第206話 砥石泥梨(後編)

「城の一角を占拠するに至り、敵兵は後退しております!」


 どうやら南西の米山城の攻略に成功したらしい。

 敵は南の出城である砥石城まで後退したという。

 そして思わぬ情報も同時にもたらされていた。


「なに? かの狐姫の姿を見ただと?」


 氏照が驚いたのも無理はない。

 この砥石城に、かの朝倉の姫がいるというのである。

 当初は疑ったが、噂に聞く狐憑きの姿を見間違えるはずもなく、北条勢は俄然、攻勢に力を入れることになる。


 ここで色葉を討ち取るなり捕らえるなりできれば、朝倉方の士気は大いに下がり、今後の戦局に有利に働くこと間違い無しであったからだ。

 これにより、多少無理をしてでも攻め取るべしとの方針が取られ、総攻撃はその勢いを増していくことになる。


 しかし抵抗は相変わらず根強く、一進一退が続くことになった。

 そうしてさらに七日が過ぎ、苦難の末に砥石城、桝形城を攻略した氏照は、ついに本城を残すのみとしていた。


 十五日。

 氏照は本城に篭る色葉に対し、降伏を勧告。


 送り込んだ使者は色葉によって八つ裂きにされた状態で返され、怒り狂った氏照は総攻撃を命令した。

 これが最後の総攻撃となった。


 一両日に及んだ総攻撃は熾烈を極めたが、やはり朝倉方は最後まで抵抗し、その日に落とすことはできなかったのである。

 日が沈んだことで翌日に持ち越すことにした氏照であったが、その日の夜、本城ではいつにも増して大量のかがり火が焚かれ、朝倉方の最後の灯火かと、長期戦の及んだ北条方では感傷を抱く者すら出たという。


