第60話 神通川の戦い(前編)


     /色葉


「動いたか」


 上杉勢南進の報せに、わたしは予想していたとはいえ、思っていたよりも動きが早かったことに舌打ちする。

 七尾城の内情はかなり酷いものになってはいたが、未だ健在には違いなく、それを置いて転進することに躊躇うとも考えていたのだが、しかし謙信の決断は早かった。


 とはいえ富山城の奪還を上杉が狙ってくるのは、当然の流れである。

 そして謙信自らが出張ってくるであろうことも。


 もっとも謙信が富山城ではなく、この増山城を狙ってくる可能性も十分にあった。

 富山城と増山城では、今の朝倉勢にとって重要なのは、やはり増山城である。


 逆に上杉勢にとって重要なのは富山城であり、謙信が富山城を指向するのは当然の流れではあるが、裏をかかれる可能性も考慮して、主力はこの増山城に置いていたのである。


 そのため現状の戦力配置は富山城に守備兵約五千、増山城周辺に一万、その他要所に四千、という風に分散しており、南進してきた上杉勢は約一万。


 わたしとしては富山城では徹底した籠城戦をさせ、その間に主力の一万をもって謙信に野戦を挑む心積もりだったのである。


「しかし勝てない戦を挑まなければならないというのは、気が重いな」


 戦準備を整えている中で軽くぼやくと、雪葉が不思議そうな表情でわたしを見返してきた。


「姫様は上杉謙信に負けるとお考えのようですが、どうしてなのです? 姫様が率いられる以上、この朝倉勢も精強かと思いますが」

「まだほど遠い」


 謙遜でも何でもなく、素直な感想である。

 朝倉勢はまだまだ弱い。

 これは精強で知られる武田勢を目の当たりにしたことがあるからこそ、持てる感想でもあった。


「越前にしても加賀にしても、ここしばらく戦乱が続いたから徴兵される兵は戦慣れはしているものの、負け戦が多かったこともあって士気も低く、練度も低かった。越前平定後は勝ち戦も続き、武田を参考にして軍制も取り入れて練度の底上げを図ってはいるが、やはり時間はかかる。今でようやく並み、といったところだろう」


