第40話 長篠の戦い(前編)


     ◇


 色葉が言っていたように、刻限通りに大手門が中から開いた。

 当初半信半疑であった三枝昌貞も、これには舌を巻いた。

 どうやって手の者を事前に忍び込ませていたのかは分からないが、相当の手際の良さである。

 中に入れば見張りの者が複数、すでに事切れていた。


「忍びの仕業でしょうか」

「さてな。今のうちに進むぞ。音を立てるな」


 弟である守義へと肩をすくめつつ、しかし気は抜かずに前進する。

 そのまま大手郭を突破し、巴城郭へと続く巴城門まで来たところで、城内の混乱に気づいた。

 すでに戦闘が始まっているらしい。


「先を越されたか」

「先といっても、搦手から進まれるはずの和田殿は、未だ到達していないはずですが」

「違う」


 ここで昌貞は舌打ちした。


「本丸の裏手の野牛門から先に入ったのだろう。朝倉の姫が」

「し、しかしあそこは断崖絶壁にてそう簡単には……」

「あれは狐に見えるがその実、鬼の類だ。毎回驚かさせられるが、不思議なことでもない。――くそ、このままでは功を挙げ損なうぞ。続け者ども!」


 ここで一気に三枝隊が巴城郭に殺到。

 それを合図に周囲から武田勢が一気に軍を進め、長篠城を押し潰さんと押し寄せたのである。


 正面からは大手郭を容易に突破されたこと、また城内での何者かの工作による混乱、そして背後の野牛郭への奇襲などもあって、長篠城内では連携もままならないうちに次々に兵が討ち減らされていき、三枝隊が巴城郭から二の丸を突破して本丸に至った時にはすでに、城主・奥平貞昌の首をとった色葉の姿を見つけることになるのだった。


