第41話 長篠の戦い(後編)
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「申し上げます! 長篠城は落城し、奥平貞昌様以下将兵は全滅した模様!」
戦勝を確信していた信長の元に届けられたのは、耳を疑う報告だった。
「申し上げます! 酒井忠次様率いる別動隊は、敵の伏兵に遭って壊滅! 生死不明!」
「申し上げます! 松平伊忠様戦死!」
矢継ぎ早にもたらされる伝令に、勝利の確信が薄らぎ、焦燥が募り始める。
「申し上げます! 酒井忠次様戦死!」
「何だと!」
さすがに平静ではいられず、信長はその場に立ち上がった。
そもそも今回の奇襲作戦の発案者が、忠次だった。
軍議の場において、信長はその意見を一蹴。
しかしその後、密かに忠次を呼んで奇襲作戦を実行させたのである。
これは万が一にも武田の間諜が紛れ込んでいた場合のことを考えて、まず味方から欺いた上での策だったのだが、これが打ち破られたということは、情報が漏洩していたということだろうか。
それとも武田方にこちらの策を読んだ者がいたか……。
「まさかこれも罠か」
嫌な予感が脳裏をかすめる。
武田方の総崩れ。
これは疑いようも無い。
しかしそれを利用して罠が仕掛けられている可能性があるのではないか。
ここで無暗に追撃することは、危険ではないかと警鐘が鳴る。
そしてそれは、すぐにも現実となって信長に知らされるのであった。
/色葉
馬場隊はわたしの叱咤で全力で後退しつつ、山林へと至ったところで、武藤昌幸率いる一団と合流した。
そこには武藤隊だけでなく、山県隊や内藤隊もすでに集まっており、雪葉や乙葉の姿もあった。
早い話、わたしを含めた馬場隊が最後尾を担ったのである。
「ご無事で何よりです」
「喜兵衛か! 何故ここにおる? 御館様はどうされた?」
「御館様ならば、すでに先に進まれています。先行さしていた河窪様や三枝殿に守られておりますゆえ、まず問題ないかと」
「然様か。しかし何故そちは御館様に同行せぬ?」
「それは……まあ。色々ありまして」
言葉を濁しつつ、わたしを見る昌幸。
いかにもわたしが原因だと言いたげで、しかもその視線だけで信春もなぜか納得してしまったようだった。
「なるほどな」
「おわかりいただけますか」
何を勝手に以心伝心してるんだか。
まあいいかと思いつつ、わたしは昌幸に状況を確認する。
「首尾はどうなっている?」
「時間はあまりなかったが、可能な限り周囲に伏兵や罠を仕掛けておいた。兄上に頼み、真田衆からも人員を割いてもらっているが、嫌がらせ程度のものであるぞ」
「真田昌輝が指揮を?」
「御館様の下知ということで、先に戦場を離脱してもらった。……それで良かったのだろう?」
「上首尾だ」
このことは、後で必ず役に立つ。
今はこの場を乗り切らないとどうしようもないが。
「とにかくしばらく足を止めて、時間が稼げればいい。それで勝頼の方は? ちゃんと武節城に向かわせたか?」
「それは大丈夫だ。菅沼殿に事の次第は話してある」
「よし」
退却した勝頼は、信濃に向かう途中にある田峰城を、一時的な避難場所として目指して進むはずだった。
この田峰城は菅沼定忠の居城である。
しかしここの留守を任されていた、親族の菅沼定直はすでに裏切っており、ここを迂回してさらに北にある武節城へと向かわせるよう、事前に昌幸には話しておいたのだ。
「ここで敵を食い止めれば多少は安心していいかもしれないが、一日休憩を取ったら高遠城まで退くようにはちゃんと言ったな?」
「元よりそのおつもりのようだったから、問題ないだろう」
「それならばいい」
勝頼が向かった武節城も未だ奥三河であり、最終的には放棄せざるを得ないだろう。
それでもそこに敵が至るまでに、徹底的に打撃を与えてやるつもりだった。
「ここでいったん兵をまとめて如何するつもりだ?」
信春の問いに、わたしは山県や内藤へと視線を走らせる。
その表情に疑問は浮かんでいない。
「二人に説明は?」
「簡単には」
山県隊と内藤隊は先に武藤と合流していたから、馬場隊が追いつくまでの間に説明を受けていたようだ。
「なら信春に説明するから、もう一度聞け」
わたしの作戦はこうである。
