第38話 設楽原へ


     /色葉


 よしよし。

 とりあえずはうまくいったようだ。

 やはり事前の根回しは大切である。


 偉いぞ昌幸、と視線を送ってやったら、物凄く嫌そうな顔をされてしまった。

 ……うん。あとでお仕置き決定だな。


 まあ、それはさて置き、長篠城である。

 わたし自身も参加できることになったとはいえ、援軍到着までにこれを落とすつもりはなかった。

 ここで無理をして落としても、結局織田・徳川連合軍との決戦は避けられない。むしろ後の展開が読みにくくなってしまう。


 一方で、特段手を抜きもしなかった。

 これは武田の兵どもに、わたしの勇戦を見せつけて、後で従わせやすくするためである。

 そういった意味ではこの二日間の猛攻は、必要な時間であったともいえる。


 そして五月十八日。

 織田・徳川連合軍は、長篠城手前の設楽原に着陣した。


 この報を受けた武田方では急遽長篠城攻めが停止され、参陣している重臣らを集めて軍議となった。

 さりげなく、わたしも参加させてもらっている。


「報告では織田勢およそ三万。徳川勢およそ八千。計三万八千余の軍勢が設楽原にて陣を張ったようですな」


 武田家重臣の一人、内藤昌豊の説明に、集められた諸将は色めき立った。


「まことに四万近くであるというのか? さすがに誇張ではないか」


 驚いたようにそう確認するのは、一門衆の一人、穴山梅雪である。


「いや、まことのようであるな。少なくとも我が軍よりも圧倒的に多いことは、間違いない」


 山県昌景に言われ、穴山は一度唸ると黙り込んでしまう。


「して、状況はどうなっているか」


 勝頼の問いに答えたのは、側近の跡部勝資である。


「敵は設楽原に布陣し、今のところ進む様子はないようですが」

「決戦を誘っている……ということか?」

「恐らくは」


 決戦、という言葉に、重臣の多くが唸った。

 由々しき事態であると、誰もが悟ったらしい。

 昌豊がさらに状況説明を続ける。


「物見の報告によりますれば、敵は多数の柵を用いて防御陣を構築しているようです。また徳川方の総大将は徳川家康。また織田方の総大将は織田信長とのこと」


 また場にざわめきが起こった。


「後方に残らず、信長自ら来たか」


 これでは敵の士気も低くはない。

 また三万八千という敵の兵力が確かならば、一万五千の武田方は当然分が悪い。


「御館様。この戦は無用と存じます。撤退を進言いたしますぞ」


 まずそう言ったのは、それまで黙していた馬場信春であった。

 歴戦の猛者である信春の言葉に重きがなかったわけもなく、一同は驚きをもって彼を見返していた。

 が、反応は否定的ではなく、首肯する者が多くいたのである。


 この時、撤退を進言した主だった者は、信春を初め、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、小山田信茂といった臣らであった。


「あいや待たれよ。ここで退いては意味があるまい」


 一方で撤退に否定的な意見を出す者もいた。

 長坂釣閑斎である。

 一門衆の武田信豊や跡部勝資らと共に、勝頼に重用されたという側近の一人だ。


「此度の戦は上方より織田を引き剥がすのが、当初の目的であったはず。であればここに信長めを引っ張り出したはまことに僥倖。ここで決戦し、打ち破ることこそ武田の本懐ではないのか」


「敵の数が予想外に多すぎる」


 山県昌景が反論する。


「勝てぬとは言わぬが難しい戦になることは必定。ここで万が一敗れれば、織田や徳川の跳梁を許すことになるのではないか」

「これは歴戦の猛将たる山県殿の言とは思えませぬな。我らが武田は信玄公以来、最強の軍勢である。現に家康など、三方ヶ原ではむなしく逃げ回るしか能が無かったではないか」


 跡部勝資もまた、山県へと言い返した。

 長坂・跡部の二人はやはり主戦論者であるらしい。


「それを言うならば、三方ヶ原の一戦は我が方が兵力でも優勢であったわ。勝てぬ道理が無い」

「では此度の戦は負けると仰せられるか山県殿!」

「待て、待て」


 白熱する跡部と山県の間に割って入ったのは、この中でも年長である馬場であった。


「確かに跡部殿や長坂殿の言も道理。とはいえ決戦が危うきものになるも、想像に難くはない。わしは撤退を進言するが、それとていくつかやり様もあろう」

「美濃守、申してみよ」


 勝頼に先を促されて、信春は先を続けた。


「まず一番確実なのは、このまますぐに甲斐へと撤退し、敵が追撃しなければ良し、そのまま力を蓄えて機を待つというもの。もし追撃してくるならば、これを信濃で迎え撃つ。ここは敵の領内であり、背後に長篠城が健在とあっては退路にも不安がありましょうからな」