 兵はもちろん、それを率いる将達に対しても、能力の底上げのためにわたしは徹底した指導を行っており、信長に滅ぼされた頃に比べれば精強になったともいえはなくなない。

 が、それは比較対象が弱すぎるだけである。


「されど姫様は、その弱兵をもって勝利してきたではありませんか」

「褒めてくれるのは嬉しいが、それは相手が弱かっただけに過ぎない。一向一揆など、所詮は数だけの烏合の衆であるからな。もちろん、それはそれで脅威だが……」

「上杉を相手にも勝利を重ねられていますよ?」

「そこは策を弄し、兵数で押したに過ぎない」


 砺波山での戦いは奇策がうまくいっただけであるし、増山城攻めや富山城攻めは、兵力差で当然の勝利を得ただけだ。


「同数でのまともな正面対決は初めてだ。しかも相手はあの上杉謙信だぞ? 正直言って、怖い」


 越後の龍だの軍神などといわれており、毘沙門天の化身とまで自称しているらしいが、貞宗の分析ではその名に恥じず、個人的武勇も相当なものらしい。


 貞宗曰く、あの望月千代女よりも遥かに勝る異能の持ち主だとか。

 化け物じゃないか、と思う。

 人間のくせに、もはやその範疇には無いといった印象である。


 かつて第四次川中島決戦において、単騎で信玄の座す本陣まで切り込んだ逸話が語られているが、文字通り一騎当千の武勇を誇っているのであれば、確かに可能だろう。

 今のわたしでは戦術云々以前に、個人的武勇でも及ばない、というのが結論だった。


「怖いから、慎重に慎重を期す。時間はかかるがやむを得ない」


 謙信と正面からぶつかるのは、わたしが率いる一万の手勢であり、ほぼ同数である。

 が、当然これだけでは勝てる気がしないので、戦術や戦略で少しでも補填するつもりだ。


 まず当然、富山城の五千の兵は、重要な兵力となる。

 決戦時に、上杉勢の後背をつければ言うことは無い。

 が、当然敵方もそれは承知しているだろうから、松倉城の河田勢が動く可能性がある。

 富山城への牽制のためだ。


 また七尾城からの来援の可能性もある。

 下手をすれば、こちらの本隊が挟撃されかねない。

 それを避けるために、越中の要所に配置している四千の兵を集結させ、金沢城の堀江景忠の留守勢三千余騎と呼応させ、七尾城に向けて侵攻させる手はずになっていた。


 これは重要な役回りで、七尾城の包囲軍を牽制する一方で、万が一わたしたちが敗北した際に七尾城包囲隊を攻撃することで、追撃の手を緩めるという目的があったためだ。


 本来、兵力の分散は兵理にもとる。

 勝ちにいくのであれば、現在集められるだけの兵をかき集め、相手を飲み込んでしまった方が勝率はずっと高くなるからだ。

 実際に長篠の戦いにおいて、武田勢は精強な兵に、優秀な武将を数多く揃えていたものの、戦力に勝る織田・徳川連合軍に敗れるのを余儀無くされている。


 とはいえ、だ。

 それはそれだけの大軍を率いるにあたり、優秀な指揮官を多く抱えていたからこそできた芸当である。

 わたし一人で数万もの大軍を指揮するのは不可能であり、優れた中級指揮官がどうしても必要だ。

 そして朝倉家では人材不足気味であり、その能力もまだ成長途中な者ばかりなのである。


 だからこそ、まともに上杉と戦って勝てるとは思っていない。

 それでも決戦は避けられないであろうから、いかに損をしない負け方をするか、が焦点になっていたのだった。


 そして富山城を死守しつつ、長期戦に持ち込む。

 正信にも言ったが、時間が現状を打破してくれる確信が、わたしにはあったからだ。

 だからこそ、勝つための戦というよりは、負けないための戦準備に終始したのである。


 しかし。

 しかしだ。

 今回はわたしのこの判断が、裏目に出ることになる。


 九月三日の夜。

 その急報にわたしは周囲の目も憚らず、怒鳴り声を上げていた。


「なんだと!? もう一度言え!」


 大慌てで駆け込んできた伝令に対し、わたしは感情を抑えることができずに、妖気をだだ洩れにしてしまう。


「若殿は迎撃に出、上杉勢と対陣した由にございます……!」


 そこまで言って、伝令は泡を吹いて気絶した。

 わたしの妖気にあてられたせいだろう。


「姫様!」


 慌てて雪葉が背後からわたしを抱きしめ、その妖気を抑え込んでくれなかったら、他の家臣どもの同様に次々に倒れていったかもしれない。


「馬鹿な! 晴景には決して城から出るなと言っておいたはずだぞ!」


 予想外の事態だった。

