第61話 神通川の戦い(中編)
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朝倉晴景率いる朝倉勢は、まさに激戦の最中にあった。
安い挑発とは分かってはいたものの、城から打って出た晴景を待ち構えていた上杉謙信が小勢であると悟ったのは、夜が明けてからのこと。
これを見て謀られたと気づいたものの時すでに遅く、背後の富山城は電光石火の勢いで攻め落とされてしまっていた。
後を任した朝倉景胤の生死も分からない。
ただ分かることは、今から城の奪還は不可能であるということ。
そして朝倉勢が窮地に陥ってしまった、ということだった。
自身の失態を痛感しつつ、それでも打開するには中央突破しかないと決断していた。
早々に実行しなければ、富山城を落とした上杉景勝隊が後背を脅かすことになり、そうなれば壊滅は必至である。
晴景は将兵を奮い立たせ、上杉謙信の部隊に向かって突撃を敢行。
渡河攻撃を行う上杉勢と、神通川を挟んでの死闘となった。
序盤、勢いと数に任せて上杉勢を蹴散らし、その一部が神通川の渡河に成功する。
しかし昼に至って上杉景勝の大軍に包み込まれ、朝倉勢の大半は神通川に流されて半壊。
夕刻に至り、それでも生き残った将兵をまとめてどうにか組織だった抵抗を続ける晴景の前に、敵の総大将である上杉謙信がその姿を現したのである。
「あれが上杉謙信か」
その堂々たる風格と覇気を前に、若武者である晴景に震えが走る。
妻である色葉が異様に警戒していた相手。
どれほどのものかと思っていたが、見ればなるほどと納得せざるを得ない。
「……晴景様はお下がりを。妾が時間を稼ぎますゆえ」
そう言うのは、ずっと傍にあって自分を守ってくれていた乙葉だ。
彼女がいなければ、いくらでも危うい場面はあった。
「そうはいかんぞ。朝倉の総大将たる俺が、ここで退けばすなわち朝倉の名折れになる」
「……死ぬわよ?」
丁寧な言葉を引っ込めて、素に戻った様子で乙葉が言う。
その全身は朱に塗れており、これまで数えきれないほどの敵兵を葬ってきた乙葉の実力は、今更疑う必要もない。
そして普段は嬉々として戦う彼女であったが、しかし今はその面に緊張が滲んでいた。
この乙葉をして、謙信は強敵であると認めたのだろう。
「一合でいい。それで名誉は保てる」
「馬鹿。一合で真っ二つにされるわ。あんなの化け物よ。妾が凌ぐから、その間に逃げなさい」
「しかしそれでは色葉に合わす顔が無い!」
言って馬を走らす晴景へと、乙葉は慌ててその後を追う。
「馬鹿馬鹿! 死んだら合わせる顔もないじゃないの!」
乱戦の中、謙信もまた晴景を総大将と認めたのか、無言で戦場を駆けてくる。
徒歩であった乙葉は出遅れ、勢いを増した晴景と謙信の両者が一気に交錯し、すれ違う。
その瞬間、真っ赤な血しぶきが周囲に撒き散らされた。
「……ぐっ!」
地面に転がり落ちた晴景が見たものは、真っ二つに両断された愛馬だった。
一体どんな膂力をしているのか、太刀で馬を両断するなど信じられるものでもない。
一方の謙信には、かすり傷一つとして無かった。
その謙信が瞬時に翻り、背後から狙われた一撃を軽く弾き返す。
不意を突いたはずの、乙葉の刃だ。
「……ほう。その姿。そなたが朝倉の狐とやらか?」
「違うわよ馬鹿!」
謙信の言う狐というのが、自分のことでないことは明白だった。
晴景が半ば暴走した原因でもあり、自分も激高して晴景を止められたなったことについては、彼女なりに責任を感じてもいたのだ。
だからこそここまでの間、必死で晴景のことを守っていたのである。
「では別の妖か。妖とはいえ女子供は斬らぬ。去れ」
「いい度胸ね! この妾にそんな態度を取るなんて」
「そちらの若武者も見逃そう。我が子景勝を助けた礼もある」
その謙信の言葉に、馬を斬ったのはわざとで、やはりあの一合でやろうと思えばいくらでも晴景の首を刎ねることなど容易かったのだと分かる。
晴景としては屈辱で顔を歪めるが、もはやどうしようもない。
「お言葉に甘えてと言いたいけれど、そうもいかないわ。妾をなめたこと、後悔することね」
晴景の様子を確認した乙葉は、即座に動ける様子でないと悟り、覚悟を決める。
今までの自分を思い返せば、らしくない行為だ。
しかしこれが誰かに仕える、ということなのだろう。
これまで奔放に生きてきた乙葉にしてみれば、非常に新鮮で、しかし複雑な心境でもあった。
「ではやむを得まい。中途半端な力は、身を亡ぼすと知れ」
乙葉は四百年を生きた妖である。
その力は妖の中でも強く、一度尻尾を切られて力を失うこともあったが、色葉に仕えてからはその褒美として新たな妖気を与えられて、往時の力を取り戻していた。
