一寸先ダーク

鏡も絵

プロローグ

 一寸先は闇。

 この言葉はご存知のとおり、先のことは予測がつかず、なにが起こるかわからない、という意味だ。実際、クラスメイトから面倒な仕事を押し付けられそうになったり、苦手な先輩とばったり出くわしてしまったりするのは、あらかじめ知ることもできないほど突然の出来事で、予知能力でもないかぎり、大抵の人間はこの言葉に頷くしかないんじゃないだろうか。

 ところが、私からしてみれば、一寸先くらいだったら、いともはっきりと光が射している。

 これは、私には予知能力がある、という意味だ。

 占いに精通しているとか、アカシックレコードに接続できるとか、そんなたいそうなものなどでは決してない。占いなんて精々されたことしかないし、霊界のスパコンの在り処など知る由もない。ただ、超能力ならプレコグニション、霊感ならば第六感シックスセンスと分類できよう。わかってしまうのだ。ビビッとくるのだ。まるでひらめきのような感覚で、私こと別守わかもりなつきは、数秒先の未来を知ることができた。

 いつからと聞かれれば、わからないと答えるしかない。もうずっと前からそうだったような気もするし、ここ最近の話のような気もする。そんなふうに思い出せないくらい、いまやビビッとひらめくのは当たり前のことで、日常化してしまっている。

 たとえば、いま目の前であくびしたあの男子生徒は、数秒後、滑って転ぶ。


「うわあっ」


 ほらね。転んだ。

 この予知能力ビビッ。突飛で偶発的な代物なうえ、予知できる尺としてはたった〝数秒後〟のことだけど、精度としては〝確定事項〟を誇っていた。これまでに私が予知したビジョンは、寸分違わず現実のものとなっている――あの男子生徒、また転ぶ!


「うわあっ」


 ほらね! 転んだ!

 スッテンコロリンと再び転んだ男子生徒のことを、私はニンマリ眺めたのだった。

 しかし、ご覧のとおり、光が射すのはほんの一寸先なのだ。

 確定事項の数秒前にその事象を察知したところで、大したことなどできやしない。たとえば、テスト開始数秒前にヤマが外れたのを知って、いったいなんの意味があるだろう。経験者として語らせてもらうが、時よ戻れと昨晩の無為な勉強を悔やみ、歯痒さを享受するしかない。予知した事象に対し、なんらかのアクションを取れることはまれであり、避けられない確定事項がほとんどなのだ。

 だから、このことを誰かに自慢したことはなく、言おうと思ったことさえない。見えようが見えなかろうが、周りの人間とさほど変わりない。予知した確定事項が訪れるまでの数秒間、なにも知らないふりをして、耐えていれば事足りた。

 そう、事足りたのだ。私はただ待ち受けているだけで、待ちかまえているだけでよかった。泰然と。顔にも口にも、表という表には出さず。内に秘めて、その瞬間をただ待っていれば。今日このときのように、我が郭都谷かくとだに高校二階の渡り廊下を、ただ歩いてゆけば。

 それこそ、前方十メートル先にいる男子生徒と目が合って、ビビッときたように、


『好きです、別守さん。僕と付き合ってください』


 たとえ、その男子生徒が、数秒先、学校の渡り廊下という公衆の面前で、私に告白しようとしていたとしても――アン!? ナンダッテ!?

 私の脳内で、百戦錬磨の泰然が超新星爆発を起こした。煌びやかな残骸となり、容赦なく消えていく。代わりに、マサラムービーのダンスのような躍動感で、動揺がスタンドプレイをかましてきた。驚愕していたのだ。はっきりと浮かびあがったとんだ一寸先に、歩きながら飲んでいたいちごカフェを吹き出しそうになった。アポロチョコみたいな香料が鼻にまで広がる。地味に痛くて、パックとストローを引き千切りかける。バクバクと打つ早鐘に、いちごカフェを持つ手が震える。体も熱を帯びる。

 これは確定事項。

 いますれちがわんとしている謎の男子生徒は、数秒後、私に告白をする――待ちたまえ! 全然事足りんよ!