 晴景にはこちらの準備が整うまでの数日、富山城で粘ってもらうつもりであったが、それはあくまで籠城戦においてである。


 富山城は神通川もあって、守り易い。

 その利を活かせば、一週間ほどは十分に耐えられると踏んでいたというのに。


「……ただちに出陣するぞ。それまでに少しでも情報収集を」


 押し殺した声で、わたしは雪葉に命じるのが精いっぱいであった。


 そして翌日の朝。

 出陣の準備を終えたわたしの元へと、更なる急報がもたらされる。


「富山城陥落!」


 伝令の報せに、天を仰ぐ。

 その後もたらされた詳細はこうだった。


 先日の夕刻、晴景は城を出て神通川を挟んで上杉勢と対陣。

 本日の早朝、夜明けと共に上杉勢の渡河が始まり、これと会戦に及ぶ。


 当初朝倉方は敵に対して互角以上に渡り合い、上杉謙信率いる本隊を押し返し、士気もすこぶる高まったという。

 しかしそれもそのはずで、その時晴景が率いたのは四千五百の手勢に対し、謙信が率いたのは僅か二千であったとか。


 事前の情報にあった南進した謙信の兵力はおよそ一万。

 その数の少なさに気づかなかったことが、晴景の敗因だった。


 謙信は上杉景勝に別動隊八千を任せ、自ら囮となって晴景をおびき寄せることで富山城の守りを手薄にさせたのである。

 その上で密かに神通川を渡河していた景勝隊により、富山城は急襲され、守備兵五百は全滅し、もろくも城は陥落したという。


「……晴景様はどうなった」

「富山城を落とした上杉景勝隊により後背を襲われ、救援を求めています!」

「…………」


 晴景の部隊は今、謙信の本隊と景勝の別動隊に挟撃されて、手酷い痛撃を受けていることだろう。

 しかも神通川が退路を遮断しており、このままでは全滅は必至だ。


「姫様! ただちに救援を!」

「準備はすでに整っておりまする!」


 急報を受けて、家臣どもが次々に声を上げる。

 その声に、わたしはすぐに答えることができなかった。


 合理的に考えるならば、ここで富山城守備隊を救援に向かってももはや手遅れの可能性が高く、また準備が整わないまま士気の高揚する上杉勢と戦っても、恐らく勝ち目はない。

 負けない戦どころか、本当に負けてしまう。


 ならばここは富山城は完全に切り捨てて、すぐにもこの増山城に籠城し、長期戦に持ち込むことが、次善の策となるはずだ。

 時さえ稼げれば、必ず勝機はあるのだから。


 もちろん、最初に考えていたよりも戦線を維持するのが厳しくなるが、仕方が無い。

 そうすべきではないだろうか、という考えが脳裏を埋めていく。


 ただしそれをすれば、確実に晴景や乙葉を失うことになるだろう。

 しかしそれが何だというのか。


 晴景はもともと政略の道具として、わたしの元に来たに過ぎないはず。

 それにここで失っても、義弟である孫八郎が武田の元に行っているのだから、縁は無くならない。同盟関係は維持できる。


 ならばいっそ……。


 …………。


「足の速い者を千騎選んでわたしと共に富山城に向かう。副将は杉浦玄任」

「はっ!」


 全軍で進んでは足も遅く、とても間に合わない。

 第一陣はとにかく速度優先だ。


「第二陣は姉小路頼綱。千騎を率いて後に続き、途中で待機。晴景様を救出次第、第一陣と合流して即座に転進し、退却しろ」

「ははっ!」


 第一陣は敵中に突撃させることを前提にしているため、下手をすれば壊滅する。それでも晴景を救えればそれでいい。

 例え単騎でも晴景が第二陣に駆け込めれば、これを守って即座に退却するのが第二陣の務めだ。


 頼綱は飛騨平定の際、わたしに脅迫される一方で、晴景に助けられた経緯がある。そのため恩義を感じており、これを守らせるにはちょうどいい人選だろう。


「そして第三陣は三千を率いて第二陣のさらに後方に待機。堀江景実に任す。……分かっているとは思うが、これは殿軍だ。上杉勢の追撃があった場合、半日は稼げ」

「お任せを!」


 この任も危険だ。

 しかし晴景らが増山城に後退するまでの間、時を稼ぐための捨て石である。

 上杉の追撃が激しければ、全滅する可能性も高い。


 だが捨て石とはいうものの、殿を務める者は武勇はもちろん、人格に優れた者でなければならない。

 今いる者の中で、やはり知勇に優れた者は景実しか見当たらない。


 人格的には父親譲りなのか、謀反気もそれなりに備えてはいるものの、越前平定の際にわたしに従った初期の家臣の一人でもあり、わたしへの忠誠はそれなりに高く、裏切る心配はないだろう。