そんな乙葉であっても、謙信には手も足も出なかったのである。
数合ののち、四つあったうちの二本までも尻尾を切り落とされたことで、さすがの乙葉も敗北を覚悟した。
すでに力の半分が失われたことを意味しており、もはや勝機などは欠片も残っていないと。
「……信じられない。千代女よりもずっとずっと強いなんて……。あ~あ、せっかく色葉様に新しい尻尾をもらったのに、怒られるなあ……」
謙信から放たれる怒涛の一撃をもはや避ける気も無く、受け入れるしかなかった乙葉であったが、不意に謙信は動きを止め、馬上から飛び降りたのである。
謙信が乗馬していた馬が悲鳴を上げて両断されたのは、まさに次の瞬間であった。
「……風向きが変わった、か。少し時間を取られ過ぎたな」
地に降り立った謙信は、戦場の空気が変わったことに気づき、自身の失態を認める。
どうやら朝倉方の援軍が到着したらしく、突然の横槍に上杉方にやや混乱が見え始めたからだ。
そして目前の脅威からも、目が離せなかった。
謙信を狙って刃を降り下ろした何者かは、よく見て見れば戦装束に身を包んでいるとはいえ女子であり、そしてその特徴的な尻尾は噂通りのものだった。
「朝倉の狐が自ら来たか」
「そうだ。わたしを捜していたんだろう? ずいぶん我が夫を可愛がってくれたようだな」
戦場にあって不敵にそう言う女武者は、謙信をして警戒せしめるだけの不穏な力が感じられた。
妖気、とでもいうのだろうか。
ともあれ尋常なものでないことは確かである。
「お前が上杉謙信か?」
「いかにも」
「ならばわたしが朝倉色葉だ。よく、覚えておけ」
/色葉
ぎりぎりではあったが、辛うじて間に合ったようだった。
戦場に到着した杉浦勢は上杉勢に突撃。
どうにか個々で戦線を維持していた朝倉景忠をまず見つけ、これと合流。
わたしは戦場を単騎で駆けて晴景らを捜し、謙信と思しき将の前に躍り出たのである。
初めて見るが、これが上杉謙信か。
なるほど……化け物だな、これは。
『撤退を進言します』
アカシアが珍しく先にそんなことを言ってきた。
普段は雪葉に預けてあるものの、今回は同行させたのである。
「色葉!? どうしてここに――」
「もちろん、夫殿を助けるために決まっているだろう」
驚く晴景を見て、安心する。
あちこちに怪我はしているようだが、致命傷は見当たらない。
そして乙葉は――視線を向けて、わたしは顔をしかめた。
妖気がかなり減退しており、原因は一目瞭然で、切り落とされた尻尾のせいだ。
以前、尻尾が一つ増えたことをあれほど喜んでいたことを思えば、今の乙葉は絶望的な気分だろう。
そんな姿になるまで戦ってくれたことを思えば、ここであっさりと撤退することなどできないと、わたしの誇りが訴えかけてくる。
アカシアには悪いが、無視だ。
「ここで総大将の首をとっておくのも悪くない。覚悟してもらおう」
「……相当に古き妖と見受けるが、それでも私には敵わぬ。そちらの妖にも言ったが、女子供には手をかけぬ。去れば見逃す」
「黙れ。わたしの誇りが許さない」
「然様か。しからば」
喧噪渦巻く戦場の中、どういうわけか周囲が静かになる。
そんな、気がした。
どうでもいい。
わたしは地面を蹴り付け、一気に間合いを詰める。
謙信の手には太刀。
わたしが持つのも太刀。
間合いは短く、接近戦しかあり得ない。
先制の一撃は、常人ならばもちろん回避は不可能。
しかし寸前で、受けるでもなく謙信はこれを回避。
続けて三太刀まで回避され、四太刀めで刃をもって弾き返される。
これが、思いの外重く、僅かではあるが態勢を崩され、そして謙信はその隙も見逃さない。
「……くっ!」
どうにか背後に飛びずさるが、その切っ先は僅かに鎧を切り裂いていた。
いったん距離も戻し、動悸を整える。
強い。
相手にはまだまだ余裕がある感じではあるが、こちらはもうさほどそんなものは残っていなかった。
「……乙葉、聞こえているな?」
「う、うん……。ごめんなさい。わ、妾は……」
「いい、よくやった。あとは晴景様を連れてここを離脱しろ」
「で、でも――」
「命令だ」
妖気を込めて、有無を言わせずに命じる。
それで、乙葉も覚悟を決めたようだった。
何も言わず、持ち前の怪力で自分よりも上背のある晴景を引っ掴み、この場を離れていく。
晴景が何か叫んでいたが、それを聞いている余裕は無かった。
あとはわたしがここで時間を稼げばいい、というわけだ。
わかりやすくて、いい。
地面を蹴る。
謙信も今度は待ち構えなかった。
地面を駆け、一気に距離が縮まる。
仕掛けたのはこちらが先だが、それでも先に太刀の刃が閃いたのは、謙信の方だった。
速い!
