第52話 尾山御坊開城
◇
「尾山御坊、か」
無血開城される一向一揆の本拠地を眺めつつ、わたしは誰にともなくつぶやいていた。
「確かここって……」
『後の金沢城です』
隣に控えた雪葉が持つアカシアが、わたしの疑問に答えてくれた。
やっぱりそうだったか、とわたしは自身の知識を再確認する。
ここは史実においての江戸時代、加賀百万石の拠点となった場所である。
ちなみに百万石といっても、加賀一国で、というわけではない。加賀藩というのは加賀、能登、越中などを領した加賀藩全体で、という意味だ。
「石山本願寺もそうだけど、ここの尾山御坊といい、どうして坊主どもは要害に本拠を構えるんだろうな」
そういえば平泉寺もそうである。
戦国の寺社というものは、国人などが構えた城などよりも、よほど城らしいから始末に困るのである。
さほどまだ普及していない石垣などもふんだんに使っていて、防御力もかなりのものだしな……。
「坊主など皆殺しにすればいいのに」
などと言うのは乙葉である。
雪葉はわたしの傍にいて本陣にあったため、松任の戦いには参加していない。
しかし乙葉は晴景の護衛を務めているので、その傍らにあって散々暴れたという話だ。
が、それでも物足りなかったらしく、尾山御坊の攻略でもまた戦えると意気込んでいたらしいけど、結局戦わずに無血開城となったので、やや落胆している様子だった。
しかし思っていた以上に戦闘狂だな、乙葉って。
「また機会はいくらでもある。それに晴景を守ったことは、ちゃんと評価するぞ?」
そういってその頭を撫でてやれば、嬉しそうに尻尾をぱたつかせながら、相好を崩してみせた。
「えへへ……」
そんな乙葉の表情からは、戦場で鬼のように暴れまわっていた様子などまるで想像できないが、まあいつものことである。
「それにしても姫様。これで加賀は平定したということになるのでしょうか?」
雪葉の問いに、わたしはいや、と首を横に振ってみせた。
この尾山御坊が開城に至ったのは、わたしが赦した杉浦玄任によるものである。
晴景は戦場で杉浦を捕縛することに成功し、殺さずにわたしの前へと引っ立ててきたのだった。
六十前後の歳であり、長年の連戦で疲労は見えたものの、未だに精悍な様は見て取れた。
「まさかこんな小娘に二度も敗れたのか」
開口一番そんなことを言ったので、思わず笑ってしまった。
が、晴景は激高して殴り飛ばす始末だったので、つい止めてしまったほどである。
晴景も普段は非常に人のいい好青年なんだが、わたしのことを悪く言われると我慢できないらしい。
まあ相手が敵だった、ということもあるだろうけど、二十歳そこそこの青年が、六十歳ほどの老人を叩きのめすのは、まああまり良い絵柄ではないだろう。
じゃあ小娘であるわたしが無双しているのはどうなんだ、という話になるかもしれないが、そんなことはわたしの知ったことではない。
ともあれ晴景がそんなことをしたものだから、それまで処刑するつもりだった気分が何となく失せてしまった。
そこで門徒の命を助けたかったら、わたしに従えと持ち掛けたのである。
尾山御坊にはまだ一千程度の門徒が立て籠もっていたが、鉄砲の用意もそれなりにあるらしく、要害ということもあってこれを落とすのは難儀すると思っていたのだ。
無血でこれを落とせるのであれば、杉浦の命を助けるなど安いものである。
杉浦はわたしが以前、大聖寺攻めで門徒を焼き殺して殲滅したことを知っていたようで、本気で皆殺しにするつもりだと思ったのだろう。
そしてそれを武力をもって抗うことも、もはや不可能であると悟ったらしい。
そもそも今回の門徒の集まりも悪く、最初から不利を分かっていたようだ。
結局杉浦はわたしに従い、尾山御坊への使者へとして発った。
家臣の中にはそのまま尾山御坊に籠るのでは、と懸念する声もあったが、それならそれで、一人残らず殺すだけだと告げれば、特に異論は出なかった。
そして今、杉浦は約束通り尾山御坊の開城を果たした、ということだろう。
これで加賀一向一揆の本拠地は潰したが、それで終わったわけではない。
