五、紅薔薇燃ゆ ~ああ一本木~

 かくして4月9日、官軍艦隊はついに蝦夷地に到着、陸戦部隊は江差の北、乙部に上陸した。そこは榎本らが最初に上陸した鷲ノ木とは、ちょうど東西対称の位置であることはおもしろい。以後、箱館市街戦へ移るのは時間の問題だった。

 江差を落とした官軍は、兵を木古内、松前、二股の三軍に分けるが、松前隊は松前城を奪還した後で木古内隊と合流し、木古内、二股の両地で激しい戦闘が行われた。箱館軍側の木古内での戦闘指揮は大鳥圭介、二股側の方は土方歳三であった。

 官軍の二股軍は江差から中山峠、大野を経て箱館へ向かう計画だった。この路線は現在の国道277号線だが、当時から江差と箱館を結ぶ重要幹線道路だったのである。

 二股という名の地名はかつても今も存在せず、二股岳より流れ落ちる二股川が大野川と合流する辺りで行われた戦闘という意味で二股川の戦いと称される。

 4月13日、14日と激戦は二回行われたが、官軍は土方軍を突破することはできなかった。しかし、29日に五稜郭より帰還命令が土方に伝えられ、土方は憤慨しながらも渋々二股川を放棄して五稜郭へ帰営する。

 おそらく官軍の有川進駐に伴い、土方軍が後方を遮断される恐れが生じてきたための措置であろう。二股川の戦いは全く箱館軍に有利に展開していたのに、土方は味方からの指示で退却を余儀なくされたのである。

 さて、その土方である。

 三多摩日野宿近郊の石田村の豪農の末子として生まれ、薬売りの行商をする傍ら天然理心流の剣術道場に学び、わずか目録のみで師範代となる。

 文久3(1863)年、幕府の浪士隊募集に剣術道場誠衛館ぐるみで応募し上洛、そこで浪士隊と袂を分かち、水戸浪士の芹沢鴨ら一派とともに総勢13名で新選組を結成、土方はその副長となる。

 新選組は京都守護職の会津藩主の預かりという名目ではあったが浪士の集まりであることは浪士隊と変わらなかった。市中見回りなどを任務とし、倒幕派の浪士などを取り締まり、多くの倒幕浪士を斬った池田屋事件は有名である。

 会津・薩摩と長州との戦いである蛤御門の戦いにも参加し、慶応3(1867)年6月、新選組は隊士全員が幕府直参旗本にとりたてられた。百姓の子の土方が大御番組頭となったのである。

 だがまもなく将軍慶喜は大政奉還、その年の暮れに新選組は京都を引き払って伏見へ移り、翌正月の鳥羽伏見の戦いに参戦、敗戦後の新選組は軍艦富士山丸で江戸へ戻る。

 土方は寄合席格に昇進、近藤勇とともに新選組幹部を中心に甲陽鎮撫隊を組織して甲州勝沼で土佐藩兵を主とする官軍を迎え撃ったが敗走、その後新選組は五兵衛新田、流山と転じて、流山で近藤勇が官軍に捕らえられると土方ら新選組の生き残りは大鳥圭介の江戸脱走軍に参加した。それはすでに前に述べた通りである。

 土方歳三は、榎本軍中きっての抗戦派であった。開拓はの榎本との意見は完全に正反対であり、両極端である。

 しかし、この二人が不和だったとか、榎本が土方を嫌っていたというような状況は全く見られない。むしろ榎本は、大鳥などよりも土方の方を信用していた向きが、仙台での再会の時の様子や、箱館軍中における土方の配置などから分かる。