「残りの諸将はこの増山城とその一帯を固めつつ、加賀への退路の確保も怠るな。金沢の景忠には至急伝令を送り、急ぎ七尾城付近まで進出させろ。少しでも敵の前進の意欲を削ぐよう、圧力をかけるようにと」


 そこでわたしは家臣どもを見渡し、小さく息を吐き出した。


「いいか。わたしが戻ればそれで良し。万が一戻らない場合は越中を放棄して、加賀まで下がれ。その上で武田に使者を遣わし、上杉との和睦を頼むがいい。それで時間は稼げる。後のことはまあ……好きにしろ」

「ひ、姫様!?」


 わたしの言葉に、家臣どもが驚いたように目を見開いた。


「断っておくが、死ぬつもりなどさらさらないぞ? とはいえ万が一、ということもある。その時は晴景様を助けて、うまくやってくれ」


 別に悲壮な覚悟を決めたわけではない。

 それでも結局晴景らを見捨てられなかった以上、それなりの覚悟は必要だったというだけの話だ。


「……ああ、一つ確認しておきたいが、晴景様はどうしてわたしの言葉を無視して、城から打って出たんだ?」


 今回の窮地は明らかに晴景の失策であるが、しかしこれまでわたしの言葉はちゃんと聞き、実行してくれていた。

 富山城攻略の手順についてもわたしの指示に従ってくれて、それでうまくいったことに少なからずわたし自身、喜んだというのに。


 それが今回、このような結果になったことに関しては、やや不可解でもあったのだ。

 さすがにわたしの言葉を聞くだけに、嫌気がさしたのだろうか、とも思わないではない。


 こちらは女であるし、晴景は男で朝倉の次期当主でもある。

 当然といえば当然の反応であるし、もしそうであるのならば、今後についても考え直さなければならなくなる。


 まあ今後があれば、の話であるが。


「……伝令の話によれば、どうやら上杉方の挑発に乗ってしまったことが、原因のようです」


 答えたのは向久家。

 富山城攻略の際は越前衆を率い、晴景と共に功を上げている。

 攻略後は、増山城へと一旦軍を退いていたのだった。


「挑発?」


 わたしは小首を傾げる。

 晴景はわたしの知る限り、懐が広くて挑発の類には強かったはず。

 武田信玄の子という点で、非常に誇り高くはあるが、他家である朝倉家の中でもうまくやっていけるほど、度量は広い。


「それが……その」


 やや言いにくそうに、久家が言葉に詰まる。


「何だ。いいから言え」

「……では。若殿は鬼畜の類を嫁に迎えた人でなしと上杉方に罵られ……。嫁は狐であると連呼されたことに耐えかねて、出陣に及んだと」

「――――」


 告げられた言葉に、家臣の誰もが恐れたようにわたしを見返した。

 雪葉などは珍しく、激高したかのようにその妖気を逆立ててしまっている。

 わたしはというと――なるほど、と妙に得心していた、というところだろうか。


「そうか、そうだな。晴景様はどうもわたしのことになると、我を忘れるというか……」

「そ、そういえば拙僧も殴り飛ばされましたな」


 冷や汗をかきつつ、玄任がそんなことを言う。

 そういえばそんなこともあったかと、思い出す。


「ならばこれは晴景様の失策ではなく、原因はわたしということだろう。そうか、納得はできた。そこまで考えが及ばなかった、わたしの失敗だ」


 理由がつまびらかになり、むしろすっきりとした。

 ついでに晴景をどうしても助けなければならないと、再度覚悟を決められる。


「いいか。晴景様はわたしの名誉を守ろうとしただけだ。ならばわたしは晴景様の命を守らなければならないだろう。悪いが皆、命を懸けてもらうことになるぞ?」


 そう言えば。


「ははっ!」


 誰もが一様に頷いてみせる。

 そんな姿が無性に、頼もしく見えた。

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