 しかしそれは、色葉からの合図以外の何ものでも無かった。

 周辺の山々に潜んでいた朝倉勢は、これを合図に密かに山を下り、包囲を狭めていく。


 徹底して自身を囮としていた色葉に対し、また明日の勝利を目の前にしていた北条方は、当然この動きに気づかなかった。


 そして十六日早朝。

 北条方にとっての地獄が始まることになる。


「敵襲! 敵襲!」


 まず北条方に攻めかかったのは、堀江景実の隊であった。


「敵に構うな、まずは城を目指せ!」


 景実は奇襲により敵の一角を切り崩すと、砥石城目掛けて進軍。

 北条方に混乱をもたらすと同時に、城に篭る色葉らの救援の為のものである。


 これは本来、色葉の指示には無かったことであったが、諸将らは合議した上で方針を一部変更し、手勢の一部を色葉への救援に差し向けたのだった。

 何よりもまず、色葉の無事を優先させたのである。


「朝倉の別動隊だと!? いったいどこから現れたのか!」


 氏照は驚き、すぐにも応戦したが、完全に後背を突かれた形で、しかも四方八方から寄せてくるのである。

 また砥石城の各出城に将兵が入っていたことも、動きを鈍らせる要因となった。


「兵を戻せ! このままでは……!」


 北条勢が態勢を立て直す暇も与えず、朝倉勢は次々に波状攻撃を仕掛け、これを徐々に追い込んでいく。

 劣勢を悟った氏照は、ついに退却を決意。

 小諸方面に撤退すべく兵をまとめ、決死の覚悟で血路を開いたところで、更なる悲報が届けられることになる。


「依田信蕃、別心!」


 後詰であった佐久郡の国衆の一人、依田信蕃が翻って街道を封鎖したというのである。

 この動きは他の国衆にも広がっており、およそ三千余の軍勢が待ち構えていることになる。

 突破は可能かもしれないが、阻まれたところで足は止まり、追いつかれれば挟撃されて壊滅するだろう。

 ならばと氏照はすぐに思考を切り替える。


「上野に向かうぞ!」


 上州街道を進んだ先にある上野国は未だ敵地ではあるが、友軍がいる。

 ここしばらく連絡がとれてはいないが、健在なのは間違いない。


 こちらに逃げれば信濃はおろか、せっかく平定した甲斐も危うくなるが、しかしこのまま戦線を維持できるはずもなく、放っておけば壊滅してしまう。

 賭けにはなるが、活路はそこにしか見いだせない状況であった。


 氏照は砥石城の東を流れる神川を渡河すると、そのまま東進。

 途中の真田本城周辺にて、真田勢と思しき迎撃にあったがこれは幸いなことに少数で、氏照はこれを蹴散らし全力で脱出。

 このまま行けるかと思わせたところで、先行していた隊が傷だらけで戻り、報告したのである。


「申し上げます! この先は進めませぬ!」

「何故か!」

「上杉勢が待ち構えておりまする!」

「何だと!」


 さすがに氏照も、ここにきて完全に退路が断たれたことを悟った。


「天は我らを見捨てたか」


 こうしている間にも朝倉勢の追撃は迫り、ついに氏照も覚悟を決める。


「ここで上杉と戦って討たれるは恥辱。ならば取って返し、朝倉の姫の首級でもあげて、冥土の土産とするのみ」


 宣言通り、氏照は瓦解しつつあった手勢を率い、砥石城に取って返して一戦に及んだ。

 その戦いぶりは北条一門の名に恥じないものであり、大いに槍を振るった氏照であったが、ついには一兵残らず討ち取られ、周囲を敵兵に囲まれたところで一人の将を目にすることになる。


 馬上にあって睥睨するのは、女武者。

 その戦装束はずいぶん痛んで血糊に汚れてはいたが、それを身に着ける者の風格のせいか、劣って見えることはなかった。


「なるほど。貴殿が件の狐姫か」


 初めてまみえたが、見間違えるはずもない容姿である。


「狐、か……。父上はこれを調伏してみせたが、私はできなかったというわけか。しかも私とは悪縁はあっても、良縁は無いとみえる」


 夏の来つ 音に鳴く蝉の から衣 おのれおのれが 身の上に着よ


 かつて氏照の父・北条氏康が詠んだ句である。

 夏の狐の鳴き声は不吉であるとし、それを耳にした氏康がとっさに詠んだ句で、「きつね」の文字を分けることで凶を祓ったという。

 鳴いた狐は、翌朝には死んでいたといわれている。


 氏照が思い出すのはそれだけではない。

 永禄六年、氏照は辛垣城の三田綱秀を攻め、これを滅ぼしたことがあった。


 城は落城し、綱秀は自刃。

 しかしその息女であった笛姫は難を逃れ、父の形見である狐丸の名笛を手に、隠棲する日々を送っていた。


 ある日、笛の音に誘われて氏照は笛姫と出会い、父の仇と知った笛姫に刺し殺されそうになるが、慌てることなくこれを取り押さえ、その後、何事もなかったかのように、自身の笛との合奏を望んだという。

 いつしか二人は相思の間柄になったものの、これを知った氏照正室・比佐に妬まれた笛姫は殺害され、氏照は嘆いて狐塚と呼ばれる墓をたて、手厚く埋葬したのである。


 何にせよ、狐と名のつくものとは縁が悪い人生であったといえる。

 そして此度もまた。


「――お前が北条氏照か」


 馬上から可憐な声が響く。

 だがその重圧は、どこか異常なほどだった。

 だが怯むことなく首肯する。


「如何にも」

「やはりそうか。お前はわたしが手ずから斬り殺すつもりだったが、今の戦い振りを見て気が変わった。北条にもひとはいたんだな」


 その賞賛も、ここまで惨敗した後ではもはや皮肉の類である。


「自刃を許すぞ」

「元より人の手は借りぬ」


 氏照は手にしていた欠けに欠けた太刀の刃を首筋に当てると、一気に引く。

 噴き出す鮮血と共に、氏照もまた周囲に散らばる屍の一つと化した。


 天正九年七月十六日。

 北条方の総大将・北条氏照は討死し、二万余の軍勢のうち、実に一万五千以上の戦死者が出るという、北条方にとっては未曾有の大敗を喫することになったのである。


 北条勢が追い詰められた神川は、流れ出た血で三日三晩赤く染まり、死者が折り重なって、さながら地獄の様相を呈していた。

 あまりの惨たらしさに後世、この一戦を砥石泥梨などと呼ばれることになる。

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