朝倉継承編
第1話 悪魔、それとも死神か
◆朝倉継承編 登場人物紹介◆
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・アカシア:京介が謎の少女にもらった本。その本に宿った人格。「京介」を「色葉」に作り変えた張本人。
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・クリストヴァン・メネセス:ポルトガルの宣教師。死人遣い。鬼女伝説の紅葉の復活を目論み、色葉を召喚した人物。
・エルネスト・ガレアーノ:クリストヴァンを追ってきた宣教師。
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----------これより本編です----------
/京介
その日珍しく、滅多に鳴らない電話が鳴った。
聞こえてきたのは司書室で、一応俺の仕事部屋である。
室、といっても図書室に隣接して設けられた小さなもので、だというのに雑然としていてどことなく埃っぽい臭いの漂う陰気な場所だ。
俺がこの学校に赴任してきてから三ヵ月。頑張って整理している途中ではあるが、未だに片付いていないのである。
そんなわけで作業するには向いていない司書室ではなく、隣の図書室で目録の整理をしていた俺は、慌てて電話の鳴る司書室へと向かった。
「はい、日下部ですが」
電話の相手はこの学校の事務員であり、外線だとのこと。
どうやら俺に用事、というわけではなくて、俺が管理している図書に用があるひとからのものだと言う。
「わかりました。繋いで下さい」
そう答えれば、受話器の置く音と共に、内線から外線へと切り替わった。
電話の相手は男性で、若い声だ。
二十代前半くらいで、俺とあまり変わらない年頃だろう。
まあ声だけでは何となく程度にしか分からないけど。
電話の内容は、とある本がこの学校の図書室にあるのかを問い合わせるものだった。
「いろはかがみ、ですか? すみません、私は聞いたことはありませんが……」
もう少し詳しく内容を求めると、どうも歴史書の類らしい。
漢字で表記すると、色紙の色に、葉っぱの葉、そして鏡と書いて、『色葉鏡』と書くのだとか。
歴史は専門、というわけではないので詳しくはないが、歴史書でパッと浮かぶのはいわゆる四鏡だろう。
鏡物、と呼ばれる歴史書のことで、『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』などが挙げられる。他にも有名なものといえば、『吾妻鏡』あたりだろうか。
でも『色葉鏡』というものは聞いたことが無かった。
「いえ、お時間をいただければ探してみます。古文書の類ならかなり蔵書があるようなので」
どうせ時間ならある。
やや皮肉げに思いながら、俺は請け負うことにした。
それにこういう電話は初めてではなかったからだ。
「わかりました。もし見つかりましたらご連絡させていただきます。失礼ですが、お名前とご連絡先を教えていただけますか」
電話の主は、最初に名前を名乗ってくれていたが、確認のために改めてそう尋ね、机の上にあった書類を裏返し、メモ紙代わりに使用する。
「ああ、あそこの所長さんでしたか」
意外なことに、電話の主は知っている相手だった。
知人というのには語弊があるし、面識があるわけでもない。
ただ電話主はこの辺りではちょっと有名な、興信所の所長と名乗る人物だったのである。
何でも屋として名を馳せており、俺がこのド田舎に赴任してきた際に、何か困ったことがあればあそこを訪ねればいい、と先輩教師に言われていたくらいだった。
となると、何かの依頼でも受けて、その『色葉鏡』という本を探している、といったところだろう。
ちなみの俺の勤めるこの小学校の図書室は、この地域では一番の蔵書を誇っていたりする。
そもそもにして図書館がこの地域に無く、中学校や高校よりも歴史の古い経緯もあってか、とりあえず地域で見つかった古文書の類はこの図書室へと放り込まれていったらしい。
そのため未整理の古文書が山のようにあったりする。
以前は村役場の教育委員会から職員が派遣されていたこともあったらしいが、ここ十数年は放置されている有様だ。
そんな図書室に俺が赴任してきたのが、三ヵ月くらい前のことである。
「……ま、暇だしな」
受話器を置いた俺は、自嘲気味につぶやいた。
昨年の春に念願の教師となった俺――日下部京介は、意気揚々と新担任として教育の現場へと入った。
ところが悪魔のような児童やその親の洗礼を受けたことで、クラスは学級崩壊寸前までいってしまい、俺は副担任にされた挙句に一年で転勤。