     ◇


 五月二十日戌刻。


 武田と織田・徳川が対峙する中、織田方より密かに別動隊が陣を出、船着山を越えて鳶ヶ巣山の背後へと回る動きをみせた。

 これは家康の筆頭家老である酒井忠次の献策であり、これを受けた信長は配下の金森長近らを同行させ、約四千の手勢をもって鳶ヶ巣山砦攻撃を試みたのである。


 そして翌二十一日辰刻に至り、酒井勢は一気に鳶ヶ巣山砦へと強襲を仕掛けたのだった。

 しかしここで酒井勢は戸惑うことになる。


「これは如何なることか?」


 すでに鳶ヶ巣山砦はもぬけの殻であり、周囲にはむなしく旗指物が立つばかり。


「謀られたか!」


 忠次がそれに気づくと同時に、自身が通ってきた背後からどっと軍勢が押し寄せ、鬨の声を上げた。


「敵将と見受けたり! 素っ首頂戴いたす!」


 意気込んで現れた三枝隊に押しに押された酒井勢は前進するしか道は無く、長篠城へと流れ込んだ。


「さればいったん城内で態勢を立て直し、反撃に及ばん」


 味方の窮地を見とってか、城門が開き、必死になって渡河した酒井勢を吸い込んでいく。

 しかし決して広いとはいえない城内である。

 追い立てられた結果、秩序無く城内に入ったことで混乱し、その最中、忠次に同行していた菅沼定盈が血相を変えて注進してきたのである。


「城内に兵は無く、代わりに所々に大量の藁が積まれている様子。これは由々しき事態ですぞ!」

「しまった!」


 ここで忠次は、長篠城がすでに落ちていたことを悟った。

 そして可燃物が満載されている城内に誘い込まれたことに気づいたのである。


「ただちに城を出よ! 急ぎ――」


 この時期は梅雨であり、雨の降る日も多い天候だった。

 しかしこの五月二十一日の長篠周辺においては、雨が降らなかったのである。


 忠次の指示を嘲笑うかのように、周囲から火矢が降り注ぎ、それらは可燃物に一気に燃え移った。

 煙に巻かれ、恐慌状態に陥りながら城外へと雪崩出る酒井勢に対し、鉄砲の銃撃が浴びせられ、次々に討ち減らされていく。


「もはやこれまで」


 覚悟を決めた忠次は愛槍である甕通槍を手に討って出、縦横無尽に暴れ回ったあと、ついには力尽きて、まだ若いと見える武将の手によって、その首を討ち取られた。


 これにより酒井勢は完全に潰走し、兵の半ばは長篠城で焼け死に、残りの大半は川に追い込まれて討ち取られるなどし、奇襲部隊は事実上、壊滅したのである。


     ◇


 一方の設楽原においては、両軍の開戦の火ぶたが切って落とされようとしていた。

 設楽原はその名称が指し示すような、平らな地とは言い難く、丘陵がいくつも連なる見通しの悪い地形である。


 織田方はこの地形を活かし、丘に隠れるようにして軍勢を隠し、防御陣を構築した。

 その中にあって、虎の子の鉄砲隊を守るように、十二分に柵や堀を用いて防御。


 さらに幸運なことに、この日は梅雨であったにも拘わらず、降雨には至っていなかった。

 そのため積極的な攻撃よりも、引き付けて敵を撃滅する方針としたのである。

 つまり籠城戦に近い形をとったのだ。


 そして武田方は織田方の陣を眺め、報告よりも兵数が少ないことにやはり誇張であったかと、誤った判断をするに至っていた。


 全ての将がそう判断したわけではないが、少なくとも勝頼はそう判断してしまっていた。

 それでも数に劣ることは疑いようも無く、勝頼は鶴翼包囲をもって対峙。


 配置としては、左翼には山県や内藤隊。

 右翼には馬場、真田、土屋達など、左右両翼には歴戦の勇将を据え、中央は武田信廉、穴山信君、武田信豊といった一門衆で固められた布陣である。


 信長は昨夜のうちに送り出した酒井勢の首尾を待っていたが、未だ連絡も無く、様子もわからぬ状態であったが、夜が明け戦機が熟したことで、辰刻を過ぎたあたりで開戦となった。


 武田勢は猛然と突撃を開始し、織田・徳川両軍へと肉薄。

 しかし念入りに施された馬防柵によって守りを固めた鉄砲隊は、その中から射撃に専念し、武田勢は近寄る度に討ち減らされていく仕儀となった。


 勇猛果敢な武田軍といえば騎馬隊が有名であるが、鉄砲隊がいなかったわけではない。

 むしろその重要性を理解し、この戦いでも鉄砲衆が配されて参戦していた。

 この援護射撃をもって、武田勢は突撃を繰り返したのである。


 しかし武田の鉄砲隊には問題も抱えていた。

 鉄砲はあっても、鉛不足のため圧倒的に弾薬が不足していたのである。


 また武田方の鉄砲隊は、織田方の最初の標的になった。

 しっかりとした防御を構築し、腰を据えて射撃する織田鉄砲隊に対し、武田鉄砲隊は竹把で身を隠しつつ前進して撃つといったもので、これでは命中精度も悪く、織田に比べて効率が悪かったといえる。