わたしは攻撃を諦め、即座に立ちを切り上げて斬撃を受ける。
火花が散り、甲高い金属音が響く。
そして衝撃。
ありえないくらいに腕がしびれる。
それでもわたしの太刀は、謙信のそれを一旦弾くことに成功していた。
が、すぐにも引き戻されて、新たな斬撃となってわたしを襲う。
受けていられず、かわし――かわしきれず、斬撃がかすめる。
構わずそのまま踏み込み、今度はわたしが攻撃に転じる。
一閃。
斬り上げ、斬り下ろす。
相手が常人ならば三等分間違い無しの斬撃も、謙信には通じない。
避けられ、受け流される。
攻守が逆転する。
謙信が三回攻撃を仕掛けてくる間に、わたしはどうにか一回、返せるかどうか、といった頻度での攻防が続く。
この時点で十分に理解できていた。
謙信は強い。
わたしなどよりも遥かに。
にも拘わらずわたしがどうにか食らいつけているのは、謙信の太刀筋には裏が無いからだ。
ひたすらに真っ直ぐで、愚直ですらある。
裏をかくことも無い。
だからこそ読みやすく、どうにか防御が間に合っている、という具合だ。
とはいえそれは、わたしが勝機を見出せるものかといえば、全く無縁であるといえた。
結局のところ、守っているだけでは決して勝てない。
望月千代女を相手にした時は、わたしとの実力がほぼ互角だったこともあり、長期戦にもつれ込んだことで体力のあるわたしの方が最終的に勝ることができた。
しかし謙信の場合、実力に差があり過ぎる。
これでは――
どれほど集中していても、どれほど気を配っていても、何合も打ち合っていれば必ず隙はできてしまう。
実力差があれば当然のこと。
受け損ね、体勢が崩れる。
その僅かな隙を、謙信は見逃さなかった。
一太刀。
袈裟懸けに、一太刀を浴びてしまう。
「…………っ!」
動揺が、更なる隙を生んでしまう。
続けての斬撃が放たれ、途中から両断されたわたしの尻尾が地面へと落ちる。
激痛。
アカシアはこれを飾りとか言っていたが、痛い。
これではどう見ても身体の一部である。
謙信の動きが僅かに鈍る。
まるで様子を見るかのように。
――なるほど。
そういえば乙葉も尻尾を落とされていた。
妖狐はこれが妖気の源であると判断されているのだろう。
確かに乙葉の場合は正しい。
しかしわたしの場合は、違う。
これで妖気が減衰したりはしない。
もちろん零れ落ちる大量の血液が、体力を奪ってはいるが、今は無視だ。
なぜなら反撃の機会はまさにこの一瞬しかないのだから。
激痛や、撒き散らされる血飛沫など無視をして、跳ね上げるように逆袈裟に刃を斬り上げる。
まさに渾身の一撃。
――浅い。
その斬撃は確かに謙信を捉えたものの、あまりに浅かった。
そして振り上げた刃を戻す力も無く。
反対に踏み込まれ、真上から斬り落とされる。
ばっくりと肩口が割れ、血飛沫を上げてわたしは地面に転がっていた。
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