すぐにも敵の追撃がここまで及ぶだろうが、これとまともにやり合う気など毛頭無かった。
まず現在まとめた兵を十数の部隊に分けて、この先の街道沿いに潜ませる。
一部隊が囮となって街道を前進して引き付けて、小部隊がその追撃隊の伸び切った側面を随時奇襲する、というものだ。
不正規戦闘における遊撃戦――現代の言葉でいえば、ゲリラ戦術である。
「決して欲をかくな。こちらは小勢である以上、混乱に乗じて速やかに退かなければ殲滅されるぞ。こちらは間断なく奇襲を仕掛けて、相手の戦意を奪うのが目的だ。……ちなみに囮の部隊は信春にやってもらうつもりだが、異存は?」
「ない!」
いい返事である。
「さて部隊編成や兵の展開は昌幸に任せろ。……わたしのやった宿題は、ちゃんとやっておいただろうな?」
昌幸がここにいた最大の理由が、それである。
事前にこうなるであろうことを告げて、敵が追ってきた際の遊撃隊の総指揮をさせるためだった。
恐らくこの男は、こういう細かい戦術が得意なはずである。
そう見込んでの、人選だった。
決してわたしがやるのが面倒くさいから、というわけじゃないぞ。
わたしはどちらかといえば単に暴れたかったから――まあ、適材適所、というやつである。
「時間が無い上に、どの程度の兵が使えるかもわからぬ状況で、さあやれと言われても素直に頷けぬところであるが……」
「愚痴など聞きたくもない。とっととやれ!」
わたしの横暴さ加減に、昌幸も呆れたように苦笑いをしてみせた。
それを見て、こいつやる気だ、と分かってしまうのだから、昌幸もなかなかのものである。
「まったく……考えているのかいないのか、わからぬ姫であるな。まあ良い。みなの衆! ここでただ退くだけでは武田の名折れぞ! ささやかながらも意趣返しをしてやろうではないか!」
昌幸の言葉に、生き残った将兵は疲れた顔ながらも生気が戻ったように、応! と答えた。
少しではあるが、士気も戻ったようだ。
ここまでお膳立てをしたのだし、後の戦術のことは昌幸らに任せて、こっちはこっちで好きなようにやらせてもらおう。
「雪葉、乙葉」
わたしがその名を呼ぶと、即座に二人が駆け付けて膝を折った。
「まだまだ暴れ足らないだろう? いいぞ。好きなだけ殺せ」
その言葉に。
雪葉は氷のような瞳になって。
乙葉は嬉々として。
頷いたのである。
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天正三年五月に行われた長篠合戦は、その決戦においては武田方の大敗となったことは、疑いようのない事実である。
討死した主な武将だけでも、原昌胤、原盛胤、真田信綱、土屋昌続などその他大勢に及び、武田方が被った人的被害は少なくない。
また兵の損害も五千近くに及んだという。
一方で織田・徳川連合軍も無傷だったわけではない。
まず長篠城が陥落したことで、奥平貞昌以下、五百の兵が全滅。
また酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲部隊四千も逆に奇襲と罠にかかり、壊滅。酒井忠次以下、酒井家次、奥平定能、菅沼定盈、松平伊忠など他にも複数の徳川家臣が討死し、信長よりつけられた織田家臣・金森長近、佐藤秀方らが戦死している。
兵の損害も甚大で、三千以上に及んだ。
さらに追撃戦の最中に武田の伏兵に遭い、主だった将こそ討死は無かったものの、各地で奇襲を受けて二千近くの損害を被ったという。
特に長篠の戦いで最前線で奮戦した徳川勢は、率先して追撃を行ったため伏兵の被害が最も多く、奇襲隊の壊滅と合わせると四千近くの将兵を失い、また酒井忠次を失ったことは家康にとって大きな痛手であり、徳川勢もまた甚大な被害を受けたと言っていい。
このため家康は形の上では勝利したものの、その被害の大きさから即座に武田反攻作戦を実行できず、織田勢も武田勢が余力を残したことを警戒して、いったん岐阜へと引き揚げることになったのだった。
「武田勝頼、侮り難し」
岐阜に引き揚げる際、信長が家康に残した言葉である。
敗れたとはいえ、武田の名声は保たれたのだった。
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