 5月11日、官軍は未明から総攻撃を加え、ついに箱館市街を占領した。その11日の朝、五稜郭をわずか50人ばかりの軍勢を率いて出陣した者がいる。

 土方歳三だ。

 彼はこの時馬丁の沢忠助、安富才輔、別当能蔵などをつれ、他に額兵隊、伝習隊から各一分隊ずつ引きぬいてひきつれていた。

 新選組はいない。この時すでに新選組は箱館軍の一部隊となっていて、全体の陸軍奉行並みの土方の手を離れている。

 土方らはこういった少人数であったから、官軍に占領された箱館市街を奪還しようなどという意図はなかったと思われる。それよりも、市街地を官軍に奪取されたがために孤立してしまった弁天台場を救済に行こうとしたのであろう。

 ましてや、敵軍首脳部に斬りこもうとしたなどという話は、話としては面白いが戦況的に無理がある。

 その土方は朝四つ、つまり午前10時ごろ、官軍が設けた一本木関門を突破し、300メートルほど行った異国橋辺で官軍の銃撃を受け、腹部に銃弾が当たって落馬、そこから鶴岡町の農家まで運ばれたがそこで絶命した。

 銃撃を受けてから絶命まで十数分、彼の脳裏には何が浮かんだのだろうか。

 武州多摩川べりでの薬草摘み、剣術具を担いでの薬の行商、誠衛館の剣劇の響き、初めて渡った三条大橋、祇園宵山と池田屋、山南の脱走と総司の涙、京から伏見へ、鳥羽伏見の戦いと甲州そして流山、会津への転戦と、走馬灯のように思い出が駆け巡ったに違いない。

 懐かしい友の顔が一人一人浮かぶ。近藤、沖田、井上、先に逝った仲間たちが自分を呼んでいる、そんな気がしてならない。

 最期に、「すまん」と、だけつぶやいたともいう。それは誰に対していったのか。先に逝った仲間たちに、死のうとして死ねずにここまで来てしまったことを詫びたのか、残される者たちへ詫びたのか、今は知るすべもない。


 かくして、榎本軍中の幹部土方歳三の戦死は、榎本軍首脳部に大きな衝撃を与えた。土方の戦死についてはいろいろな見方がある。

 まずは弁天台場を救済しようとしていた中での偶発的な戦死、さらには実は味方の銃撃で殺されたという考え方もある。この時期、ほぼ五稜郭は降伏の路線で話し合いが進んでいたが、断固反対したのが土方であり、彼がいては話が進まない。

 さらに、降伏できても京都で新選組鬼副長として薩長の怨みをさんざんにかった土方がいては、降伏後の処遇が過酷になりかねないなどとの意見から、五稜郭内でお荷物になっていた土方を、敵の銃弾に撃たれたように見せかけて実は味方の兵が撃ったのだという。

 この考え方もたしかに否定はできないし、論理的にもつじつまが合う。しかし、あくまで想像の域を出ない。その可能性もあったとしか言いようがない。

 もう一つの見方は、五稜郭が降伏に傾きつつあったこの時、断固として降伏などという状況には甘んじられないとする土方が、死地を求めて敵陣に斬りこんだとする見方である。こうなると、戦死とはいっても実質上は自殺である。

 そもそも、土方は蝦夷に来てからは、ひたすら死に場所を探すために生きてきたのだという人もいる。それは、はたしてどうだろうか。

 彼は決して死に急いではいない。しかし、おめおめ生きているというのも当たらない。死のうとして死ねず、ここまで来てしまったのである。こんな北の果てにまで。そして、戦死した。最後まで幕府を見捨てまい、自分の目で幕府の死を見届けたい。そういう思いが、彼をここまで生かさせ、この北の果てまで連れてきたのだと思う。

 過ぎし日の面影に支えられて、落日までの間を生きた。時代の渦の中に流れ流され、北海の短き夏に急ぎ咲いた紅薔薇……力尽きて赤い炎とともに……。

「義に殉じて死したる者の血は、死して後三年たてば碧に変ず」という意味で、箱館山麓に立てられた碧血碑に彼の遺骨は納められたというが、今碧血碑の納骨堂は空っぽである。

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