第39話 鳶ヶ巣砦
◇
開戦が決定されたことで、直ちに軍の移動が開始された。
数にして一万二千の武田勢が、設楽原に向けて進軍。
勝頼はそれまで本陣としていた医王山を下りると、寒挟川を越えて有海原を進み、連吾川を挟んで織田・徳川と対陣するに至った。
一方、総勢一万五千のうち、一万二千は決戦に向かったが、三千は長篠城の牽制に残ることになる。
この部隊が長篠城の南対岸と、西対岸の大きく二つの部隊からなっていた。
その詳細は、
●南対岸監視部隊
・鳶ヶ巣砦……河窪信実、小宮山信近
・姥ヶ懐砦……三枝昌貞・守義・守光兄弟
・君ヶ伏床砦……和田業繁
・中山砦……五味高重、飯尾助友・祐国兄弟、名和無理之助
・久間山砦……和気善兵衛、倉賀野秀景、原胤成
●西対岸監視隊
・有海村駐留部隊……春日昌澄、小山田昌成、雨宮家次、山本勘蔵信供
このような陣容であった。
ちなみにわたしは武田本隊と共に設楽原には向かわず、この長篠城監視隊に残留することになっている。
これはわたし自ら望んだことでもあり、それを馬場や武藤は後押ししてくれたが、そのようなことをするまでもなく、勝頼は残留をすぐにも認めてくれた。
決戦が容易ではないことは分かっており、わたしを危険から遠ざける意味でも、という判断だろう。
とはいえ、だ。
「実をいえば、こちらの方が危険なんだ」
笑顔で家臣どもに言ってやれば、貞宗と景成はやっぱりか、という嫌な顔になった。
「……色葉様が設楽原に向かわれないのが不思議でしたが、やはりそういう裏がありましたか」
貞宗はよくわたしのことを分かっているらしい。
「今の情勢において、ここに残された手勢は重要な立ち位置にある。何といっても武田本隊を支援できるのは、ここしか無いからな。そしてそんなことは、敵も分かっているということだ」
そもそも敵の目的は、長篠城の救援である。
未だ包囲は解かれていないし、このまま万が一決戦が長引けば、城内の将兵は餓死することにもなるだろう。
「奇襲部隊が来るぞ」
「……確かにここで我らが崩れれば、武田本隊は退路を脅かされることになるわけですから、万が一敗走した場合は挟撃されて、甚大な被害になるかもしれませんな」
「そういうことだ」
わたしは頷くと、陣幕の外から雪葉がやってきて、一礼した。
「皆さま方がおいでです」
「よし、通せ」
雪葉が陣幕へと招き入れたのは、河窪信実、三枝昌貞、和田業繁、五味高重、和気善兵衛、そして春日昌澄といった、残留部隊の諸将である。
用意しておいた席に全員が着席すると、わたしは上座から下座へと回り、そこで腰を落ち着ける。
そんなわたしの様子に、諸将はやや複雑な顔をしていたが、特には何も言わなかった。
「みなさま方、よくお越し下さりました。この色葉、嬉しく思います」
「……朝倉の、そのような堅苦しい言葉はやめられよ。そなたのことはみな、すでに承知しておるぞ」
そんなことを言うのは、最も上座に近い場所に座っていた河窪信実であった。
この人物は武田の一門衆であり、武田信玄の弟でもある。
わたしが長篠城包囲の間に、新たに知遇を得た人物でもあった。篭絡した、でもいいかもしれない。
「それはありがたい。では普通に話させてもらおう」
わたしも面倒だったので、信実の言葉はありがたく受け取ることにする。
「だがまあ、席はここでいい。各砦を守るみんなに集まってもらったのは、他でもない。今から長篠城を落とすためだ」
「今から、だと?」
驚いたような声を上げたのは和田業繁である。
この人物は元々関東管領であった上杉憲政に仕え、武田と敵対していたものの、その後武田に降った経緯のある武将だ。
