二、痩我慢
箱館軍降伏、五稜郭開城の後に捕らえられた榎本ら箱館軍首脳は東京の獄につながれたが、黒田清隆の助命嘆願運動が功を奏して明治5年に赦免。
その後、榎本はかつての敵将の黒田清隆が長官を務める北海道開拓次官として新政府に出仕、その後は外国公使や逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任する。藩閥政治の中で、旧幕臣でしかも新政府に反乱を起こした張本人がこれだけの履歴を重ねたのは、ひとえに彼の人柄とその才能ゆえであろう。
大日本帝国憲法発布時の閣僚名簿には長州もしくは薩摩出身の国務大臣が名を連ねる中、唯一の旧幕臣の閣僚が榎本なのである。彼はただの旧幕臣ではない。最後の最後まで新政府に抵抗した人物なのである。
もっともまた、「海律全書」がきっかけで芽生え、生涯続いた黒田清隆との親交も大きかったと思われる。榎本が閣僚入りした時の内閣総理大臣は、ほかならぬ黒田清隆であった。
だが、それをねたんでか、世の中には必ずアンチが現れる。榎本を「変節者」と呼んで批判する人々がいたが、その総まとめみたいなものが明治24年に福沢諭吉によって書かれた「痩我慢の説」である。
曰く、徳川に忠誠を尽くして戦った戦いに敗れたからには、かつての敵の中で出世するなどもってのほか、痩せ我慢をして遁世すべきだという主張である。
つまり福沢は榎本の箱館行きの真意を分かっておらず、黒田の頭を丸めてまでして行なった榎本助命嘆願運動の本質も理解していない。
実は福沢も黒田による榎本の助命嘆願運動に参加していたのだが、それは榎本が最後まで新政府に対抗したという心意気に感じてとのことで、黒田が榎本の学問技術を高く評価したという動機と比べるとかなり次元が低い。
そして出生したら、今度は引っ込んでいろというのは、実に前近代的臭いがする。榎本は決して転向者ではない。そもそも箱館行きの動機が蝦夷の開拓と北辺防備だったのだから、戦争が目的ではなかった。榎本の明治以降は、その意志を貫徹するためのものだった。
形を変えても、北方への執心と情熱によって彼は開拓次官として新政府に出仕したのである。幕臣から新政府官吏へと立場は変わっても、蝦夷、そして北海道開拓という彼の意志は、箱館戦争の前も後も少しも変わっていない。
黒田は榎本が新政府に、そして近代日本にとって必要な人材だと見極めたから助命嘆願を行ったのであって、もし福沢の言うように榎本が遁世して身を引いたなら、黒田は何のために榎本の助命嘆願をしたのかということになる。
榎本は黒田の意思に応えるために新政府で働き、それ助命嘆願をしてくれた黒田への恩返しだと感じていた。また自分の才能を新日本建設のために役立てたいという思いは、「海律全書」を黒田に託した時の気持ちと何ら変わらない。いわば榎本自身が、「歩く海律全書」となったのだ。
そもそも福沢は痩せ我慢をしろというが、薩長藩閥政府の中で元叛徒が働くのは、並大抵の痩せ我慢ではない。本当の意味で彼は痩せ我慢をしていたのである。そのようなことを、福沢は何も考えない。痩せ我慢に痩せ我慢を重ねている榎本に「痩せ我慢をしろ」などと言うのは、人間として許されざる行為だと思う。
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