第37話 長篠城攻防戦


     /色葉


 天正三年五月十五日。


 武田勢一万余は、僅か五百という寡勢の籠る長篠城を包囲するも、これを未だ落とせずにいた。

 長篠城が堅城であったことに加え、二百丁という鉄砲があったこと、またそこに籠る奥平貞昌が徹底抗戦の構えをみせていたからである。


 この貞昌が武田から離反する際、人質として武田に送られていた妻や貞昌の弟などが処刑されたという経緯がある。

 そのため貞昌にとって武田に降ることはありえず、また勝頼にしてみれば裏切り者のわけであるから、決して無視できない存在だったのだ。


 これが、今回の戦で武田が落としてきた諸城と決定的に違う点である。


「――織田の軍勢はすでに岡崎に入っているようです」


 雪葉の報告に、わたしはうーんと唸ってみせた。

 やはりこのままだと長篠城を攻め落とす前に、織田と徳川の連合軍がやって来てしまう。

 そうなると史実通り、そのまま長篠の戦いへと移行してしまう。


「くそ……。もう城内の兵糧は尽きているはずなのに、まだ粘るのか」


 長篠城が落城寸前なのは、間違いない。

 本来ならば長期の籠城も可能であったのだが、兵糧庫を焼失したことで、それも不可能になっていたのである。


 それでも未だ士気は高く、降伏の気配が無いことも、密かに城内に侵入させている乙葉からの報告で承知していた。

 ちなみに兵糧を焼いたのは乙葉の仕業である。


「如何なさいますか?」

「仕方が無い。次善の策でいくしかないだろう」


 とはいえ客将の身の上であるわたしには、一兵すら指揮することはできない。

 となると、武田の者を使うしかないわけだが……。


「お前はもう一度岡崎の様子を探ってこい。少しでも援軍到着を遅らせることが望ましいが、目立ったことはするな」

「かしこまりました」


 雪葉がその場を辞した後、すぐにもわたしは陣中を移動し、目的の人物を探し回った。


「武藤殿、少しいいか」


 そしてようやく武藤昌幸を見つけたわたしは、見目麗しく見えるよう微笑を拵えて、声をかけた。


 とはいえすでに丁寧な口調は元に戻ってしまっている。

 家臣どもには気持ち悪いと言われるし、わたしの本性をある程度勘づいている昌幸や信春の前では、もはや取り繕う必要も無いと思ったからだ。


「こ、これは……朝倉殿」


 一応人懐っこい笑みを浮かべて友好的に接したつもりだったのだけど、どういうわけか昌幸は思い切り警戒するようにその表情を引きつらせる。


 そんな様子に、わたしはこっそりとため息をついた。

 どうやらまた、わたしが何か無理を言いに来たとでも思われたらしい。


「そんなに構えるな。今日は別に無理難題を言いに来たわけじゃないぞ」

「それならば……良いのだが」

「お前の好きな謀略の相談だ。ちょっと付き合え」

「いや、それがしは別に悪巧みなど好きではないのだが……」

「い、い、か、ら、付き合え」


 ここで逃げられては時間が無駄になるので、とびきりの笑顔で一言一句、噛み締めるように言ってやれば、昌幸は渋々といった風で頷いたのだった。

 よしよし。


「それで、相談とは?」


 わたしの為に張られた陣幕の中に昌幸を引きずり込んだ後、周囲を貞宗と景成に見張らせつつ、わたしと昌幸は密談に及んだのである。


「前にも言ったが、このままだと武田は負けるぞ」

「……確かにそう仰っておられたが。しかし今の武田は士気高く、長篠城も落城寸前。今のところ、危うさは無いと心得るが」

「織田信長がもう岡崎にいるぞ?」

「なっ……?」


 さすがに驚いたのか、昌幸は目を丸くした。


「しかもかなりの大軍だ。徳川の軍勢と合わせれば、武田の兵力の倍以上だろう」

「……それはまことなのか?」

「これは明日にも分かる話だ。で、だ。織田と徳川はすぐにもここに駆け付けて来る。そして恐らく勝頼――武田様は決戦を選択するだろう。これも前にも言ったが、真正面からぶつかれば、単純に兵力の差で負ける。これももう、逃れられない運命だろう。問題はその後だ」

