第53話 本多正信


     ◇


 越中国。

 室町時代において、畠山氏が守護職として領していた国である。


 しかしこの畠山氏は越中にはおらず、畿内において内紛や権力闘争に明け暮れた挙句、その力を衰退させていく。

 代わりに越中国を実質的に統治したのが、守護代であった神保氏や椎名氏であった。


 とはいうものの、この両者にさほどの力があったわけでもなく、時代は戦国時代に移り変わると、隣国加賀で発生した加賀一向一揆の影響もあって、越中国でも一向宗の勢力が増し、神保氏はこれと連携することで、その勢力を拡大させていく。


 一向衆の拡大に対し、危機感を覚えた越中守護の畠山氏は、隣国越後の守護・上杉氏に対して救援を要請。

 当時の守護であった上杉氏はもはや無力であり、実権は家臣の守護代であった長尾氏に握られており、両者は対立関係にあったものの、一向一揆の拡大と越後国への侵攻を恐れて要請を受諾するに至る。


 こうして越後守護代・長尾能景は、永正三年九月に越中国に侵攻。

 加賀国との国境である越中砺波郡まで侵攻し、ここで一向一揆勢に打ち勝てばそのまま加賀国へと進軍し、越前の朝倉氏と協調して加賀一向一揆の壊滅もなるかと思われたのだったが、この時一揆側に通じた神保慶宗が戦線離脱したことによって、戦線は崩壊。

 孤立した長尾能景は討死するに至った。


 この般若野の戦いでの敗北が、能景の子である長尾為景が神保氏を仇として敵視する理由となり、その後度々長尾氏が越中国に侵攻する原因となってしまう。


 この抗争の果て、神保慶宗は長尾氏の侵攻をしばしば食い止めたものの、ついに永正十七年には新庄の戦いで敗れ、自刃。

 長尾為景は父・能景の仇を討つことに成功した。


 ところがその後、越中一向一揆が蜂起。

 これにより、越後と一向一揆の抗争は為景の子、上杉謙信の代まで続くことになるのである。


     /色葉


「……その後、神保慶宗の遺児であった神保長職が再び勢力を盛り返し、富山城に拠って、松倉城の椎名康胤と越中の覇権を巡って争うようになったというわけですな。椎名康胤は越後の上杉と結び、神保長職は武田と結んだため、越中は上杉と武田の代理戦争の様相を呈したことになります」


 なるほど。

 こんな所でも武田と上杉は争っていた、というわけだ。


「上杉謙信は幾度も越中に進出しようとしましたが、武田の支援や関東での情勢もあり、ことごとくが失敗しております。そして信玄の死後、武田は越中に介入しなくなったこともあって、今回本格的な侵攻を図っているようですな」

「ふうん……そうなると、やはり上杉は出てくるか」

「十中八九、間違いないかと」


 まあ覚悟はしていたことである。

 天正四年八月に入り、休息を終えた朝倉勢は河北郡を平定し、完全に加賀国を手中に収めた。


 これは杉浦玄任が本願寺の坊官である下間頼純を伴って戻ってきたことで、それまで抵抗していた加賀国の一向一揆勢は全て軍門に下り、これを労せずして手に入れることができたのだった。


 現在朝倉勢は越中国国境まで進出し、下間頼純を通じて越中一向一揆も味方にすべく動かせており、同時に神保氏との交渉も行っている。

 神保氏にしてみれば、武田の支援や一向一揆との連携ができなくなれば、とても朝倉に対抗し得る力などはありはしない。


 このまま朝倉に降るか、それとも上杉に降るか。

 もしくはどちらかと戦って討死するか、選択肢は多くないのである。


「しかし正信、随分と越中の情勢に詳しいな?」


 わたしが聞くのは、先ほどから傍らで説明してくれていた人物だ。

 名を本多正信。

 尾山御坊開城の際に門徒の中にいた一人で、これは思わぬ逸材だった。


 正信は元々、徳川家康の家臣であったが、熱心な一向宗門徒であったこともあり、三河一向一揆の際に一揆側について家康と戦った経緯のある人物である。

 史実では後に赦されて家康の元に帰順し、家康に信頼された側近としてその才能を振るい、江戸幕府の老中にまで上り詰めていたりする。


 それがこんな所にいるとは……世の中分からないものである。

 癖のある人物のようであるが、特に政に関して優秀なことは間違いない。


 家臣として引き入れるための説得には時間がかかったものの、杉浦が戻ってきたことにより、本願寺との和睦がなったことと、顕如から要請された門徒への支援を実行したことで、正信はわたしの家臣になることを承諾したのだった。

