第32話 甲斐へ
◇
元亀四年四月に武田信玄は遠征の最中、死去したが、その死は隠されていた。
表向きは隠居したことにして、その家督を信玄の子である武田勝頼が継承する。
この武田勝頼という人物は信玄の庶子として生まれ、母方の実家である諏訪家を継いで、諏訪勝頼と名乗っていた。
ところが永禄八年、異母兄であり信玄の嫡男であった武田義信が、信玄暗殺を企む謀反に関わったとして廃嫡。この時、次男の竜宝は盲目のため出家しており、また三男であった信之は夭折していたこともあって、庶子ではあったものの勝頼が後継者と定められ、信玄の死と共に家督を継承することになったのである。
父・信玄の死は、それまで敵対していた徳川や織田を勢いづかせ、これまでの守勢から攻勢に転換するようになっていた。
奥平定能・貞昌親子への調略などが、良い例である。
しかし勝頼も指をくわえて眺めていたわけではなく、勢力拡大を目指して外征を開始。
天正二年二月には、東美濃に侵攻。
織田領へと侵入し、美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を攻撃し、これを落城に至らしめた。
そして同年六月には、遠江国城東郡土方の高天神城を攻略。
この高天神城はかつて信玄が大軍を率いて包囲したものの、落とすことが叶わなかった城である。
それを勝頼が陥落させたことで、武田方の士気は大いに上がった。
このように勝頼は、父・信玄譲りの軍略でもって、各地で戦果を上げつつあったのである。
そして翌天正三年。
春になり、勝頼は新たな攻略の矛先を長篠城へと向けていた。
この城には武田を裏切り、徳川へと走った奥平定能・貞昌親子が籠っていたのである。
◇
「またご出陣でございますか」
「そのようだ。このたびは三河と聞いている」
武藤昌幸は妻である山手へと、重々しく頷いた。
武藤家は武田信玄の母の実家である大井氏の支族であり、いわば武田一門の一族である。
その当主であった昌幸のどこか浮かない顔に、山手は訝しげに首を傾げてみせた。
「如何なされたのです? またも武功をあげる機会ではありませんか」
「そうなのだが……。どうも、な」
「何かご不安なことでも?」
「あると言えば、ある」
多少歯切れ悪く、昌幸はそれを認めた。
「どうも殿は気が急いておられるような気がしてな……」
「されど御館様はとても戦がお上手と窺っておりますよ?」
「そうだ。戦えば勝つ。お父君を継ぐに相応しい方であろう。されどその信玄公であっても、負け戦はあった。勝敗は兵家の常。負けることもある。しかし信玄公は負ける時は徹底的に惨敗される方でな。常勝の方であったがゆえに、うまく負けることがお下手であったのだろう。そのような所まで似ておられるのではないか、とふと不安になってしまっていたわけだが……」
「それをお支えするのが殿のお役目ではありませんか」
「それも然り、だな」
この度の戦にあたり、昌幸は主君である武田勝頼の旗本衆として参陣することとなっている。
妻の言うように、身近にあって支えることは可能だろう。
「ただ問題は他にもある」
「……と仰いますと?」
「民のことだ。勝ち戦であったとしても、戦は民に負担を強いる。ただでさえ、甲斐は貧しい国なのだ。こう度重なる戦では……な」
昌幸は主君であった信玄のことを尊敬していたが、しかしその信玄の統治であっても、民の受けが必ずしも良かったわけではない。むしろ、悪かったと言った方がいいだろう。
武田軍は精強を誇り、他国に負けない軍備を誇ってはいたものの、それを維持するための国力が圧倒的に足りなかったのだ。
そのため信玄は内政に苦心し、時を失ったともいえる。
そしてそれでも足りず、重税を課し、民の怨嗟を招いていた。
そのことが昌幸は気がかりだったのである。
「とはいえこのまま籠ってばかりでは進退窮まることも、また事実。領土を拡大し、肥沃な土地を手に入れることは絶対に必要だ。しかるのちに、内政を充実させねばなるまいが……。それまでは勝ち続けねばならん」
それが難しいことは昌幸にも分かってはいた。
進むも地獄、退くも地獄。
今の武田家を取り巻く情勢の難しさが、そこにはあった。
「ともあれいったん出陣の用意のために、領地へと戻る。子等のことを頼むぞ」
「かしこまりました。お早く、お戻りを」
「そうしたいものだな」
昌幸は頷き、翌日には兵を集めるために自らの居城へと戻っていった。
彼の妻子は武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館の城下に、人質として留め置かれている。
この時代ではよくあることだ。
その道中で、昌幸は思わぬ人物に出会うことになる。
/色葉
