第254話 圧切長谷部


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 とにもかくにも賽は投げられたといっていい。

 それを自覚し、黒田孝高は息を吐き出していた。


 伸るか反るか。


 孝高がしようとしていることは、そういう大博打の類である。

 どうにか色葉を言いくるめることができたが、ずいぶん警戒されていたこともまた確かであった。


 色葉との会見は生きた心地もしなかったが、しかしそんなことはおくびにも出さず、どうにか乗り越えられたといえるだろう。

 普段は物憂げな色葉であるが、やはり頭の回転は速く、しかも仕事も早い。


 とりあえず秀吉を逗留場所として朝倉家が用意してくれた屋敷に帰し、早速遣わされた大日方貞宗と接見し、今後の打ち合わせに及んだことで、気づけばすでに深夜となっていた。


 この大日方貞宗という色葉の側近は、朝倉家臣団の中でも最古参であるといい、噂によると、どうやら他の家臣らとは違って色葉の表も裏も知っている人物らしい。


 そして真面目であるが、どこか陰もある。

 それだけに油断できない相手であると、気を引き締めざるを得なかった。


 最低限の打ち合わせをすませ、城を出た頃には夜も更けていた。

 しかし月明かりもあって、そこまで暗くもない。

 孝高は疲労を覚えつつも、足早に屋敷に戻ろうとしたところで、ただならぬ気配を感じて足を止めた。


「あらあら。このような夜更けに奇遇ですわね?」


 女の声。

 見れば年若い女がこちらを見ていた。

 一瞬、幽鬼の類かと思ったほどである。


「何者か」

「これは失礼いたしました。わたくし、織田鈴鹿と申します」

「織田、鈴鹿……?」


 その名前には聞き覚えがあった。

 確か織田信忠の姉で、織田信長の娘でもあった人物である。

 そして今は、人質として朝倉家に送られたはずの姫だったはず。


「これは、失礼いたしました。ご無礼を」

「秀吉様のご家臣の、黒田様ですわね?」


 こちらの素性を知られていることに、孝高は警戒する。

 こちらは知らないのに相手は知っている。


 これはあまり良いことではない。

 情報という点で、すでに相手に劣っているからだ。


「なぜ、私を?」

「だって、その太刀をお持ちですから」


 鈴鹿が指さすのは、孝高が腰に帯びた一振りの刀である。


「これは」

「そう。殿より黒田様にお授けになったものですね」


 今を遡る天正三年のこと。

 未だ小寺政職に仕えていた孝高は、政職に信長への臣従を進言してこれを容れられ、岐阜城へと赴き信長と謁見に及んだことがあった。


 その際に中国攻めを提言し、信長に気に入られて名刀・圧切長谷部――つまりこの太刀を褒美として拝領したのである。


「実はその刀で茶坊主を斬り捨てたのは、わたくしですの」


 ちょっとした悪戯を白状するかのように、鈴鹿はとんでもない告白をした。


「殿があの不逞の茶坊主を成敗しようとされた際に、ちょこまかと逃げ回りまして、わたくしの前まで転がってきたのです。それでつい……ね?」


 その際に鈴鹿はその観内という茶坊主を、膳棚ごと斬って捨てたのであるが、その切れ味から圧切長谷部という異名がつけられることになったのである。


 圧切長谷部は確かに名刀であるが、だからといって圧し当てるだけで斬れるほどの切れ味があったかといえば、さすがにありえないとしか言いようがない。


 が、鈴鹿の鬼としての膂力があれば、むしろ当然の結果でもあった。

 そしてその瞬間、その太刀は妖刀の類となってしまったのである。


「まあ、そのようなことはどうでも良いのです。殿が黒田様にその刀をお授けになった際に、わたくしもそれを見ていた――つまりはそういうことですので」


 あの刀を信長が誰に授けるのか、鈴鹿も多少は興味があったのだ。

 だから覚えていたが、あの時はその程度だったといっていい。

 が、今は多少事情が異なっていた。


「しかしこの状況、実にあの時によく似ていますわね?」


 ぎくりとした。


「殿に中国攻めを薦め、殿に気に入られ……。そして秀吉様は中国攻めの責任者となり、一帯を糾合し、殿に対して謀反を起こして、憐れ殿はこの世の者でなくなりましたもの」


 くすくす、と笑いながら鈴鹿は独白のようにささやく。


「聞けば本日、色葉様とお会いしていたとのことですね。そして毛利征伐を提案なさったとか。ふふ……素敵な偶然ですわね?」


 まるで偶然とは思っていない口ぶりに、すでに事は破れたかと孝高は半ば失敗を覚悟した。

 が、状況は思わぬ風に転がっていく。


「色葉様は黒田様にたいそうご執心のようですわ。先ほどもお会いしましたら、それはもう愚痴っておられましたもの。本当、羨ましくて嫉妬で身が焦がれそうなくらいですのよ」

「……何が、おっしゃりたい?」

「色葉様は、とても素敵なお方です」


 改めて、鈴鹿は言う。

 妖しい笑みは深まるばかりだったが。


「ですから少しでも多く、色葉様のお話をお聞きしたいのです。そしてわたくしは誰かに語りたいのですわ。……どうでしょう? 夜分遅くではありますが、わたくしの屋敷にお越しいただけませんか?」


 すでに、孝高にこの要求を断ることはできなかった。

 それだけの圧力があったからだ。


「相分かりました」

「ふふ、それはようございました。……そうそう、実は他にもお呼びしている方がいらっしゃるのです」


 そこで孝高は初めて気づいた。

 月明かりがあるというのに、僅かな夜の闇に紛れるようにしてあった人物の姿に。


「明智様とは殿のことで語り合いたいのです。そして色葉様は黒田様に。あぁ、素敵な夜になりそうですわね?」


 妖艶に、しかしどこか子供のように、鈴鹿は笑うのだった。


     ◇


 天正十年九月九日。


 のちに重陽の会盟と呼ばれる出来事により、一夜にして朝倉家を中心とする連合政権が発足した。

 当然一夜でなせる内容でも無かったが、世間的にはそう受け取られた、ということである。


 菊の節句とも呼ばれる重陽節は、元は不吉を祓う行事である。

 陰陽思想において、奇数は陽の数であり、一の桁において最大の陽の数である九が重なる九月九日は重陽と呼ばれ、陽の気があまりにも強すぎるため不吉とされた。


 奇しくもこの日に生まれた新たな政権を、吉とみるか凶とみるか。

 当然それは、見るひとによって変わったことだろう。


 では色葉にとってはどうだったのか。

 行く先にてもしこの時を振り返ることができたならば。


 やはり、凶事だったのかもしれない。

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