 ていうか、誰だよ貴方。その顔に見覚えもないし、話したこともないよ。なんで告白なんか。それに、時と場所くらい選んでよ。昼休みの廊下とか人いっぱいだし、どう考えても今じゃないでしょ。なのに、なんで堂々としてるんだろう……好きな子が困るだろうとか考えないのかな。なんか、内心テンパってる私がばかみたいじゃないか。よし。決めたよ。君に決めなかったことを決めたよ。振っちゃう。困るからイエスするつもりこそなかったけど、こうなったらコテンパンに振ってやろう。あ、でも、告白しようとしてくれてありがとうね。ちょっと嬉しかった。

 こうしてドギマギしているあいだにも、刻一刻と、確定事項は近づいてくる。確定事項くんことその男子生徒は、至極ゆったりとしたテンポで私のそばまで歩み寄り、そして、ついには――私を通りすぎた。

 ……んんぅ?

 あのまま向かい合って、告白されると思ったんだけど、まさか、フェイントかしら。背後から彼に見つめられていたら嫌だなあと思いながら、私は恐る恐る振り返る。しかし、目に映ったのは、何事もなかったかのように去っていく後ろ姿。重大な忘れ物をしたことにも気づいてなさそうな、至極丁寧な歩幅だった。

 いや、待って。待ちなさい。嘘はつくなよ。そもそもつくまでもなく、口さえ開かなかったけど、貴方、さっき私に告白しようとしたじゃない。なんでその重大なアクションをかっ飛ばして通りすぎてるの。

 再び、私の脳内で超新星爆発が起きた。煌びやかな残骸となり、ブラックホールが誕生する。マサラムービーはクライマックスを迎え、動揺は大量のバックダンサーと共にそのブラックホールへと吸いこまれていく。筆舌に尽くしがたい境地の心情。万感の唖然。ここはバミューダドライアングル。アンビリーバブル。

 百発百中の確定事項が外れたのは、これが初めてのことだった。

 この世に、これほど不思議なものはないだろうと、これほど不可解な謎はないだろうと、私は思った。彼と目が合ったあの瞬間、彼の数秒後のビジョンを、私はしかと見たのだ。ときた。間違いなく、彼は私に告白しようとしていた。好きです。そう、私に告げようとしていた。それなのに、彼は告白するそぶりさえ見せることなく、私を通りすぎていったのだ。

 徐々に肌寒くなってきた初秋。郭都谷高校二階の渡り廊下。往来も相応なそのど真ん中で、私は、しばらく考えこむしかなかった。

 私がこういう性格でさえなければ、〝まっ、こういうこともあるよねえ〟とか〝告白されるとか勝手に期待なんかしちゃって恥ずかしい!〟とかで済ませていたかもしれない。しかし、私は、自分で言うのもなんだけど、自意識過剰な人間だった。あの男子生徒は私に告白しようとしていたと、強く信じている。知っていると言ってもいい。

 貴方は私を好きなのに、なんで告白しなかったの?

 ズズズッ…………ぼんっ! と、最後の一滴を吸い上げたストローから口を離す。彼の去っていった廊下を私はじっと見つめた。いつまで経っても、彼が私の元へ戻ってきて、君が好きですと告げてくる気配はない。固く決められた禁じ事のように、それは覆らない現実だった。相変わらず騒がしい廊下にいる誰もは、いまさっき、ここでどれだけのことが起きたのか知らない。いちごカフェを吸っていた、この私しか。


 だが、このとき暢気にいちごカフェを吸っていた私は知らなかった。

 くだんの不思議な男の子、逢木あいき直流すぐるが、何度も何度も、私に告白するビジョンを見せては、それを裏切りつづけることを。

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