「そうだ。武田の本隊が移動したことで、これ以上の攻勢は無いと城内の者どもは多少なりとも気が抜けているところだろう。それでなくとも食わずにこれまで戦ってきたわけだから、疲労困憊になっているはず。これを奇襲して一気に殲滅する」
「これを提案したのは朝倉の姫であるが、決断したのはわしであるぞ」
事前に色々やっておいた甲斐もあって、信実が重々しくそう告げた。
「しかし御館様に無断でそのようなことをして良いものか」
懸念を示したのは三枝昌貞である。
「みんなも分かっているとは思うが、今回の決戦は非常に厳しいものとなる。十中八九、武田は負ける。そうなった時に、ここの部隊が本隊を逃がすために奮戦しなければならなくなることは、言わずとも分かるはずだ。その時に長篠城が健在では背後に不安を抱えることになることも、分かるだろう。それともう一つ」
全員の顔を眺めつつ、いったん間を置いてから、わたしは続けた。
「すぐにも敵の奇襲部隊がここにやってくる。それを迎え撃つためにも、長篠城を落とすのは必要不可欠だ」
「ま、待たれよ。その奇襲の部隊とは、まことに来るのか?」
春日昌澄が、にわかには信じられないとばかりに口を挟んでくる。
「ああ、来る。わたしが信長や家康でも、同じことをするだろうからな。それにそもそも連中の目的は、長篠城救援だ」
決戦し、武田を破った上で長篠城に入る――と誰もが考えるであろうが、別にそんな手順を踏む決まりなどあるわけもない。
「どうせなのだから、奇襲部隊を含めて敵を皆殺しにすれば、本隊の脱出も楽になるだろう。ただし長篠城陥落は敵に悟らせないようにする。その方が敵の裏をかけるからな。長篠城を落とし、敵を引き付けて、一気に包囲殲滅する。この鳶ヶ巣砦を連中の墓場にしてやろうじゃないか」
と言ったら、みんながみんな、思い切り引いていた。
あ、まずい、と思う。
これってわたしがよろしくない表情をした時に、家臣どもが見せる顔だ。
「……姫は、恐ろしいお方のようだな」
などと言うのは三枝昌貞だ。
「しかし利はあるように思えるが。河窪様はすでにこの意見を取り上げられていると、そういうわけですな?」
「先もそう言ったぞ? 責任は、わしが取ろう」
「しからば」
迷いのあった他の将も、三枝が決断したことを見とって、徐々に決断していく。
よし……とりあえずは成功か。
「長篠城奇襲にあたり、先鋒は発案したわたしが務めさせてもらう。信実様の兵を借りることになるが、異論のある者は?」
「あるぞ」
即座に声を上げたのは、三枝だ。
「他国の姫に先駆けを任すなど、それでは我が武田の名折れではないか。先鋒はそれがしがいたすぞ!」
この武将もなかなかの気骨のある将のようで、それならそれでもいいかと、わたしは頷いた。
「別にわたしは構わないが」
「ふむ。ならばよし」
満足そうに、三枝は首肯する。
「では今夜にでも決行する。そのための仔細を今から説明しよう」
/
五月十九日の夜。
長篠城への奇襲が敢行された。
しかしそれは何の音も無く、静かに開始されたのである。
「ふふ。来たわね」
乙葉の目には、闇に紛れて近づいてくる武田勢の姿が捉えられていた。
色葉と打ち合わせをした通りである。
城内は未だ敵の接近に気づいている様子は無い。
当然のように監視はされているが、城兵はすでに疲労の極みにあり、また武田の本隊が移動していったことで、多少なりとも気が緩んでいたことは否めないだろう。
「乙葉様」
不意に声がかかる。
振り返れば雪葉が立っていた。
乙葉ですら、ここに忍び込むのは容易だったのである。彼女より強いであろう雪葉がここにいるのは、さほど不思議でもない。