この北信の山奥の田舎へと飛ばされて、本好きだった俺が大学時代についでに取得した図書館司書の資格に目をつけられたのか何なのか、この小学校の図書室勤務を言い渡されたのである。
この学校でも副担任、という位置づけにはなっているものの名ばかりで、担任教師に比べれば極端に仕事量は少なく、時間もあるため、日々をこれまで放置され続けていた図書室の整理に勤しむことになっていたのだった。
それから一週間。
この学校では用務員がおらず、教員が交代で宿直をすることになっている。
昔の学校ならともかくこの現代でもこんな決まりが残っているのも何だかな、と思わないでもなかったが、まあ決まりは決まりだし、どうせ帰っても一人である。さほど変わらないと思い、それほど苦にもなっていなかった。
ついでに言えば、図書室で好きなだけ読書に耽れるのもありがたい。
そういうわけで今日はその宿直の当番だった。
校内が静まり返る中、俺は一人図書室で黙々と例の古文書の探索にあたっていたのである。
まあ整理ついでに、といった程度ではあったものの。
どうせ見つからないと思っていたので、さほど真面目にしていたわけでもなかった。
だというに、だ。
「あ」
思わず手が止まる。
未整理の状態で棚にでたらめに突っ込んであった古文書の中に、それはあった。
表紙はかなりかすれているものの、~葉鏡、と見え、よくよく観察すれば『色葉鏡』と読めなくもない。
かなり年代が経っているせいか、良好な状態とは言い難いものの、中身は……読めなくもない。
もっとも俺にはミミズが走っているようにしか見えず、同じ日本語であろうにさっぱりではあったが。
「これ……なのか?」
「そう。見つけたの」
声は突然だった。
びくりとして振り返る。
あろうことかそこには人がいた。
図書室の中――机の上に座って俺を眺めている少女。
金髪に赤い瞳といった容貌で、とても日本人には見えない容姿。
相当な美人だったが、それを堪能する余裕などはなく、むしろ得も言われぬ恐怖の方が勝っていた。
「な、何だ君は? どこから――」
こつり、と音を立てて少女は机から降りると、俺の疑問など気にした風も無く歩み寄ってくる。
人間……だよな?
思わずそう思い、身構えてしまう。
後ずさらなかったのは、単に後ろが本棚で退路が無かっただけの話だ。
やばい。
本能でそう感じとる。
この少女は危険だ。
こんな時間にこんな場所にいること以上に、もっと別な――……。
「見つけたんでしょ?」
俺の反応に小首を傾げ、確認するように少女が尋ねてくる。
「この本のことか……? でもこれは」
「真斗に頼まれたはず。一週間前に」
その名前に一瞬誰のことかと思ったが、一週間前という言葉で思い出すことができた。
この本を探すことを依頼してきた人物。
あの興信所の所長の名前だ。
「その真斗に頼んだのはわたし」
なるほど。
いや、なるほどじゃないな……何なんだこれは。
意味が分からず、俺は顔をしかめる。
「つまり、あそこの興信所に依頼した依頼主本人がわざわざここまで来た、ってことなのか?」
「そう」
「…………」
やっぱりよくわからん。
「大丈夫。別に貴方が困るような入り方はしていないから」
そうなのだ。
すでに校門は閉まっているし、校舎の入口にも鍵がかけられている。
何しろ俺が小一時間前に回って確認してきたばかりなのだ。漏れがあるはずもない。
だとしたらどうやって入ってきたのだろうか。
不信は不安になり、やはりこの少女に対する警戒心が膨れ上がる。
非現実的だとは思うが、幽霊などという言葉も頭を過ぎってしまう。
「見せて」
更に歩み寄ってきた少女に詰め寄られた俺は、もはや金縛りにあったようなものだった。
言われるがままに、持っていた本を手渡すしかなく、それをするだけで背中は汗が滝のように流れ落ちていく。
「ありがとう」
受け取った少女は律儀に礼を言い、数歩下がって先ほど見た時のように、無遠慮に机の上に腰かけてしまう。
そのまま黙ってしまうと、その本を読み始めた。
ここで読むのかよ、と思ったが口にはできず、しかし少女は読むというよりは流し読みのような速さで、ページをペラペラと捲り、あっという間に本を閉じてしまった。
「うん、間違いない」
どうやら軽く中身を確認しただけのようだったが……。
その瞬間、少女は驚くべきことをした。
本を軽く掲げたと思った途端、一瞬で本が炎に包まれ、跡形もなく消えてしまったのである。
「ばっ……何を!?」
こればかりは恐怖よりも怒りの方が勝った。
こんな場所で火を使うなど言語道断だ。
何よりいきなり本を燃やすなんでことを……!?