「石川郡はこれで平定できるだろうが、また河北郡が残っているからな」
河北郡の諸城には一向一揆の将が籠っており、今のところ徹底抗戦の構えをみせている以上、加賀国平定はまだ少し先のことになりそうだ。
とはいえ後は掃討戦のようなものである。
従うのならば助けるし、従わないのならば踏み潰すだけだ。
それでもさほどの時間はかからないだろう。
やはり尾山御坊が落ちたことが大きい。
まともに加賀一向一揆征伐を行ったとしたら、数年はかかったかもしれないところであるが、わずか数ヵ月でここまで来られたのである。
やはり事前準備というか、調略というのは必須ということだ。
しかし越中国までは、さすがにわたしの手も及んではいない。
問題はここからだろう。
「そうすると、河北郡の城を落とすのにも、杉浦様を使うのでしょうか」
「うん……? そう、だな。それもいいが」
しかし、とも思う。
尾山御坊にはこれといった指導者が不在だったため、杉浦の言葉を聞いたのだろうけど、他の健在な諸城では当然指導者がいる。
例え味方であったとはいえ、敗戦の将の言葉を聞くものかどうか。
「いや……それでは少し面白くないな。どうせ殺すつもりだった男だ。もう少し有効活用してみよう」
考え込んだわたしは、閃いた思い付きに笑みを浮かべてそう雪葉へと答えた。
「うわ、色葉様。またいつもの人の悪い笑みになってるし」
「似合うだろう?」
「うん、とてもお似合い」
そうか……お似合いなのか。
果たして喜んでいいのやら、という気分にはなったけど、乙葉はあくまで好意的な様子なので、まあいいとするか。
「ここで石山本願寺と和睦する」
「和睦、ですか?」
少し驚いたように、雪葉は繰り返した。
「加賀の一向宗どもを停戦させて、加賀国の支配をわたしに譲ることを条件に、今後石山本願寺に協力する、という形にするがな」
実は先日、越前の景鏡から書状が届いており、わたしが加賀に攻め入ったことに慌てた足利義昭が、朝倉と本願寺の和睦を買って出た、という内容だった。
現在石山本願寺は追い詰められており、少なくとも加賀の情勢に構っている余裕は無い。
そんな情勢下で朝倉が勝手に暴れ、反信長包囲網の輪を崩しかねないことになると、信長を利することになるだけだと焦ったことだろう。
ちなみに足利義昭は、朝倉義景の時代においても積年の敵同士だった朝倉と本願寺を和睦させた経緯がある。
さらに言えば、一向衆の指導者である本願寺顕如の嫡男・本願寺教如と朝倉義景の娘である四葩姫が婚約までしていたほどだった。
建前上、わたしの妹に当たる人物だ。
どうやらすでに本願寺にその身はあるようで、朝倉滅亡の際には難を逃れたらしい。
「ついでに越中の一向一揆どもも停戦させて、軍門に降らせることができれば御の字か」
「それってうまくいくの?」
懐疑的な様子の乙葉へと、わたしは笑ってみせる。
「その時は多少面倒になるが、一向一揆どもは皆殺しになるだけだろう。まあ、ここでしばらく様子を見る間、降伏勧告はするが」
逆らうのなら容赦しないというのは、そもそもの方針である。
「進軍はいったんここで停止だ。尾山御坊は破却して、加賀支配の拠点として金沢城を普請する。しばらくはここに滞在し、加賀の仕置きもしなくてはいけないからな。とりあえずは……そうだな。一ヵ月というところか」
民を安堵させる一方で、兵たちも一度休息させる必要がある。
といっても遊ばせるつもりもないので、城の普請に交代で駆り出す予定ではあるが。
「一ヵ月?」
「ああ。杉浦に与える時間だ。その間に石山本願寺に行って、答えを持って帰ってこさせる」
もし帰ってこなければ、それが答えというわけで、残された一向一揆どもの末路は悲惨を極めることになるだろう。
「しかし……姫様。ここから摂津までは距離がありますから……ひと月では至難ではないでしょうか。しかも道中の近江や京は、織田の支配下にありますし」
「丹後国まで一気に海路で行かせる。そこからは徒歩で大坂まで、ということになるが、全て徒歩で行くよりは遥かに時間を短縮できるだろう」