 本当に、思わぬ拾い物である。


「幾度か足を運び、交渉したこともありますからな。その際、交渉相手の背景……つまり歴史を心得ておくことは、利はあっても害はありますまい」

「なるほど」


 相手の現状だけでなく、過去まで知り得ておくことは、確かに交渉の際に何かと役に立つことだろう。


「ならば、わたしのことはどの程度知り得ている?」


 加賀にあって越中の動静に詳しいということは、隣国である越前の動静についても把握していて当然である。

 つまり、他国の者がわたしのことをどの程度知っているのか――わたしが知りたいのはそのことだった。


「噂は耳にしておりました。朝倉の再興を成し遂げたのが大殿である朝倉景鏡様ということは、もはや周知の事実ではありますが、その殿が擁したとする朝倉の姫がおり、その方が実際には朝倉を牛耳っているらしいとのこと。聞けば越前の一向一揆を駆逐したのも、武田と同盟を結んだのもその姫の手腕によるところだとか。また、このようなものも作られていると聞きましたぞ」


 そう言って正信が懐から取り出したのは、一枚の貨幣。

 天正大宝――いわゆる五文銭である。


「それは?」

「越前から来た商人が支払いに使ったものだそうですが、これのせいでこちらの財政が破綻しつつありましてな。最近ではこの天正銭――巷ではそう呼ばれているのですが――でなくては受け取らぬ商人も出てくる始末で、仮に従来のものを受け取ったとしても、この天正銭に見合う枚数でないと渋るわけでして……」

「つまり、お前たちが持っている銭の価値が下がってしまった、と」

「暴落ですな。特に越前の者と取引する際に難儀していたのです」


 どうやら思っていた以上に早く、新しい貨幣は流通しているようだ。

 越前国内でもまだ完全に行き渡ったとは言い難いのに、すでに加賀にも出回り始めている。


 今年一杯の期限付きではあるが、領国においての新銭と旧銭との交換を、価値に差をつけずに積極的に行わせている。

 これはもちろん、民が損をしないための配慮だ。


 が、当然領国外はその限りではない。

 となれば、国外で新銭を使って旧銭を安く仕入れ、それを越前で換金して差額で儲ける――といったことを、利に敏い商人ならば当然やっていることだろう。


「だろうな」


 狙ってやっているのだから、当然である。

 何も槍や鉄砲を使うだけが戦ではない。

 経済戦争も立派な戦である。


「……ふむ。そのご様子ですと、全て見通された上でこのようなものを作り、流通を図っているというわけですな」


 さすがに察しの良い男である。


「軍需物資を全て領国で賄えるというのならば話は別だが、当然そんなわけにはいかない。どうしても他国から手に入れなければならないものもある。銭を使って、な」


 戦を始める前に、経済的に打撃を与えてから行った方が、当然効率は良くなる。

 織田信長などは堺や琵琶湖を抑えているから、西国から東国への物流をかなり操作することが可能だ。


 武田などはこれに難儀しているわけで、逆に言えばかなり効果の高い方法である。

 現代でいう、経済制裁のようなものだからだ。


 朝倉の場合は日本海に面しており、また日本海側には若狭を除いて織田の手は伸びていない。

 若狭湾くらいならば寄港せずに迂回できるので、今のところ毛利との通商の邪魔にはなっていないが、もし信長が若狭に水軍でもおいて海路を遮断しにかかれば、朝倉は西国との取引ができなくなり、かなり面倒なことになってしまう。