「……後、とは?」

「武田は撤退に及ぶが、当然追撃してくる。ここで甚大な被害が予想されるわけだ。総崩れになった上に、退路まで断たれてはもはやどうしようもないからな」


 撤退戦というのは大抵悲惨である。

 例えば朝倉が滅ぶに至る致命的な打撃を受けたのが、刀根坂の戦いであった。


 あれで朝倉家中の名のある将はほぼ討たれ、軍も壊滅。その後朝倉に組織だった抵抗は叶わず、滅亡したのだ。


 またかの金ヶ崎の退き口も、信長にとって最悪の撤退戦であったはずだ。


「退路を断たれるとはどういうことだ?」

「敵はこちらの退路を断ってから、決戦を挑んでくるということだ。その方が効果が高いのは語るまでもないだろう? お前ならしないのか? 十分に兵があるのなら、挟撃した方がいいに決まっている。信長も家康も、その程度の戦術は知っているだろう」

「確かに、そう……だが」


 基本的に軍を分けるのは兵理に悖る。

 各個撃破の危険があるからだ。

 例え挟撃や包囲されたとしても、軍の指揮次第では各個撃破の機会ともなり得る。


 ただしそれは指揮官の能力や士気も影響してくるし、何より正確な情報が掴めなければ実施できない。

 情報が無い状態で包囲されれば心理的に不安を生じ、士気が下がる。

 最悪恐慌状態となって、潰走してしまう。

 こうなっては各個撃破どころではないのだ。


「いいか。今回の決戦では武田が負ける。しかしうまく負けろ。相手に完勝させるな。どうにかして痛み分けにもっていくんだ。もちろん決戦に勝利できればいいが、最悪の結果についても考慮しておいても損はないはずだ」


 この時点で一番いいのは、戦わずに撤収することである。

 でもこれはもはや無理だろう。

 武田勝頼は無能者ではないし、その軍才も非凡であるが、相手が悪い――というよりは、条件が悪い。


「ううむ……。しかし、ではどうすれば良いと……?」


 昌幸も思うところがあるのか、頭ごなしに否定はせず、こちらを意見を求めてくる。

 思った通り、やはり昌幸は頭の回転が速い。


 もし織田の大軍がすぐそこまで迫っているのだと仮定したならば、こちらが不利であるとすぐに悟れるし、何よりそういう想像を働かすことができるのだから。

 要するにわたしはこの武藤という男のことを、けっこう買っているのである。


「まずは退路の確保だ。そして敵の別動隊への対応。これに尽きるな。お前ならどうする?」

「…………。やはり、長篠城か」


 ちゃんと分かっているらしい。


「そうだ。これを何としても落とす。その上で敵の奇襲部隊を迎え撃って蹴散らす。これで退路が脅かされることはない。奇襲には奇襲を、だ。そしてそれをわたしに任せてもらいたい」

「いや……それは……余りに危険であるぞ? 貴殿は仮にも女子の身。それを――」


 当然のごとく、昌幸は難色を示した。

 予想通りではある。

 わたしはふん、と鼻をならすと、昌幸に向かって凄んでみせた。


「言っておくが、軍を率いて越前を平定したのはこのわたしだぞ? 一向一揆どもの首を何百と落としたのも、な。はっきり言って、わたしの手の方がお前の手よりもずっと、汚れている」


 わたしの気迫を前に、昌幸は息を呑んだ。


「まあ本当ならば、他国の戦に出しゃばる気はなかったし、できればお前にそれをやってもらいたかったけど、お前には武田勝頼のお守りをしてもらわなければならないからな。仕方ない」