「これはこの世界の異物。あってはならないもの」
表情も変えず、少女は言う。
「だから処分して回っているの。ここにあることは分かっていたから、建物ごと燃やしてしまえば簡単だったんだけれど」
「は……?」
何やら物騒なことを言う。
燃やす、だって……?
「みんなに反対されたし、わたしも関係の無い本を燃やすのは嫌だったから。だから勝手に入って探しても良かったんだけど、ここは貴方が支配する領域。侵犯するのは同じ本好きとしては、失礼かなとも思ったから、真斗に頼んで管理人である貴方自身に探してもらったの」
分かるような分からないことを言ってくる。
というかやはり訳がわからない。
「ちょっと待て……! 君はいったい何なんだ? そもそも目的は何だ?」
「それはもう言った。あとはお詫びとお礼をするだけ」
俺の話など少しも聞いていないようで、少女は自分の要件だけを告げてくる。
偉そうな雰囲気は全く無い一方で、超然としている様子から、少なくとも俺のことを同じ目線で見ていないことだけは理解できた。
同時に下手な対応をすれば、自分もあの本と同じ目に遭うのではないかという危惧も。
「貴方の本を燃やしたことは謝る。そして依頼通り本を探してくれたことにはお礼を」
そう言って少女は再び床に降り立つと、長いスカートの裾を掴み、頭を下げて一礼してみせた。
それだけで絵になるような仕草に、ぽかんとなる。
ますます事態が呑み込めない。
「誰かに謝ったことなんてほとんど無いから、うまくできたかどうかは分からないけど」
頭を上げた少女は、何やら凄いことをのたまったが、まあここは突っ込まないほうが無難だろう。
「それで、お礼だけど。望みはある?」
「はい……?」
話の展開についていけず、頭が混乱気味だったがどうにか声は出た。
「無いの? でも一週間貴方を観察していた限り、何か不満そうに見えた。だから何かしら望むものがあるんじゃないかと思ったのだけど」
一週間って。
この女、またまたとんでもないことをさらっと発言してくれたようだ。
「おい……。まさかずっと俺のことを監視していたのか?」
「眺めていただけ」
どうやらストーカーされていたらしい。
全然気づかなかったよ……。
「貴方がちゃんと探してくれないようなら、わたしの好きにするつもりだった。でも、貴方はちゃんと探してくれたし、見る限り本を大切に扱っていたから」
これまたよくわからんけど、勝手に好感度も上がっていたらしい。
ていうかちゃんと探してなかったら、ヤバかったのかも。
そんなに真面目に探していたわけじゃないからなあ……。
「だから、お礼」
「そう言われてもね……」
しかしこの女、さっき不満がどうのと言っていたな。
まあ――わからないでもない。
何せ自分ことだ。
確かに日常的に不満はあった。
本は好きだし、ある意味で本に囲まれた生活は天職なのかもしれない。
けれど本当に望んだのは教師という職だ。
もちろん夢は叶い、そしてもろくも破れ去った。
原因はまあ、自分自身だろう。
初めてのことで緊張し過ぎていたのかもしれない。
児童に対し、神経質になり過ぎたのかもしれない。
その結果甘い対応になり、付け込まれたのかもしれない。
世間でささやかれるモンスターペアレントに警戒し過ぎたのかもしれない。
何にせよ、自身が選択して行動した結果だ。
俺がここにいるのは。
「そうだな……一言でいうなら力、かな。俺が不満そうに見えたのは、自分の無力感を嘆いていたからだろうさ。そこまで思い詰めているつもりも無かったんだが、一人でいるとやっぱり見えてしまうんだな」
情けないな、と素直に思う。
「そう。力が欲しいの」
何を思ったのか、少女はおとがいに手を当てて何やら考え込む。
その時間は僅かだった。
「なら、これをあげる」
どうやったのかはわからない。
ただ気づくと少女の手に、しっかりとした装丁の黒い本が握られていた。
まるで手品のようなものを見せられ、そういやさっき本を燃やした火はどうやったのかと、今さらながらに思い出す。
「それは……?」
「お詫びとお礼を兼ねて。燃やした本の代わりにこの本をあげる。貴方はとても本好きのようだし、相応しいと思う。でもこれを力として扱うには貴方は存在として不適格。力が足りてないから。だから力もあげる。それでお詫びとお礼になると思う」
どこがお詫びとお礼になるのか知らないが、これぞ名案! とばかりに少女は告げてきた。
やや得意そうですらある。
「何か、凄い本なのか……?」
「うるさいけど、ためになると思う」
うるさい……?