 そのため武田鉄砲隊は次々に脱落していき、援護射撃のない状態で突撃を繰り返した武田勢は、当然その火力の前に前進もままならなくなったのだった。


 次第に劣勢が明らかになってきたところで、鶴翼包囲の中央を担っていた一門衆がまず崩れ始めた。

 これにより戦線が崩壊し始めたことで、未刻に至り、ついに勝頼は敗戦を認めたのである。


     /色葉


 長篠城へと敵を誘い込み、織田・徳川の奇襲隊を壊滅させたわたしは、その後の指示を出して単身設楽原へと向かった。

 すでに武田方苦戦の報が届けられている。


 一度は勝利に沸き立った長篠駐留軍も、にわかに緊張を帯びていた。

 いかに局所戦で勝利しようとも、これでは大局において武田は敗退することになる。


 わたしが設楽原に入った時にはもう、武田の名だたる将にも戦死者が出始めており、敗色は濃厚だった。


「こうなっては是非もありませぬ。後はわしが引き受けるゆえ、御館様はすぐにも退却を」

「……すまぬ、美濃守」


 勝頼は一門衆と共に戦場を撤退。

 それを助けるために殿として踏みとどまったのは、信春を初め、山県や内藤といった、武田の宿老たちだった。


「まったく年寄りどもが雁首揃えて死に急ぐとはな。もう少し足掻いてみせたらどうだ?」


 死地となった戦場にひょっこりと現れたわたしを見て、信春などは唖然となったものである。


「何故そちがここに……?」

「長篠城から走ってきたからに決まっているだろう」


 長篠城で敵の奇襲部隊を殲滅したこともそうだが、その前の日から長篠城を落としたりと、正直寝ずに働いていたのである。

 多少は疲れてきたが、快眠できるのはもう少し先のことだろう。

 何しろここからが、わたしにとっての長篠の戦いの本番なのだから。


「いいか。すでに退路は確保してあるから、勝頼は無事に逃げられる。追撃に対する伏兵もあちこち用意しておいたから、迂闊に進めば連中は痛い目に遭うだろう」


 ついでに長篠城を落としたりと、簡単な経緯を説明してやったら、信春はしばらくぽかんとしていたが、やがて呵々大笑したのである。


「ふ……はははははは! 何だそれは。それではもはや、わしも思い残すことなど無いではないか!」

「たわけ。馬鹿者」


 思わず尻尾ではたきそうになって、ぐっと堪える。


「別に隠居でも何でもすればいいが、ここでは死ぬな。せっかく武田で得た伝手とか誼とか、そういうわたしの努力が、お前らに死なれるとぱあになるだろう」


 わたしの努力を無駄にするような行為など、認められるわけもない。

 そのために自分が更に努力しなくてはいけないことについては、何だかなと思わないでもないが、それはそれ、だ。


「そうは言うが、もはやこの期に及んでは、生きるすべなど見当たらぬぞ?」

「節穴め。その生きるすべとやらは、目の前にわざわざ来てやっただろうが」

「…………。あながち戯言と思えぬところが、恐ろしいものだな」

「素直に喜べ。たわけが」


 などと軽口を叩いている暇は無いようで、武田の潰走をみた敵は、四方八方から押し寄せ始めている。


「戦い足りないと言うなら、存分に暴れればいい。ただし退くべき時は、わたしの指示に従ってもらう。他の残った将兵にも徹底させろ。わたしに従えば、生きて連れ帰ってやるとな」


 そうは言ったものの、これが非常に厳しい戦いになることは明白だった。

 史実において、武田の重臣がことごとく討たれたのは、この追撃戦においてである。


 ただ長篠城や敵の別動隊をすでに壊滅させているため、退路は確保されている上に挟撃の恐れも無い。

 これだけでも被害は相当に軽減するはずだった。

 後は、無駄に踏みとどまろうとするこいつらの尻を蹴飛ばしてでも、撤退させることに尽きる。


 ある程度踏みとどまって時間を稼いだ上で、わたしは撤退を指示。

 山県や内藤といった重臣の所には雪葉と乙葉を派遣しており、説得させつつ後退に至る。


 当然、ここで退けば一気に押し崩される可能性があったが、そこに長篠城から駆け付けた春日昌澄の騎馬隊が割って入り、これを一時打ち崩すことに成功する。

 ちなみに春日の隊には貞宗をつけており、この先の手はずも問題無いはずだ。


 敵の一時の混乱に、好機だと反撃しようとする武田の古将達を怒鳴りつけつつ、更なる後退を指示。

 一方の春日隊は適当に敵を混乱させた上で、取って返すように転進。

 長篠城を越えて、別の経路から撤退する予定になっていた。


 最後尾ということになるが、全て騎馬で構成した足の速い部隊である。

 敵を引きつけつつも、どうにか退却できるだろう。


 わたしは時折敵の雑兵の中に飛び込んで縦横無尽に殺戮しつつ、一方で信春を守りながら手勢の士気を維持して道を急ぐ。

 雪葉や乙葉も同様に武田の将を守りながら、退却に至っているはずだ。


 とはいえ混乱から立て直した敵は、再び追撃の手を強めており、まだまだ油断はできない。

 地獄のような撤退戦はこれからであり、一方で追撃する敵を返り討ちにする好機であるとみていたわたしは、舌なめずりをしつつ、その瞬間を待ったのだった。

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