それが実現していないんだけど。

 逢木直流、見極めきれず。

 私は、項垂れるように椅子の背凭れに体重を乗せる。もう一度ズズッと吸い上げると、いちごカフェは空になり、パックは縦に置いたリボンのようにひしゃげた。


「そういえば、依本、あそこのひとの持ってるデブっちょさー」

「コーラのことデブっちょって言うのやめたげて」

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