第31話 天正銭
◇
奥平定能とは、奥三河の亀山城を本拠とした国衆である。
奥平氏は駿河国と遠江国の二ヶ国を収めた戦国大名であった今川氏に仕えていたが、永禄三年にいわゆる桶狭間の戦いが勃発し、今川家当主であった今川義元は討死。
今川領国は一気に不安定となったものの、定能はしばらくの間、今川に臣従したままこれに従ったという。
しかしそれも永禄七年になり、衰退する今川氏よりついに離反。
徳川家康に属することになる。
定能は家康に従って一軍を率い、織田・徳川連合軍が朝倉・浅井連合軍と激突した姉川の戦いにも参加するなど、各地を転戦した。
しかし永禄十一年になると、甲斐国の武田信玄が駿河に侵攻を開始。
この頃から定能は武田方と接触を持つようになったという。
そして元亀元年には徳川を離れ、武田氏に従属。
元亀四年には武田信玄による三河侵攻が開始され、定能はこれに従っていた。
徳川勢に対し、快進撃を続ける武田勢であったものの、同四月に突如として進軍が中止される。
信玄が死去したのである。
しかしこのことは秘匿とされ、周囲に洩れることは無かった。が、それを不審に思う者は少なからずいたのである。
「これはいかなることか」
定能も不審を抱いた一人だった。
武田勢による三河侵攻は中止となり、撤退。
定能は信玄の死を疑うようになる。
一方この撤退を受けた徳川方は、この機を逃すなとばかりに長篠城へと侵攻し、これを攻略。
長篠城は三河設楽郡長篠に構築された城で、寒狭川と大野川が合流する地点に突き出した断崖絶壁上にあった天然の要害であり、菅沼正貞が城主としてあった。
武田方は急遽長篠城の救援を派遣し、その一軍の中に定能の姿もあったのであるが、援軍到着は間に合わず、城主の菅沼正貞は降伏。城を明け渡すことになる。
菅沼正貞自身は無事だったこともあってか、武田方に徳川への内通を疑われ、拘束。
そしてその疑惑は、定能にまで飛び火することとなったのだった。
しかしこの疑惑は事実であり、定能は密かに徳川方と繋がっていたのである。
その場は辛くも疑惑をかわしたものの、人質を要求されるなど定能の立場は徐々に悪化していく。
そんな定能へと、徳川方からの調略の勢いは増し、ついには家康の長女である亀姫を、定能の嫡男・貞昌に与える破格の条件が提示され、定能は決断することになる。
この頃には定能も秘匿されていた信玄の死を確信しており、その事実を徳川へ伝える一方で帰参の意思を示す。
そして改元後の天正元年八月には、居城であった亀山城を退去し、武田から離反。
この時人質としてあった、定能の次男ら三名は処刑されている。
この頃に奥平家の家督を定能より継いだのが、嫡男の貞昌であった。
その貞昌ら奥平氏は、家康より長篠城を与えられ、その城主となる。
そこは図らずも徳川方の武田最前線の拠点であった。
家康はこの長篠城を重要拠点と位置付けて改修し、その防御力を高めた上で貞昌に任せたのである。
これらの動きに激怒したのが、信玄の跡を継ぎ、武田家当主となった武田勝頼であった。
この因縁はやがて天正三年に至り、武田方の大侵攻を招くこととなるのである。
/色葉
天正三年三月。
雪解けも進んだ頃、一乗谷は活気に満ちていた。
いや、まあ……骸どもがあちこちで一生懸命働いている姿を活気があるといえるのならば、そんな感じである。
これまで一乗谷にはやたら大きいわたしの館と、その他少数の城持ち家臣の別宅がある程度であったのだけど、谷の一角には製錬施設が構築されつつあり、また同時に大掛かりな造幣所も作られつつあった。
わたしの案に従い、昨年の十一月頃からすぐにとりかかっていたので、すでに一部、試験的に稼働しているところもある。
製錬施設は一乗谷だけでなく、運搬の効率化もあって、大野郡にある鉱山の近くに元々作られていたが、これを大幅に拡張して、生産効率を上げてもいる。
一乗谷に設けた製錬施設は、新たに銅などの金属を取り出すためというよりは、改鋳を目的にしたもので、中には試験的に反射炉まで作らせていた。
この反射炉という技術は、はっきり言って十六世紀の日ノ本には存在しない技術である。
史実ではこれが日本で製造されるようになるには、江戸時代後期まで待たなくてはならない。
しかしそんなことは知ったことではないので、今の技術でも再現可能と思えるものに関しては、製作に当たらせていたのである。
また造幣所には以前から鍛冶師に作らせていたスクリュープレス機が、何度かの試作を経て、完成に至っていた。
スクリュープレス機とは、いわゆるネジを用いて往復運動を作り出し、金属などの被加工材を金型の間に挟み込んだ上で、強い力を伴った上下運動により被加工材を金型表面に押し付けることにより、金型と同じ形状を作りだす機械のことである。
このスクリュープレス機を作るにあたり、やはり難儀したのはネジの製造である。
何せこのネジという概念が、日ノ本にはつい最近まで存在しなかったからだ。
このネジというものが伝来するのは、種子島と呼ばれるいわゆる鉄砲伝来を待たなければならない。