「ならば馬場様に相談して――」

「駄目だ」


 わたしは首を横に振る。


「馬場信春には殿を務めてもらう。だから、駄目だ」


 それはとりもなおさず、馬場の死を意味していた。


     /


 天正三年五月十六日。


 武田勝頼本陣の勝頼の元へと、一人の男が連行されていた。

 名は鳥居強右衛門。


 この男は長篠城を包囲する武田軍によって捕らえられ、取り調べの結果、長篠城の奥平貞昌の家臣であると分かった。

 どうやら一度包囲を抜けて岡崎へと走り、その帰りであると言う。


 強右衛門は厳しく尋問されたものの、決して臆さず、自身は岡崎への密使であると告げ、態度は豪胆としたものだった。

 しかしその内容は、すでに織田の援軍が岡崎へと入り、二、三日中には長篠に至る、という無視できないものであった。


「敵ながら天晴れな覚悟だ。容易に寝返る不埒者の奥平に仕えるのは余りに惜しい。ここで武田に協力せよ。さすれば武田家臣として召し抱え、厚く遇そうではないか」


 強右衛門は落城寸前の長篠城を決死の覚悟で脱出し、援軍を求めて岡崎へと向かったが、そこにはすでに織田の援軍が到着していたのだった。


 あと数日。

 これを伝えるため、強右衛門は長篠城へと取って返そうとしていた。

 この事を知れば、城内の士気は高まり、あと数日を凌ぐことも可能と思えたからである。


 しかしその最中に武田方に捕らえられ、織田の援軍到着を知られる結果となったのだった。

 何にせよ、これで長篠城を早々に落とさなければならない必要にかられた武田勝頼は、強右衛門に織田の援軍は来ないと虚偽の情報を長篠城に流させることでその士気を挫き、降伏または一気に攻め落とそうと考えたのである。


「……よかろう。長篠城の命運はすでに尽きた。なればこれ以上の流血は無用である」


 強右衛門は了承し、長篠城から見渡せる西岸へと引き立てられた。


「城内の者よ、よく聞け! 我は鳥居強右衛門なり。不覚にも武田に捕らえられ、この様である。されど二日を耐えよ! 援軍は来る! もうすぐそこまで来ているぞ!」


 大音声で叫ぶ強右衛門の言に、城内からは歓声湧きたち、勝頼は激怒する。


「おのれ謀ったか。誰かある!」


 強右衛門を殺すよう命じ、家臣がその場に向かった時にはもう、強右衛門は死体となって転がっていた。

 その前には太刀を引っ提げた、女の将が佇んでいる。

 一体どんな力で叩き斬ったのか、強右衛門の身体は完全に両断されていた。


 そのせいか、その女の将が浴びた返り血は尋常ではなく、鬼気とした雰囲気が纏わりついている。

 そのあまりの禍々しさに、周囲の武田勢はもちろん、城内から見ていた奥平勢もまた、声を失ったように静まり返っていた。


「――よく見ておけ。次は貴様らだ」


 そこまで大きな声でも無かったというのに、その声はどこまでも響き渡った。

 手打ちを命じられたその家臣は、ようやく目の前の将が誰であるか思い出していた。

 というよりも、すでに陣中では有名になって久しい人物である。


 特徴的な耳と、尻尾。

 そして麗しい容姿。

 朝倉色葉という客将だ。


「武田様にお目通りを」


 色葉の言葉に抗えるはずもなく、その家臣は慌てて色葉を伴って、勝頼の陣幕へと入った。


「なんと。では色葉殿があの痴れ者を手打ちにされたのか」

「武田様の温情を仇で返す不届き者に、つい手が勝手に動いてしまいました。お許しを」


 色葉もまた甲冑を着込んでいたが、その重さや煩わしさを一切感じさせず、優雅に一礼してみせた。

 だからこそ、その全身に付着した返り血が異様であったが。


「いや、構わぬ。されど……まるで鬼神のようであるな。城内の者は、肝を冷やしたようだが」

「であれば、今が好機です。あの城を一気に攻め落としましょう。……このわたしにも、出陣の御許可を」

「自ら討ち入ると申されるのか」

「はい。是非にも」

「されど……色葉殿は朝倉の者。此度は同行していただけただけでも十分であるのだが」

「折角両国の同盟に至ったのです。手ぶらで参った以上、何か土産を残さねば朝倉が笑われるというもの。わたしを辱めないでいただければ幸いです」

「うむ……」


 それでも勝頼は悩んでいたが、その背を押したのは昌幸の言であった。


「御館様。それがしも共に参りますゆえ、是非とも朝倉殿のご出馬をお認め下さいませ」

「……そこまで言うのならば、もはや止めまい。されど昌幸、必ず朝倉殿をお守りせよ」

「はっ!」


 威勢よく、昌幸は頷いたのだった。

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