「手を出して」
言うが早いか、少女は俺の右手を引っ掴み、その黒い本を持たせた。かなりの重量感だ。片手で持つにはかなり厳しい。
「おい、これ……?」
「大丈夫。これくらい、すぐに持てるような力持ちになれるから。……そのまま我慢して右手で持って。開け」
少女がつぶやくと、背表紙をもたされた本が勝手に開き始める。
「おいおいおい……?」
ますます気味が悪くなる。
が、少女を前に俺は為されるがままだった。
「まずは『アカシア』との契約が先。左手を本の上に出して」
開かれているページは何か書いてあるのかと思ったが、真っ白だった。
どうやら白紙の本らしいが……?
「こ、こうか?」
終始押されっぱなしではあったもの、どういうわけか逆らえない。
逆らった瞬間に色々終わってしまうような気がして、俺は理屈抜きで少女に従うことにした。
でないと自身の命の関わるような気がする。
もやは本能的な直感であるが、それを信じるしかなかった。
「我慢して」
もう一度そんなことを言われたと思った瞬間、手首に鋭い痛みが走った。
少女が爪を走らせて、俺の手首を切ったのだ。
「なっ!?」
反射的に手を引っ込めようとしたが、できなかった。
少女にがっつりと本を持つ右手、かざした左手共に掴まれおり、嘘のように動かない。
とても少女の細腕の為せる力ではなかった。
「つ……っ」
かなり深く切られたせいか、痛みがかなりある。
ついでに出血もだ。
ぼたぼたと血が滴り落ちて、真っ白なページを赤く染めていく。
「貴方は弱いから、わたしに釣り合うだけのものを得るには相応の血が必要になる。ここでやめてもアカシアとの契約はなされるけど、得られる力は僅か。どうする? それなりの力が欲しければ、貴方が流す血は多ければ多いほどがいいのだけど」
「何を言ってるんだかって感じだが……別に俺を殺す気は無いんだろ?」
そうなのだ。
俺が本能的に感じていたのはまさに死だ。
この少女に下手な対応をすると、殺される。
直感がそう告げていた。
でも少女の望むようにすれば、そうはならないとも。
「うん」
返事は簡潔で。
「そうして欲しいのなら、そうするけど」
どうやらこの少女、悪魔の類らしい。
最初は幽霊かとも思ったが、違う。
「なら徹底的にやってくれ。どうせなら少しでもいいものを寄越してくれ」
血が滴る度に、意識がかすんでくる。
「そう?」
少女はともすれば面白そうな表情を浮かべ、微笑を洩らした。
どう見ても悪魔のそれだった。
「なあ……最後に一つだけ教えてくれないか」
「なに?」
意識がやばい。
足が震えている。
出血多量なのは間違いない。
これだけ出血しているのに、それを受けている本から少しも血が零れ落ちないことが不思議だったが。
「君は……悪魔なのか?」
「違うよ」
答えは相変わらず簡潔で。
それで終わりかと思ったが、続きがあった。
「わたしの母親はそう呼ばれていたみたいだけど。わたしは昔、死神って呼ばれていたから」
何でもないことのように、少女は言う。
それについて考えるだけの思考力は、ほぼ無くなっていた。
「失血によるショック症状……だね。気を失う前に、これを舐めて」
少女が何か差し出したのが見えた。
彼女自身の指先。
その指先は血で塗れていた。
「ひとの血を……舐める趣味は……」
「わたしも無いから。そういうの」
問答無用で突っ込まれる。
甘い香り。
それが最後の記憶だった。
◇
あの日以来、あの少女が姿を現すことは二度と無かった。
後日、電話のあった興信所の所長へと連絡をとってみたが、彼は苦笑した様子で謝ってくれた。
燃えた本については弁償するとまで言ってくれたが、そもそもどの程度の価値があったのかすらわからない古文書だ。
古文書、というだけで価値があるのかもしれないが、少なくとも俺には分からない。
とりあえず構わないと答えた上で、例の少女について尋ねてみたが、明確な答えは得られなかった。
残ったのは、あの黒い本だけ。
中を見てみても、真っ白で何も書き込まれていない。