「それでは消極的すぎるのではないか!」

「まあ待て、勝資」


 口を挟む跡部が勝頼に窘められて口をつぐんだのを見てから、信春は更に続ける。


「もう一つは今すぐにも長篠城を攻略し、これを成果として甲斐に撤退することです。これでも武田の武は十分に示せましょう」

「ふむ……他には?」

「長篠城を攻略するところまでは同じでありますが、これを本陣として御館様には城に入っていただき、防御を固める一方で、わしや山県殿、内藤殿が前に出、敵を翻弄して時を稼ぎます。敵は大軍なれば、兵糧にも不安がありましょう。正面からぶつかるは、敵の兵糧が尽きてからでも遅くはありますまい」


 なるほど、と思いながらわたしはそれを黙って聞いていた。

 とにかく来援した敵連合軍とはまともに戦わない、という趣旨だ。

 決戦をすれば負ける可能性が高い以上、こういった戦術になるのは当然である。


「……朝倉殿はどうお考えか?」


 不意に意見を求められて少しだけ驚いた。


「わたし、ですか?」

「然様。先日の勇猛な戦いぶりは皆が知るところ。お若いが、武田の擁する古参の将にも引けをとらぬそなたであれば、どのように考えるか聞きたいのだ」


 ああ、と思う。

 やはり勝頼は戦いたいのだ。


「……武田様は決戦に及びたいのですね」

「そうは、まだ言っておらぬが」


 わたしはゆっくりと首を振った。


「わたしとしては、やはり馬場様の意見がよろしいかと思います。ここでいったん退き、織田が撤収するのを待って、再度秋に出陣するのです。当然これは収穫時期を狙ったものです。いち早く三河に侵入し、刈田を行い、周辺を放火して回れば、徳川は戦を行うどころではなくなりましょう。織田は再び援軍を寄越すでしょうが、これとまともに戦う必要もありません。これを繰り返すうちに、我が越前も力を取り戻す時間を得ることができます。その時に我らが近江に討って出れば、徳川は織田の援軍を得ることができず、またその力の衰えた徳川勢など武田様にとっては、鎧袖一触でしょう」

「朝倉殿の言、まことに良き策かと思いますが」


 わたしの意見に賛意を示したのは、穴山梅雪だ。

 どうやらこの人物も、決戦には消極的らしい。


「しかしそれでは時がかかり過ぎる。ここで敵を蹴散らすことができれば、そなたの言う策よりも数年早く、事を為せよう。わしはそれに賭けてみたく思っている」


 確かにもしこの戦に勝利できれば、今後の展開は大きく変わる。

 勝頼とてここで一気に徳川を滅ぼすつもりでもないだろうが、その期間は大いに短縮できるだろう。そのまま遠江と三河を併呑できれば、武田の国力は増し、正攻法でも織田と相対できるようになるかもしれない。


 その魅力に抗い難いのだろう。

 つまり、勝頼はここで織田・徳川を一気に打ち破りたく思っている。


 強気といえば強気であるが、家督を継いでから連戦連勝を重ねているし、父親の信玄ですら落とせなかった高天神城も落としている。

 そしてこのようなことは、側近連中の方がわたしよりもずっと分かっているはずだ。


 だからこそ跡部や長坂は主戦を唱えているのかもしれず、実際の心境は逆かもしれない。

 とはいえそれも、臣の一つの形だろう。

 是非も無い、か……。


「では、ご随意に」


 最後に何とかならないかとも思ったけど、やはり勝頼の意思は変えられそうもない。

 残念ではあるけれど、ここで一度、負けてもらうしかないようだ。


 もっとも史実のような、大敗など絶対に認めるわけにはいかない。

 わたしにとってもこれは正念場になるな……。


「武田様がどのような決断をされたとしても、同盟者である朝倉は、いかなる協力も惜しむものではありませんから」


     ◇


 この日、武田勝頼により開戦が決定される。


「御旗楯無も御照覧あれ」


 この時勝頼は御旗楯無に誓いをたてたことで、家中の意見は決戦することでまとめられた。

 楯無とは武田家に伝わる神格化された至宝で、源氏八領の一つである。


 武田家中には御旗楯無に対して誓約したものは、決して違えることはできないという作法があり、勝頼の並々ならぬ意思は家臣の不戦論を一掃した。


 つまるところ、山県や内藤といった重臣たちは、この戦での死を覚悟しつつも、決戦に挑むことになったのである。

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