第208話 禁忌への誘惑
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陽泰寺。
砥石城の麓に建つ寺で、創立は実に白鳳時代に遡る。
これは色葉の私兵でもある平泉寺衆を擁する霊応山平泉寺を開いた泰澄に、縁のある寺でもあった。
先の戦で砥石城は荒れに荒れており、色葉はこの陽泰寺を仮の本陣に定め、ここで今後の方針を諸将と練っていたのである。
その陽泰寺から密かに外へと出る人影があった。
望月千代女である。
今回、色葉の要請に応じて砥石城に篭り、共に戦いはしたが、今となっては少しでも早く、この場を去りたかったのである。
原因は、色葉そのひとに違いない。
本人にも言ったことであるが、とてもではないが恐ろしくて同席できる相手ではなかったのである。
以前、刃を交えたこともあったが、あれは無知ゆえに為せた結果だろう。
確かに以前に比べ、その妖気はほとんど感じられなくなっていた。
本人の申告通り、弱体化しているのかもしれない。
今ならばこれを抹殺する好機だったのかもしれない。
が、そのような発想は一分も浮かびはしなかった。
あれは、おかしい。
あれは、よくない。
あれに、関わってはいけない……。
これまで妖の類に対し、恐怖を覚えたことなど一度も無い。
かの玉藻前の生まれ変わりである乙葉でさえ、これを調伏し、使役することができたのだ。
恐れなど、感じるはずが無いのである。
今回の戦で一万五千もの戦死者が出た。
そのほとんどが北条方の犠牲者であり、色葉の策は徹底してこれらから生きる術を奪う残忍なものであったことは、疑いようも無い。
とはいえ、戦国の世ならばこういうことはままある。
千代女が仕えた武田信玄も、例えば佐久郡にあった志賀城攻めにおいて、首級三千を並べて士気を挫き、これを落城せしめた後は生け捕った男女は奴隷として連行し、人身売買を行った。
またこの時、佐久郡においては武田勢によって大いに乱取りが行われたともいう。
もっともこのような過酷な仕打ちにより、これを遺恨とした生き残りの城兵が砥石城に篭り、天文十九年の砥石崩れに繋がっていくことになる。
だから千代女も、色葉の行為を責める気は毛頭無い。
それに千代女自身、数こそ少ないが、その立場から非道なことも多く為してきている以上、それを棚に上げる気もなかった。
だから、そういうことではないのである。
「あれは、何なのですか……」
朝倉色葉。
本当にただの狐の妖なのか。
とても狐如きが化けているとは思えない。
あれは、もっと異質な……。
「もう行かれるのか」
「――っ」
不覚といえば不覚だった。
声をかけられるまで気づかなかったのから。
それでも動揺は顔に出さず、千代女はゆっくりと振り返る。
声の主は他の武将らと同様に、具足をまとったままで、寺の門よりこちらを見つめていた。
大日方貞宗である。
「あなたでしたか」
貞宗は千代女にとって、恩のある相手だ。
かつて色葉と一騎打ちに及んだ際、殺されそうになったところを助けられたことがあるからである。
「あなたには、挨拶をしていくべきでしたね」
「別に構わないが……。しかし望月殿、色葉様より仕官の話などは無かったのか?」
貞宗も事情は知っているようで、だからこそこの千代女の行動を、多少なりとも疑問に思ったのだろう。
「それは断りました」
「……そうか」
きっぱりと答えられ、貞宗は一体何を思ったのか、一瞬羨望にも似た眼差しを向けたのである。
これには千代女も興味を惹かれ、尋ねずにはおれなかった。
「……大日方様はあの狐姫に最も近いといわれている側近でしょう。あれの異常さなど、私以上に心得ているはず。にも関わらず、どうしてあれの為に、そのように働くことができるのです?」
「……なるほど」
その問いを聞いただけで、千代女が仕官を断った理由を察することができてしまう。
しかもごく真っ当な理由だった。
「貴殿の判断は正しい。望月殿は色葉様の恐ろしさを、誰よりも肌身で感じてしまわれたということだろう」
「……意外ですね。そのようなことを口にして、よろしいのですか?」
もっともであると、貞宗は苦く笑う。
「先ほどの問いの答えになるが、私が色葉様に仕えるのは、呪いのようなものだ」
「呪い、ですか」
「そうだ。色葉様にとって、私など奴隷に過ぎぬ。たまたま命を奪われることなく、今に至っているだけであるからな」
色葉と貞宗の出会いを思い返せば、そこに忠誠など本来ならばあり得ない。
そしてその時に、色葉の異質さや怖さなど、十分に知り得ている。
にもかかわらず、今も傍にあって働いているのは、もはや呪いとでも表現しなければ適当とは言えないだろう。
「私は死ぬまで色葉様のものだろう。これは覆せぬ。望月殿はそうならぬよう、疾く行かれるがいい」
「……そうですか」
大日方貞宗はもう、あちら側に行ってしまっているのだろう。
千代女が恐れたのは、まさにそれだったのかもしれない。
呪いであると分かっていながら、惹かれてしまう魅力。
禁忌への誘惑とでも言おうか。
千代女は詳しくは無いが、巷で流行っている天主教でいうところの、堕落、だろうか。
「なるほど、なるほど……そういうことだったのですね」
ようやく理解したとばかりに、千代女は一人頷く。
つまり色葉に対し、これに仕えることの魅力をどうしようもなく感じてしまっていたのだ。
だからこそ、砥石城ではああも必死に色葉を護ってしまったのかもしれない。
知らぬうちに、捕らわれつつあったのだろう。
しかし相手はそんなことの許されるような存在ではない。
ひとですら、無いのだから。
「ふ、ふふ……。狂おしい、というのはこれを言うのでしょうね……」
貞宗はすでに堕ちたのだろうが、千代女はそれはできぬとばかりに首を振り、背を向ける。
千代女が理性をもって色葉を拒絶することができたのは、自身に宿る神通力のおかげだろう。
しかし同時に、恨めしくも思う。
こんなものが無ければ、もっと楽になれただろうに、と。
「とにかく、今は」
少しでも離れるべきだろう。
千代女は足早にこの小県、いや信濃国から速やかに退去すべく、ひた走ったのである。
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