「船、ですか。なるほど」
これが日本海沿岸の国の強みである。
天候にさえ恵まれれば、海路は陸路よりもずっと早く、しかも荷を大量に運ぶのにも適している。
現在朝倉が毛利と通商できているのも、この海路あってこそ、なのだ。
この海路は通商だけでなく、軍事的な移動手段としても役に立つ。北陸一帯を平定した暁には、海路は重要な交通手段になるだろう。
それを見越し、三国湊では現在、大量の船を建造させてもいた。
安宅船といった大型の軍船を初め、中型の関船なども用意されつつある。
「まあそれでも厳しい日程にはなるか。ふふ、門徒の命が大切ならば、必死になって走ってもらうとしよう」
「……色葉様。また邪まな顔をされていますよ」
「む……」
乙葉と違って雪葉にはやっぱり怒られてしまうな。
少し気をつけるか……。
結局、杉浦玄任はわたしの命を受諾し、大坂まで走ることとなった。
その間に朝倉勢はここで停止となり、兵どもには交代で休息を与え、わたしは平定地の仕置きに奔走。
ついでに今後の侵攻目標である、越中や能登について探りを入れたのだった。
これが天正四年六月十六日のことである。
/
杉浦玄任が向かった石山本願寺であるが、織田信長を相手に次第に追い詰められていたのが、偽らざる現状である。
しかし天正四年二月。
足利義昭の呼びかけによって、これまで織田氏と同盟を結んでいた毛利氏がこれを破り、信長包囲網に参加。
本願寺へと兵糧などを運び込み、軍事的な援助を開始したのである。
本願寺顕如はこれに力を得、畿内に動員令を発し、五万もの兵を集め、再挙兵したのだった。
これに信長は危機感を覚え、諸将に命じて摂津方面へと出陣。
五月に入り、両者は戦端を開いたが、本願寺勢の圧倒的な兵力と精強な鉄砲隊の前に、織田勢は苦戦し、敗退。本願寺勢は勢いにのって、織田方の拠点の一つとしていた天王寺砦を攻撃し、包囲してしまう。
この天王寺砦を守っていたのが明智光秀らで、窮地に陥った光秀は京にいた信長へと援軍を要請。
これを受けて、信長はただちに動員令を発したものの、あまりに時間が無かったこともあって、兵はごく少数しか集めることができなかった。
数の上で劣勢の中、それでも信長はどうにか集めた三千余騎の兵をもって、本願寺勢一万五千に突撃を敢行。
信長自身、先陣の足軽隊に混じって指揮を執る勇猛果敢ぶりをみせて、鉄砲の銃弾を受けて負傷しつつも、敵を崩し、天王寺砦の守備隊と合流。
いったん崩された本願寺勢も、未だ数において勝っており、体勢を立て直しつつあった。
そのため信長は、早期の再度突撃を計画。
多勢に無勢であり、家臣の誰もが信長を止めたが、これこそ好機として聞かず、突撃は敢行され、見事本願寺勢を打ち破り、大勝したのだった。
この戦いで本願寺勢に与えた精神的な打撃は大きかったようで、以後本願寺勢は石山本願寺に籠り、徹底した籠城戦の構えをとったのである。
六月末になり、杉浦は石山本願寺へと入った。
追い詰められていた顕如は朝倉の申し出をやむなしと受け入れ、杉浦と共に下間頼純を派遣し、朝倉の元で一向宗を統括させることを約束し、代わりに本願寺との同盟と、門徒らへの支援を要請したのである。
これを受けて、七月を待たずに杉浦らは大坂を発ち、急いで加賀へと取って返した。
とにもかくにも時間が無かったのである。
一方、陸上での優位を獲得した織田勢は、次なる目標を毛利から本願寺へと送られてくる軍事物資の遮断とした。
これは籠城する石山本願寺を孤立させるためである。
天正四年七月になり、織田方の九鬼水軍三百が、毛利・小早川・村上水軍ら七百を相手に、木津川河口にて激突した。
乃美宗勝を総大将とした小早川水軍らは焙烙玉や焙烙火矢を用い、九鬼嘉隆率いる九鬼水軍は壊滅。
木津川口の戦いは毛利方の勝利に終わり、目的であった兵糧搬入に成功。石山本願寺の籠城は継続されることになるのだった。
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