「なに? ちゃんとお仕事してるわよ」
「姫様からの御命令です。手引きをした後、もし城内から逃げ出す者があれば、これを必ず討ち取れ、とのことです」
「へえ? 殺して……いいんだ?」
目を輝かす乙葉に、雪葉は小さく頷く。
「わたくしも同様の命を受けていますから」
「うわ。横取りする気ね?」
「そのようなつもりはありません。ですが、ちゃんと魂は姫様に捧げて下さいね?」
「う。分かってるわよ……」
釘を刺されて、ややつまらなさそうに乙葉は尻尾を振った。
「それで、首尾はどうなのでしょうか」
「大丈夫よ。昨日からこそこそ回って、鉄砲を使えないようにしているから」
この長篠城を攻めるにあたって武田勢が難儀したのは、やはり鉄砲の存在である。
これで狙い撃ちされると、例え大軍であっても城を落とすことは容易ではない。
ただしこの時代の鉄砲は火縄銃と呼ばれるものであり、硝薬や玉をその都度込めなければならない仕様となっている。
特に硝薬は湿気てしまうと火がつかず、当然発砲できなくなる。
そういうわけで、乙葉はせっせと武器庫に忍んでは、水をかけて硝薬を使えなくしていたのだ。
乙葉にしてみれば、兵糧を焼いた時のように火でもつけてしまえばいいのに、と思わなくもなかったが、それでは警戒されるし、騒ぎになって、城外の敵に気取られる可能性もあるから、と色葉に却下されていた。
色葉曰く、こっそりと、この長篠城を落としたいらしい。
「まあ十分に接近してしまえば、鉄砲なんて使えないでしょうけどね」
「気休め、とのことですよ」
「色葉様って、横暴にみえて慎重よね。何なのかしら」
「乙葉様……姫様に対する暴言は許しませんよ?」
にこりと氷の笑みを浮かべる雪葉を見て、乙葉は慌てて首を振った。
「別に侮辱とかしてないし! その顔怖いからやめて欲しいし!」
「……静かに。気取られてしまいますよ」
「む……」
つい声を上げてしまって、乙葉はばつの悪そうな顔になる。
「……本当に雪葉って、ちょっと怖いよね。軽口くらい、大目にみてよ。というか、あなたならここの連中、一人で皆殺しにできるんじゃないの?」
「無益な殺生は好みません」
「ふうん……やっぱりできるんだ」
雪葉の返答を、乙葉は肯定だと受け取った。
「ならどうして色葉様はそうさせないの? 妾にこんな回りくどいことさせるより、あなたに命じて城兵を皆殺しにさせた方が早いじゃない」
「我々は極力目立つな、と色葉様はおっしゃっています。不自然な戦果は、目を付けられる可能性があるからと」
「なにそれ。色葉様は何かに警戒しているわけ……?」
乙葉は眉をひそめる。
あの傲岸不遜の色葉にしては、らしくないとも言えた。
「力ある者は、決して自分たちだけではないとおっしゃっていましたが、詳しいことはわたくしも存じません」
「ふうん……なるほどね」
確かに、と乙葉は思う。
自分もそれなりの妖であるとは思っていたが、上には上がいる。色葉しかり、雪葉しかり。そしてあの千代女もそうだ。
やはり色葉は相当慎重である。
先ほど思った感想は、的外れではなかったらしい。
「まあいいわ。言われた通り妾も頑張るから、雪葉、あなたも妾が色葉様にお仕えできるよう、ちゃんと口添えするのよ?」
そうとだけ告げて、乙葉は再び闇に紛れて城内を移動していく。
奇襲隊の手引きをするために、城門に向かったのだろう。
「まだ分かっていないようですね、乙葉様。色葉様はああ見えて、とてもお優しいのですよ」
一人残された雪葉は誰にともなく、そうささやくのだった。
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