鉄砲の伝来により、その模倣をするに当たって難儀したのがネジの存在だったのである。
銃身の後ろ側を塞ぐ尾栓にはネジが使用されており、外側から見ただけではそれを再現することができず、幾度も鉄砲の製造に失敗したという。
その技術は鉄砲の普及からみても分かるようにすでに知られているとはいえ、難しい技術であったことには違いないのである。
ともあれ散々試行錯誤した結果、どうにか完成をみたのだった。
そして今、それらで製造された新たな硬貨の試作品が、わたしの前に届けられているという次第である。
「うん……思ったよりいい出来じゃないか。表面も鮮明だしな」
「ははっ。ありがたき幸せにて」
広間の隅で頭を深く下げるのは、国友六左という名の鍛冶屋である。
昨年のうちに、越前国の大商人の伝手を使ってわたしがこの一乗谷に招いていた者であり、元は近江国の国友衆の一人だった人物だ。
国友は鉄砲の一大産地であり、優秀な鍛冶屋が多くいると聞いていたので、どうにかしてその技術をもった鍛冶屋を手に入れたかったのである。
六左は国友衆の中ではまだ三十代と若く無名ではあったものの、その野心家ぶりを見抜いたうちの商人がうまく言いくるめて、この一乗谷で一旗揚げようと意気揚々としてやって来たのであるが、まあ初めて会った時の驚きっぷりには笑ってしまった。
主は尻尾の生えた小娘であるわたしであるし、また一乗谷には骸が多数闊歩するような地獄にも似た光景であったわけで、恐怖した六左は逃げ出そうとしたが当然そんなことを許すわたしでもない。
引き抜くにあたってわたしは破格の報酬を約束していたし、それを受けてここに来た以上、生きて戻れるなどと考える方がおかしいのである。
そういうわけで、最初はみっちり教育……もとい、仲良くなることを心掛けたのである。
六左は哀れ、俺は何かとんでもないものに魂を売ってしまった……とか何とかしばらくほざいていたが、わたしの無理難題を聞いているうちに職人魂に火がついたらしく、今では積極的にあれこれしてくれるようになったという次第だった。
ちなみにスクリュープレス機を完成させたのも、六左である。
六左が恭しく差し出した試作の貨幣は四種類。
銅貨が二種類と、銀貨、金貨の計四種類である。
「これが一文銭か。勿体ない出来だな」
まずに手に取ったのは、この中で最も額面の価値が低い貨幣である。
この時代に流通している貨幣――永楽通宝と呼ばれる明銭と同じ価値として設定した、新たな貨幣だ。
名称は天正通宝。
意匠は永楽通宝と変わらないが、鋳造のみで製造された永楽通宝と違い、いわゆるプレス加工――コインハンマーではなくスクリュープレス機を用いたものであるため、その精緻さは比べ物にならない出来である。
これでは良貨とされている従来の貨幣の方が、まるで鐚銭に見えてしまうくらいだ。
「……で、これが五文銭というわけか」
一文銭の隣に置かれていた、金色に似た黄色の光沢をもった硬貨を次に手にする。
名称は天正大宝。
表の意匠は天正通宝とほぼ同じであるが、まず色が違う。
同じ銅貨には違いないが、天正通宝は青銅製であり、これは黄銅製――いわゆる真鍮製だ。
また天正通宝の裏面は無地であるが、天正大宝の裏面には簡単な意匠と伍の文字が施されている。
これは一文銭ばかり作っていては効率が悪いことを見越して作らせたものであり、額面上で五倍の価値を持たせることで、実際の製造コストとの差額が利益となることも計算した上である。また少ない資源を活用する場合にも有効だ。
あと単純に一文銭だけでは実際に貨幣を用いる場合においても、かさばる、手間がかかるなど効率が悪い。
現代で例えるならば一円玉しか存在しないようなもので、それだけで買い物をしようとすると、かなり面倒なことが想像できるだろう。
そういった効率や、利益などを踏まえた上で作らせていたわけであるが、手本としたのは史実において江戸時代に作られることになる真鍮製の寛永通宝である。これは四文として通用し、それなりに人気もあったらしい。
そしてお次は銀貨である。
名は天正木瓜。
裏面に三盛木瓜の意匠が精緻に施されているのが特徴だ。
かなり細かい意匠であり、鋳造では恐らく潰れてしまって再現は不可能だろう。
この極印を作るのに彫刻師が四苦八苦したが、その甲斐はあった出来である。
ちなみにこの天正木瓜一枚で、五百文に相当。
そして最後に金貨。
名は朝倉木瓜。
四種類の硬貨の中ではもっとも精緻な意匠が施されており、やや大きい。
ちなみに銀貨と金貨の意匠に関しては、明治政府が発行した金貨や銀貨を参考にした。出来もまあ、そこまで引けを取らないだろう。
現代の価値に直すと、ざっくりとではあるが、一文銭が二十円、五文銭が百円、一銀銭が一万円、一金銭が十万円といった感じだろうか。
「どうだ? 橘屋。これが今回新たに発行しようと考えている貨幣だ」
「……なるほど。領国貨幣、というわけですな」
