ハートビート

 オートバイレースは排気量ごとにクラス分けされていて、重鹿さんは一番排気量の大きいクラスで出場するという。レースは排気量の小さいクラスから進められるので、重鹿さんの出番は一番最後だ。それまでは別クラスのレースを見てお勉強することになる。


 実は、私には生でのスポーツ観戦はほとんど経験が無い。例外として去年、ソフトボール部がインターハイ予選で決勝まで行って学園中が大騒ぎしていた折は周りに誘われて試合を観に行ったことがあった。だけどホームランか三振ぐらいしかルールを知らなかったから、正直言ってあまり楽しめなかった。


 だけどオートバイレースは違う。抜きつ抜かれつのスリリングな戦いを見ていると、ルールを知らなくてもつい手に汗を握ってしまう。排気量が一番小さいクラスでもマシンどうしのバトルはまるで刀と刀のつばぜり合いのように激しく、私はすっかり見入ってしまっていた。


「あーっ、もう少しだったのに、惜しい!」

「おねーさん、どっぷりハマっちゃってるねー」

「あ、いやその。つい、ね……」


 ニタニタ笑うムイ。私は照れ隠しで頭をかくしかなかった。


 レースはプログラム通り滞りなく進んで、いよいよ重鹿さんのクラスの番がやってきた。真っ赤なボディに白抜き文字で16のナンバーが描かれているマシンがコースに出てくる。これが重鹿さんのマシンだ。重鹿は「じゅうろく」とも読めるから16。ただでさえわかりやすいけど、ヘルメットに鹿の絵が描かれているからなおさらわかりやすい。


 バイクが走り出した。まずは一周だけウォームアップで軽く走る。軽くと言っても相当早いけど。


「おとーさーん!!」

「しげろくー!」

「しげー!」


 娘が父二人と一緒に、もう一人の父にエールを送っている。何も知らない人には重鹿さんの娘と友人たちが応援しているようにしか見えないだろう。それがフツーだ。


 一周して、重鹿さんが所定のスタート位置に着いた。先頭から3番目だ。


 シグナルが赤から青に変わって、レース本番が始まった。ホームストレートから最初のコーナーを、24台のマシンが曲がっていく。そこから向こう側は肉眼で見えないので、スタンドの対面にあるピットビルに備え付けられた大型ビジョンでレースの様子を観ることになる。今ちょうどコースを俯瞰するような形でレースを映しているが、マシンが連なって右に左にとコーナーを曲がる様は蛇の動きを連想させた。


 聞くところによれば、この夕月サーキットは全長およそ4.5km。それを1分40秒ちょっとで走り抜けていく。ヘアピンカーブにシケインといった減速区間があってもこのタイムだから平均時速は相当速い。だけど速さを体感できる場面はやはりホームストレート、私たちのいるスタンドの目の前を通過するときだ。エンジンの轟音を伴ってやって来たかと思えば、あっと言う間に彼方へと去っていく。この迫力は生で見て初めてわかるものだ。


 ナンバー16の赤いマシンが迫ってくると、転素ファミリーの興奮は最高潮に達した。


「おとーさーん!! いけいけいけー!!」

「がんばれーっ!!」


 私もムイに負けまいと応援に身が入る。姿が見えなくなったのでビジョンの中継を見る。周回を重ねて車列はだいぶバラけたけど、重鹿さんのマシンは先頭から3番手の位置をキープしている。前の2台が抜きつ抜かれつの攻防を繰り広げているのをじっと見つめているように。


「うううう~」


 ムイが身を乗り出して唸りだす。


「いつものことだけど、おとーさんのレースを見てると胸がドキドキするー!」

「私もよ。こんなスリリングな世界があるだなんて」

「おねーさんも? どれどれー」

「きゃっ!?」


 胸に重みを感じた。ムイがいきなり、頭を私の胸に預けてきたのだ。


「ちょっ、ちょっと何を……」

「わ、すごい。心臓がどっくんどっくんしてるー」


 嵐に見舞われた夜、悪い夢を見てうなされていた私を慰めるために抱きしめられたことを思い出す。あのとき感じた柔らく、お日さまのように暖かい感触が蘇る。


「あ、だんだん早くなってきたよー?」


 いたずらっぽい笑みを向けるムイ。もしかして、これはわざとやってるの? いや、それは自意識過剰というものでは? ああ、何だろう。頭が少しずつぐちゃぐちゃになっていく。まずい。何だかわからないけどこのままにしておくとまずい。


 私は、そっとムイを起こした。


「ほ、ほら。おとーさんを応援しましょう」


 幸いにもムイの父二人はビジョンに夢中になっていて、私たちのことには気づいていない様子だ。ムイの感触の余韻を引きずったまま、私も再びレースに集中する。


 そしていよいよファイナルラップだ。重鹿さんは3番手で変わらず。だけどジリジリと前の2台に詰め寄っていく。残り半分のところ、ヘアピンカーブに差し掛かったところで重鹿さんが仕掛けた。減速した2台の大外に、真っ赤なマシンが並んでいく。


「しげー! 行けー!」

「抜けー!」

「☆▲◎□◇▽ーーっ!!」


 ムイはもはや何を叫んでいるのか聞き取れない。私も両の拳を握りしめて足を踏ん張って、何かわけのわからないことを叫んだ。それは他の観衆も同じことだった。


 重鹿さんは2台まとめて抜き去り、ついにトップに躍り出たのだ。私はつい立ち上がったが、その途端だった。ムイに勢いよく抱きつかれて押し倒されそうになったのは。


「やった、やったー!! おねーさん見た!?」

「まっ、まだレースが終わってないわよ……」

「おとーさーん!! そのまま先頭でぶっちぎっちゃえー!!」


 聞いていない……まあこんなエキサイトする状況じゃ聞けというのも無理な話しか。


 追撃側に回った2台のバイクは最後まで抵抗を試みた。だけど重鹿さんは凌いで、シケインを経て最後のコーナーを回りホームストレートに先頭で戻ってきた。勝利を確信して左手を高々と掲げて、チェッカーフラッグを受けてゴール。


「やったやったやったーーーっ!!」

「きゃっ!!」


 今度はとうとうムイに押し倒されてしまった。視界いっぱいに広がったムイの顔は興奮して真っ赤っ赤になっていたが、幼い顔立ちなのにやけに色っぽく見えた。その上彼女の体温が私の感情にさらに拍車をかけてきて。


 またもや魔が差してしまった。発禁同人誌を買ったときのように。


「!!!???」


 ムイの顔がさらに赤くなり、熟れたトマトのようになって固まってしまった。それもそのはずだ。私は彼女とファーストキスを交わしたのだから。


 地鳴りのような歓声が轟いているのに、静かに感じられた。

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