四、局外中立の陰に

 箱館戦争を考えるのに避けて通れないのが、諸外国との外交問題である。当時の諸外国は、箱館に籠った榎本たちの一派をどう見ていたのかということになる。ただの反乱軍か、新政府とは別個の交戦団体とみなしていたのか、あるいは巷で言われる「共和国」という独立国として扱っていたのかなどという点である。

 そのカギを握るのが、当時の諸外国が採った「局外中立」という立場である。それを見るのに格好の材料が、甲鉄艦問題であった。

 甲鉄艦はもの時点でまだ和名がつけられておらず、便宜上甲鉄艦と呼ばれていた。原名はストンウォール・ジャクソン号といい、もともとアメリカ合衆国の南北戦争の際に南部軍がデンマークに発注したものである。

 ところが、艦がアメリカに到着した時はすでに南北戦争は終結しており、用済みになっていたところを日本の徳川幕府が購入の意志を示した。

 榎本艦隊の旗艦の開陽を実力ではるかにしのぐ優秀艦である。ところが今回も日本に到着した時には、買い付け元の幕府はすでに崩壊していた。すなわち王政復古の大号令の後で、江戸城はまだ開城されてはいなかったが慶喜がひたすら恭順をしていた慶応4年(1868年)の4月のことである。

 実は、この艦がまだ日本に到着する以前から、幕府と官軍のどちらに引き渡されるかということが問題になっていた。まだ、幕府海軍の軍艦は官軍に引き渡される前の時点である。なにしろ当時最先端の軍艦で、どちらがこれを手にするかで戦いの決着がつくと言われたほどだから、幕府海軍も官軍も当然自らに引き渡すように要求した。

 だが、決定権を持つ売り手のアメリカの主張は、「局外中立」によって内戦が終結するまで官軍と幕府のどちらにも引き渡せないという態度だった。すでにこの年の1月の時点で諸外国は、今の日本が内戦状態にあるのでそれに介入しないための措置として「局外中立」という立場を主張していた。

 この、局外中立というのが曲者だ。なぜここでいきなり局外中立という概念が飛び出したのかというと、それは新政府がアメリカに申請したからなのである。その目的は、甲鉄艦が幕府に引き渡されるのを阻止するためであった。さらにはアメリカ側の通商に関する事情も加わって、諸外国の「局外中立」宣言となった。

 だが、この「局外中立」を申請したことは、新政府にとって一時は自分で自分の首を絞める形になってしまった。局外中立によってアメリカは甲鉄艦を幕府には引き渡さないという出方に出てくれはしたが、それは同時に官軍にも引き渡さないということを意味するものであった。官軍は甲鉄艦到着後もたびたびアメリカと交渉を重ねたが、交渉は難航した。

 後に新政府が今度は局外中立撤廃申請をして、年の暮れも押し迫った頃にようやく局外中立は撤廃され、明けて明治二年二月、甲鉄艦日本到着からまる一年後にようやく官軍は甲鉄艦を手に入れる。

 それはまだ後の話として、この江戸開城前から始まった局外中立だが、あくまでそれは新政府と幕府との内戦の局外中立である。すでに王政復古の大号令は出されていたとはいえ、まだ江戸開城前で徳川家は依然として江戸城にいて、将軍も寛永寺で恭順しているとはいえ江戸にいる。

 だが、江戸城が官軍に明け渡された後でも、箱館に立て籠もった榎本軍にその局外中立が引き継がれるのかということになると、それはまた別問題なのである。

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