頷いたのは六左の隣に座る商人――橘屋三郎五郎である。
北ノ庄を本拠とする商人で、以前の朝倉氏も重用していた商人だったらしい。
商業や流通に関して詳しく、わたしも色々と助言をしてもらっている人物だった。
ちなみに六左を引き抜いてきたのも、橘屋の手腕である。
「しかもこれまでのものとは全く精度が違いますな……。見事なものとしか言いようがありますまい。しかしながら、これがまともに流通できるとしたならば、従来の貨幣はその価値を著しく失い、それを持つ民はいささか困ることになるかと存じますが」
「それは橘屋、お前もだろう?」
「よくお分かりで」
今現在銭を持つ者ほど、その価値が勝手に下がるのは困ることだろう。
撰銭令などが出される理由の一つでもある。
「それについては考えてある。流通させるにあたり、一定期間を設けて旧銭との交換を行う。当然新旧関係無く、一文は一文としてだ。越前国内に出回っている旧銭は極力回収して、改鋳にあてる。資源は無駄にできないからな」
「ふむ……。しかしこれまでこの日ノ本での貨幣の製造は行われなくなって久しいわけですが、生産体制の方がどうなのです? まずは越前国内に限るとしたとしても、相当な数を発行しなければなりますまい。改鋳するのならばある程度は確保できるとはいえ、新たな資源も必要かと思われますが」
「領内で銅や亜鉛、銀などは採掘できる。金も飛騨で採れるしな。ただそれだけを当てにしていては将来的に枯渇するのは目に見えているから、極力国外から手に入れる。銀に関しては毛利と、金に関しては武田と通商することで手に入れるつもりだ」
「ほう……。そういえば武田の領国では甲州金なる領国貨幣が流通していると聞き及んでおります。つまり、金が採れると」
「わたしもそう聞いている。甲斐などはこの越前などと比べて、非常に生産性の低い土地だ。豊かな領国とは言い難い。また海に面していないのも致命的だな」
とにかく甲斐国は非常に貧しい国といっていい。
もし金山などが無ければ、戦費の調達すらままならなかっただろう。
「銭はあっても物が無い。そして上杉や徳川、織田と周囲は敵だらけだ。北条との関係は微妙であるし、外への買い付けもままならないだろう」
「つまり姫は……まず武田と通商なさるとお考えで?」
「その準備をする。正直今の情勢では、武田と通商条約がなったとしても、陸路での交易ではかなり難儀することは目に見えている。効率は悪い。実際に力を入れるべきは、毛利との交易だろうな」
毛利とであれば、海路が使える利点がある。
越前にも三国湊や敦賀湊といった、日本海沿岸を代表する大きな湊が二つもあるわけで、これを利用しない手は無い。
「わたしは武田に同盟をもちかけるつもりでいる。これは軍事同盟であり、通商はまあ手土産のようなものだ。毛利とはそこまではまだ考えていないが、今の内に仲良くなっておいても損はないだろう。これらは国家間の取引になるが、それを橘屋、お前に任せたい」
「それは大役ですな……」
「仔細は担当を決めてこれから詰めることになるが、お前の意見もあれば取り上げよう。問題があれば直接わたしに言えばいい」
「ははっ。……しかしこれは、儲けの臭いが致しますな」
いかにも商人じみた、腹黒い笑みを浮かべる橘屋を見て、わたしも笑う。
「構わないから大いに儲けろ。ただし、税は取るがな」
「商いを盛んにして私どもを儲けさせれば、当然その支配者たる姫も儲かると、そういうことですな」
「わたしが気に入らないような不正さえしなければ、全面的にお前の手腕に任せていい。つまり問題は起こすなということだ」
「それはもう……お任せを。下手は打ちませぬゆえ」
「そう願うぞ」
橘屋は海千山千の商人であり、こちらが環境さえ整えてやればうまくやるだろう。
この時代、儲けの種はいくらでも転がっているのだから。
「少し話が逸れたが、貨幣の製造に関しては最優先で進める。何といっても今後の通商の肝になるからな。しばらくは様子を見てくれ」
「かしこまりました」
わたしはこの国を支配するにあたって、国の経済を発展させることで軍事力の増強を促す政策――富国強兵策を進めるつもりでいる。
そのためにはまず経済力をつけなくては話にならない。
ありていに言えば、銭である。
新たな貨幣の発行や、現在進めている検地や税制改革、新たな交易、その他諸々と、これまでとは一新した政策をどんどん推し進めているのだ。
わたしがあまりに新しいことを色々と推し進めるので、家臣どもはついてくるのがやっと、という体たらくではあるものの、這ってでもついてきてもらうつもりでいる。
そうでなくては織田家に対抗しようなど、夢のまた夢だろう。
そしてとにかく今は時間が無い。
武田家との同盟を模索しているわたしにとっての最大の難関が、今目前に差し迫りつつあったからだ。
それはつまり、武田家と織田家の戦端が、まさに開かれようとしていたためである。
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