天正三年四月。
完全に雪解けしたのを見計らったわたしは、一乗谷を発っていた。
向かう先は武田領甲斐である。
一向一揆平定から半年ほど経過し、国内は安定しつつあった。
今のところ不穏な動きも無く、加賀の方の動向も安定している。
そのため国内のことは景鏡に任せて、わたしはかねてからの懸案であった武田との通商と同盟のために、自ら赴くことにしたのである。
一国の主自ら云々と家臣どもからは反対されたが、そんなことは知ったことではない。
強権で黙らせて、従わせた。
そもそも表向きの国主は景鏡なのだから、問題無いと思うのだが。
ともあれわたしが発ったことは秘密となっており、他国の間諜どもには知られていないはずである。
ちなみに供の者は三名。
一人は道案内として貞宗。武田家臣であったわけであるから、これに勝る者はいないだろう。
もう一人は雪葉。
当初は置いていくつもりだったのだが、絶対について行くと言ってきかないばかりか、同行させてくれないのなら雪と氷で一乗谷を埋めてやると脅される始末で……仕方なく許した次第である。
それにしてもあの雪ん子、怒らすととんでもなく怖い。
一見優しくて面倒見がよく、わたしと違って良識的なのだけど、何というか……危ういのだ。
教育したのがアカシアなものだから、どうもその犯罪的思考が根っこにあるようで、時々怖いことをさらっと言う。
わたしのために苦言や諫言を厭わずにしてくれる一方で、わたしのためならばどんな汚れたことでもしかねない雰囲気があるのだ。
忠誠なのだろうけど、重いというか何というか……。
そしてもう一人は山崎景成。
今わたしは家臣である富田景政に弟子入りして、富田流なる剣術を習い始めている。
景成はその門下生の一人で、いわゆる兄妹弟子というやつだ。
ちなみに景成は十代後半といった年齢で、見た目の上ではわたしと似たような年齢である。
甲斐に行くことを話したら、是非同行したいと願い出てきたので許したのだ。
まだ若いが非常に腕が立つので護衛にもなるだろうし、見聞を広める意味でも悪くないだろう。
ちなみにこの富田流なる剣術は、重政の兄である富田勢源が創始したもので、主に小太刀術を扱うことに長けた流派である。
とはいえ小太刀に限らず、太刀、大太刀、槍、薙刀、棒術、さらには柔術まで扱う実践的な剣術だ。
わたしが習い始めてさほど時間はたっていないものの、学ぶと学ばないでは戦力に大きく差が出るであろうことは、容易に想像できている。
ともあれわたしはこの三人を連れて、まずは飛騨の白川郷を目指していた。
しかしその道中、立ち寄らねばならない場所があったのである。
「これは姫、お出迎えが遅くなり申し訳ございません」
越前と加賀を隔てる谷峠を越えて加賀白峰に至ったところで、尾上氏綱の出迎えを受けた。
氏綱には二曲城を与えて白峰一帯の統治させている。
ここは飛騨白川郷と越前を結ぶ重要な拠点であり、わたしが睨んだ通り氏綱はそこそこ有能なようで、無難にこの地を治めているようだった。
とはいえここは一向一揆の盛んな土地であり、それに対抗する軍事力となるのが、鳥越城を与えた真柄隆基とその骸の兵どものはずだったのだが。
「ご苦労。それで文にも書いたが、隆基は?」
「……それについては鳥越城に入ってからに致しましょう。その方が……話が早いので。恐らく」
「……? ああ、構わないが」
氏綱の物言いに少し引っかかったものの、わたしはすぐに頷いてみせた。
氏綱も貞宗のことは当然知っているが、雪葉や景成とは初対面である。
軽く紹介しつつ、先へと進む。
その時の雪葉の顔色がやや優れないように見えたことで、彼女が強行に同行を求めた理由が何となく察せられた。
もちろんその理由はわたしが一番であろうが、それに付随してどうしても隆基の安否を確かめたかったのだろう。
話によれば、雪葉が一乗谷に来るにあたってその身を挺して先を進ませたのが、隆基だったからだ。
「あの、姫様……? 隆基様は如何なるのでしょうか」
やや躊躇いがちに、そんなことを尋ねてくる。
「わたしがいる限り、基本的に滅びることは無いと思うけど。ただ、そういう手段があった場合はわからないな」
隆基は亡者であり、わたしが滅びれば運命を共にすることになるが、逆に健在であればそう簡単には滅びないはずである。
もっともあの信濃巫が何かつまらないことをしていたりすると、その限りではないのかもしれないが。
「そう、ですか……」
少しだけしゅん、となる雪葉。
相当心配しているらしい。
そうこうしているうちに鳥越城に到着し、氏綱は「開門!」と大声を上げた。
当然のように開く城門。
ここの骸兵は全滅したと聞いているが、恐らく白川郷衆が入って守備を担っていたのだろう。
