第205話 砥石泥梨(前編)


     ◇


 砥石城。


 この城は一城に対しての呼称ではなく、本城を中心にした、北の枡形城、南西の米山城、南の砥石城などを含めた複合城郭をいう。

 元々は南側に置かれた出城の呼称であったものが、いつしか城全体を指してそう呼ばれるようになったらしい。


「なるほど。砥石とはよく言ったものだ」


 砥石城はその名の通り、攻め口は南西にある砥石のような崖しかない、という城である。

 攻めるには難儀する城だろう。


 わたしはここに二千の兵と共に立て籠もった。

 他の軍勢は周辺に散り、北条の到着を待って包囲を狭める算段になっている。


 とはいえ、朝倉勢のみで完全包囲するにはなかなか難しい。

 できたとしても厚みは無く、強硬突破は可能だろう。

 これを完璧にするために、わたしは二つばかり手を打っておいた。


 一つは退路の遮断。

 これを朝倉方がするのは難しい。

 こちらの動きを読まれる可能性も出てくるからである。

 そこでわたしは、未だ北条に服していない佐久郡の国人どもと交渉し、事前に協力を取り付けておいたのである。


 例えば春日城の依田信蕃。

 この人物は最近まで駿河田中城にあって、北条方の徳川家康の侵攻をよく防いでいたという。


 しかし駿河国では穴山梅雪の離反により孤立し、家康によってさらに攻め立てられることになったのだが、信蕃は徹底抗戦の構えをみせ、まるで落城の気配を見せなかったという。