 やはり若狭は早急に奪取する必要がありそうだが、ここに手を出せば当然信長も黙ってはいないだろう。

 全面対決となれば、今の朝倉では分が悪い。


 やはり北陸を平定して一帯の経済力を得た上で、さらに周辺諸国との協調ができる状態になってからでないと、まともな勝負はできないのだ。


「まあ、わたしの支配下に入った以上、民に難儀させるつもりはない。一定期間の間、撰銭を禁止して新銭との交換に応じる用意はある」

「それならば民は納得するでしょう」


 やはり正信はこういう話は得手であるようで、話が早い。

 いや恐らく、わたしなどよりもずっと優れているのだろう。

 わたしが一人で決めてしまう前に、いったん正信に相談してみるのも悪くないな。


「……それで? 実際にわたしに会ってみて、評価はどんなものだ?」

「評価などと……」

「構わんぞ? どうせこんな小娘相手だ。忌憚の無いところ言ってみろ」


 そう言ったところで、なかなか答えられる類のものではない。

 しかしそれでも答えるところが、この男らしいところでもある。


「では……まずまずかと」

「そうか。まずまずか」


 そんな答えに、つい笑ってしまう。


「及第点はもらえた、というわけだな。しかし……」


 まずまず、というのは、十分ではないが概ね良い、という意味だったはず。

 わたしが興味を持ったのは、正信は不十分だと感じている点だ。


「何か問題もある、というわけだな? 言え」

「……恐れながら、一つだけ。恐らくこれまでに聞いた姫の実績と、手腕、実際に会ってみてのお人柄……。加賀を平定したのは当然の結果と言えるでしょう。そして越中や能登も現状のままであれば、容易に手に入れることができましょうが、されど上杉が出張ってきた場合、十中八九、負けますぞ」

「ほう……」

「そして上杉は必ず進出してきます」


 なるほど。

 そこまで見通しているとは、大したものである。

 なぜならそれは正しいからだ。


「ならばお前はどうすればいいと考える?」

「確実なのは加賀で侵攻をやめ、領国の内政に力を入れて力を蓄えることです。とはいえ越中を放っておくと、上杉に奪われかねませんので、今すぐにでも使者を遣わし、誼を結んで交渉して、越中を緩衝地帯とすることでしょうな。その間に神保などを懐柔して、越中を実効支配してしまうがよろしいでしょう」

「つまり、上杉と戦うことは下策だと」

「勝てませぬぞ。精強で知られる武田勢ですら、どうにか互角の戦いに持ち込むのが精いっぱいだったのです。かの武田信玄も、川中島で幾度も対峙しましたが、睨み合うだけで終わったことも多くあります。失礼ながら今の朝倉勢では……蹴散らされるだけでしょうな」


 正信の言う通りで、今の朝倉勢の装備は充実しているとは言い難く、練度もまだまだ低い。

 この加賀平定をもって、良い経験にはなったとは思うが、それでも歴戦の上杉勢を相手にするのは分が悪い。


 ならば圧倒的な兵力をもって押し潰す、という手段を用いるしかないが、その人員も現状では多くを動員できているわけではない。


 長篠の戦いで信長は、武田よりも兵数を集め、更には鉄砲を三千丁も用意し、数でも装備でも圧倒的な優位な状況を用意してから挑んだのだ。

 朝倉が上杉に勝とうと思ったら、それくらいの準備は最低限必要だろう。


「わたしも同感だ。だがそれでも、わたしは上杉と戦うつもりだ」

「下策とお認めになりながら、何故に?」

「強き敵と戦うのは得難き経験になるだろう。武田の軍についてはその中にあってわたしなりに参考にさせてもらったが、やはり戦ってみなくては分からないこともあるからな」

「しかし、危険ですぞ?」

「なに、うまく負けてみせる。それにここで一度負けておくことは、きっと後で交渉が円滑に進む要因になると考えているしな」

「交渉、ですか」


 ふむ、と考え込む正信。


「どうやら姫は、私などよりも数手先のことまで読まれているご様子ですな……。となると、俄然興味が湧くというもの。いったい姫は、どのような結果を目指されているので?」

「簡単だ。越中と能登を手中に収めて北陸を平定する。そして上杉には北陸からご退場いただく。ついでに二度と侵攻してこないよう、盟を結ぶおまけつきでな」

「それを、上杉に敗れた上で成し遂げると?」

「別に一方的に負けるとは言っていない。要は、最後に勝てればいいんだ」


 わたしはにやりと笑って。

 そう宣言したのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る