と思っていたら、城内から足早に出てきたのは複数の骸骨だった。
数十体が城門に至る道の横に整然と整列。
そして遅れて一体の屈強な鎧武者と、一人の小柄な人物が進み出て、わたしの前で膝を折ったのだった。
「このような所まで足をお運びいただき、恐悦至極にございます」
そんな挨拶をした骸を見て、わたしはきょとんとなった。
「お前……やられたんじゃなかったのか?」
「隆基様!」
わたしの疑問などそっちのけで隆基に飛びついたのは、雪葉だ。
隆基の前にしゃがみ込み、今にも泣きだしそうな勢いで嬉しそうに抱き着いていた。
「う……」
何か思い出したようで、わたしの傍に控えていた景成が顔をしかめる。
……雪葉って、誰かれ構わず抱き着くの好きだよな。
出発の時に色々生意気を言っていた景成に抱き着いて、教育的指導をあれやこれやと施していたこともあったし。
道場では弟弟子にあたるわたしに対してもかなり生意気な態度であったのだけど、それがお気に召さなかった雪葉によって、何やら調教されてしまったようで、もはや借りてきた猫状態である。
おかげで旅の道中はずっと静かだったのだけど……。
まあ、それはいい。
問題は隆基である。
「雪葉、下がれ。邪魔だぞ」
「はい……申し訳ありません」
しずしずとわたしの後ろにさがる雪葉ではあるが、抱き着かれた隆基の方も何がなんやら、という顔になっていた。
髑髏なので表情など無いとはいえ、そんな雰囲気である。
「この身の心配をしていただき、恐縮です。されど色葉様より預けられたこの城を失陥した罪は大なれば、いかような処分を受ける覚悟であります!」
仰々しい奴である。
直隆もそうだが、まったく真柄の一族というのは典型的な武人なようだ。
「失陥って、ちゃんとお前たちが維持しているようだし、そもそも兵も損なっていないように見えるし。それに隣にいるのは誰だ?」
隆基の隣で跪いている若い女へと視線を移して、わたしは小首を傾げた。
巫女姿をしているが……。
「は……。この方は鳥越城に派遣された城代でございます。我々の仮初の主となっておられます」
「は? 何だそれは」
「――お初にお目にかかります。朝倉様」
ここで女が初めて顔を上げた。
若いと思っていたけど、幼い。
わたしよりも年下に見える容貌だ。十代半ばといったところだろうか。
「妾は乙葉と申す巫狐であります。朝倉様が参られるまでの間、この城を預かるよう、命を受けておりました」
「……お前、ひとじゃないな?」
目を細めてわたしは確認する。
隠しているようではあるが、僅かに妖気が漏れ出ていた。
いや……わざとか?
故意に妖気を滲み出させて、わたしがそれに気づくか見ていた、というところだろうな、これは。
「姿を現せ」
「――では」
その瞬間、乙葉とやらの姿が掻き消えた。
ふわっと、着ていた衣服が地面へと落ちる。
「え――あ、これは……?」
驚いたような声を上げたのは、景成だ。
その隣にいる貞宗も、やや目を丸くしている。
……まあ、わたしも驚いたけど。
「これでよろしいでしょうか」
ひとの姿が崩れ、現れたのは狐だったのである。
しかもかなり大きく、特徴的なのは尻尾が三つあることだ。
妖気もかなりのものである。
「狐がひとに化けていた……というわけか。何なんだ、お前は?」
「これは異なことを……。朝倉様と同じ、狐の妖でございます。生まれて未だ四百年程度のため、尻尾は四本……いえ、三本しかなく……とても朝倉様と同列に扱うことには憚りありますが」
「尻尾?」
わたしの尻尾は一本である。
狐の妖怪の類、ということは分かるけど、尻尾の数が多いのはどういうことなのだろうか。
『目の前の妖は妖狐であると推察します。その妖力が高まるにつれ、尻尾の数が増えていくといわれているようです。最大で九尾の狐が伝承に残っています』
九尾って。
それだけあると邪魔だろうな……。
というかわたしの尻尾も今後増えたりするのだろうか。
『主様の尻尾は自然に増えることは無いと思われます。もちろんお望みとあれば、そのように努力してみますが』
いや、しなくていいし。
「ふうん。しかし……何がなんだかわからないな。氏綱、どういうことだ?」
「それがよくわからぬと申しますか……」
わたしに聞かれて、氏綱は困ったような顔になった。
どうやら正確には把握していないのかもしれない。
それでとりあえずここまで連れてきた、ということか。
「まあ情報伝達も雪のせいで滞っていたしな。いいだろう。今日はここで休む。隆基、氏綱、それに……乙葉とか言ったか。後で仔細を話せ」
「はっ」
三人三様で頷いたのを確認して、わたしは城門を潜ったのだった。
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