 結局家康は力攻めを諦め、信蕃と交渉。

 城内全ての助命を条件に信蕃は開城に応じ、整然と退去したのだ。

 その後、居城であった春日城に戻って新府への援軍派遣の準備をしている最中に、新府城落城の報に触れたのである。


 わたしは佐久郡に入った際に、信蕃らを始めとする諸将と交渉し、今回の策を伝えていた。

 彼らはこれに応じ、小諸城に入った北条に対し、形ばかりの臣従の意を伝え、その進軍を促させたのである。


 結果、緒戦に勝利した北条どもは、佐久郡の平定をろくにせずに進軍し、その背後を脅かされることになるというわけだ。

 といっても佐久の国人衆にそこまでの力は無いため、徹底的に街道封鎖に傾注させることになっている。

 信蕃などは後詰と称し、その最後尾を追従しているはずだ。


 もう一つの手が、上野まで出張っている上杉景勝である。


「で、大丈夫なんだろうな?」


 隣に仏頂面で控える千代女に、わたしは念を押す。

 千代女が統括している信濃巫の情報網は、予想以上に役に立っていた。


 その情報伝達の速度や精度からしても、とても常人らの技とは思えない。

 千代女自身もそうだが、かつて乙葉を従えていたように、その人員構成はひとならざるもので組織されているのだろう。

 その千代女自身が妖嫌いというのだから、笑えるが。


「……上杉景勝は了承しています。間に合うかは知りませんが、あなたの悪巧みの最後の一手になるかもしれませんね」


 いちいち嫌味を言う。

 好かない女である。


「ふん。ならいい」


 越後での反乱により、援軍に来た上杉景勝が沼田にて足止めを食っていることは、北条氏邦もすでに承知しているはず。

 この機を逃さず、内藤昌豊らの篭る箕輪城に対し、総攻撃をかけていることだろう。


 わたしはここに上杉の援軍を到着させるべく、雪葉を通して景勝に新発田重家の謀反について交渉を持ち掛けさせている。

 これを景勝が受けたことはすでに知っているが、ここでわたしは方針を変更し、景勝に上野の援軍ではなく、密かに上州街道を進ませ、この砥石城に向かわせたのだった。


 これは北条氏照勢を徹底して叩くためである。

 そのため内藤昌豊らには囮になってもらった、というわけだ。


 とはいえ見捨てるつもりもない。

 昌豊には真田昌輝を通じて今回の策を了承してもらっている。

 北条氏照を撃滅次第、軍勢を上野へと向けることも確約した。


 もっとも氏照が破れた時点で情報を流すことで、氏邦が阿呆でない限り、戦略的撤退に及ぶであろうことは織り込んでいる。

 ともあれこれらを成立させるには、徹底した情報封鎖が不可欠だったというわけだ。

 その点で、信濃巫らは大いに役立ったといえるだろう。


「ふふ……。自ら戦えないのは業腹だが、地獄を間近で見物するのも悪く無いか」

「……あなたのその顔、とてもひとの為せる表情ではありませんよ」

「そんなことは知っている」


 今まで散々言われてきたのだ。

 今更、である。


「お前も知っているだろう? それとも忘れたのか? なら思い出せばいい」

「…………」


 そして天正九年六月二十八日。

 ついに北条勢が小県を侵し、わたしの拠る砥石城に殺到した。


 世にいう、砥石泥梨である。


     /


 天正九年六月二十二日。


 労せずして小諸城に入った北条氏照は、当初の方針通りに佐久郡の平定をまず進めるつもりだった。

 この地は上野国との間を中山道によって結ばれており、非常に重要な地である。

 ここから東進すれば、現在上野に侵攻している氏照の弟である氏邦との連携も可能になるからだ。


 そのため、早急な足場固めが必要であったが、翌日には朝倉勢がすでに小県郡真田郷に入っているとの報が届き、これに備える間も無く二十四日には開戦に至った。

 小諸城の戦いである。


 朝倉方の寄せ手は大日方貞宗であり、朝倉家の重臣である。

 攻撃は熾烈を極め、大手門を突破されたもののそこで踏みとどまり、わずか一日の攻防をもって朝倉方は撤退に及んだ。


 やや追い詰められた感のあった氏照にしてみれば、拍子抜けするほどの展開である。

 しかし朝倉勢は佐久郡に留まり、再侵攻の準備を整えているとの知らせが入ったことにより、小諸城では打って出るべきか守るべきかで意見が分かれ、評定は大いに長引くことになった。


 何にせよ、朝倉勢が佐久郡に留まるのは都合が悪い。

 また氏照家臣で勇猛をもって知られる中山家範の言もあって、二十六日に城を打って出、朝倉勢一万五千余と対峙することになる。


「数で押し潰すべし」


 対する北条勢は、二万一千。

 報告では小県には一万ほどの朝倉の後続隊が集結しつつあり、これと合流されては不利になると悟った氏照は、一挙に会戦に及んだのである。


 この小諸合戦において、戦局は常に北条有利に進んだ。

 半日ほどで朝倉方は総崩れとなり、撤退を開始。


 氏照は即座に追撃を命令。

 中山家範などはこの追撃戦でおおいに活躍し、敵の殿を受け持った堀江景実と激戦を演じ、その雑兵らの首を大いにあげることになった。


 惜しむらくは、敵の将である景実の首級を取り損ねたことである。

 敵ながら景実の撤退戦は実に妙で、朝倉本隊は撤退に成功。景実自身も無事に帰還を果たしている。


 ともあれ、ほぼ北条方の完勝であった。

 以前、坂戸城攻めの際に翻弄され、敗北を喫した雪辱を氏照は果たしたのである。


 朝倉勢は小県に逃げ帰り、砥石城に入って守りを固めているという。

 この情勢に対し、再び軍議は紛糾した。


 このまま佐久郡平定を確実にし、中山道を抑えて友軍との連絡を完璧すべしという、堅実論。

 一方で、現状の勢いのまま小県郡に侵攻し、朝倉勢を駆逐。一帯を一気に平定して上野と信濃の連絡を断ち、上野を孤立させた上で北条氏邦と合流してこれを平定するという、積極論である。


 小県を平定できれば筑摩郡への侵攻も可能となり、高遠城で足止めを食っている織田勢に先んじて、北信濃一帯を手中に収めることもできるだろう。

 となれば、今後の織田家との交渉も優位に進めることができるというものだ。

 勝利の余韻もあって、結局このまま小県へと侵攻することが決定される。


 そして六月二十八日。

 氏照率いる北条勢一万九千余と、臣従を誓った佐久郡の国衆らの連合軍合わせて二万二千余は小県郡へと侵攻を開始し、同日の夕刻には砥石城を遠巻きに囲んだ。


「なるほど、これは如何にも攻めにくい城であるな」


 砥石城を見た氏照は、その堅城ぶりに唸った。


「かつて武田信玄はここで敗北したというが、同じ轍は踏まぬぞ」


 かつて信玄はこの小県において、二度も大敗を喫している。


 一度目は上田原の戦いにおいて。

 二度目はこの砥石城攻めにおいて、後に砥石崩れと呼ばれる惨敗を味わっている。


 氏照とて無能では無く、勢いのまま進軍させたものの、慎重に事を進めてはいた。

 情報収集は怠らず、退路は佐久郡の国衆らによって常に確保・維持させていたのである。


 また同時に上野の北条氏邦の状況を知るべく、幾度となく使者を派遣してもいた。

 しかしいくら調べても周辺に敵兵の姿は無く、砥石城にわずか二千程度の城兵が残っている、というものだけであった。


 これは色葉が手勢の大半を大きく下がらせて周囲の山々に隠したことと、情報封鎖と情報操作により誤った情報を北条方に与えていたことに起因する。

 結局北条方は、朝倉勢が先の敗戦により、筑摩郡まで軍を下げたと判断。

 氏照の命により、砥石城に対して総攻撃が開始された。


 兵力差は約十倍であり、北条方の優位は圧倒的であったが、その抵抗は頑強で、城へと攻め上る北条の雑兵は、投石や銃弾を受けて、次々に打ち倒されていった。


 七月七日。

 城攻めは実に十日間に及び、しかし落城の兆しも無く寄せ手の被害が増える一方な有様に、さしもの氏照も今後について考えあぐねていたところ、ついに朗報が届いたのである。

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