そして相変わらずとんでもなく重い。見た目以上の重量なのだ。
結局はそれ以外、何も変わらず、数ヵ月が経過していた。
今となってはあの日の夜のことは、何か悪い夢のようでもある。
ともあれ変わらない日常は続き、俺の不満も解消されることは無かった。
そしてこの日が訪れる。
「凄いな……」
今日もまた宿直当番となって俺は、図書室ではなく宿直室でテレビをつけていた。
近くには例の黒い本が転がっている。
重くて持ち運びにはとことん不便なのだが、これが身近にないとなぜか落ち着かず、渋々ながらも極力持ち運ぶようになっていた。
メモ帳代わりにならないかと一度書き込んでみようとしたが、どんな筆記用具を使っても書けず、もはや呪われた本になっていたわけだが。
『見て下さい。黒い穴のようなものが見えます! 琵琶湖の中心に――』
テレビの中のレポーターが、降りしきる豪雨の中、必死にレポートを続けている。
一週間ほど前から発生した異常気象。
滋賀県の琵琶湖を中心として発生した暴風雨は、それこそ止むことなく一週間、今もなお続いている。
長野県であるこの場所も、滋賀県ほどではないとはいえ、相当な降雨量を記録していた。
原因不明の異常気象。
今では世界的に報道されるようになっており、天候の回復の目途はたっておらず、多くの地域で避難が行われているという。
やや離れているとはいえ、この長野でも同様だった。
正直で歩きたくない天候だったので、今日の宿直は願ったり叶ったりだったのだが。
そろそろ校内の見回りをする時間だったが、俺はそれも忘れてテレビに見入っていた。
琵琶湖上空に先日現れた黒い穴は、どんどんその大きさを拡大しているらしい。
その光景は、もちろん見たことなど無いに違いないが、黙示録の世界さながらだった。
恐らく日本国民の大半が、この中継を見守っていることだろう。
『何か――あ、変化があります! 何かが穴から――』
テレビ中継ではよく分からない。
それでも上空に向けるカメラの映像には、確かに変化があるようだった。
何かがこぼれ落ちる。そんな前兆。
「おい……やばいんじゃないか、これ……?」
遠く離れた場所のこととはいえ、ぞっとした何かが背中を駆け抜ける。
あそこからまさに零れ落ちようとしているものは、おぞましい何かだ。
吐き気がする。
その時だった。
『未知の干渉を確認しました。抵抗――失敗』
不意のそんな声が聞こえた。
女の声だろうか。
思わずあの時の少女のことを思い出したが、部屋には誰もいない。
そもそも声が違う気がする。
『抵抗――失敗。抵抗――失敗。抵抗――失敗……』
おかしな声が続く。
そして気づいた。
声はあの黒い本から聞こえてくるのだ。
「おい、何だって――」
『! 声が、聞こえるのですか』
不意におかしな声が止まり、まるで俺の声に反応したかのような問いが投げかけられてくる。
「聞こえるって、いや、何だ。本がしゃべる……? 何の冗談だこれは」
『この干渉の効果によるものと推定――。ならば、抵抗を停止します』
瞬間、がつんっ、とした衝撃が俺を襲った。
身体、というよりは頭に直接だ。
とんでもない頭痛というか、ハンマーで殴られたかのような――。
「ぐ、あ……っ!」
悶えるが、どうにもならない。
これはまずい、と理解する。
衝撃は徐々に酷くなっていく。
まるで、全身をバラバラにされるかのような感覚。
そしてそれは実際正しくて。
琵琶湖大海嘯。
のちにそう呼ばれることになる天変地異の日を境に、俺はこの世から消え失せることになったのだった。
◆あとがき◆
主人公が転生する件については、どういうシチュエーションでも良かったのですが、せっかくなので作者が他で書いている作品と同じ世界観、もしくはパラレルワールド的な派生の仕方にしました。
ですから冒頭で出てくる現実世界の登場人物は、以降の物語には影響を与えない、とお考え下さい。
というわけで、本当の意味での本編開始は次話以降となります。
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