三、虚しき願い

 維新後に回想で書かれた文章には記憶違いや自らなした脚色、新政府への遠慮ということも差し引かねばならないが、この戦争に当たって榎本がたびたびリアルタイムに書いた文章がいくつか残っており、それらこそが当時の榎本の生の声を物語る。

 まずはすでに述べた脱走時の「檄文」と「徳川家臣大挙告文」がある。さらに仙台を後にする際の「四条平潟口総督宛て陳情書」、そしてこの時点での「清水谷箱館府知事宛て歎願書」となるが、その後も「奥羽列藩宛て徳川脱藩海陸軍布告書」、「英仏公使宛て仲裁要請書」、「仏公使宛て秘密書簡」、「新政府宛て歎願書」、「箱館在留各国領事宛て全島平定通告書」などが年末に渡って出されている。

 そしてそれらの内容は、たった一つである。すなわち、「徳川旧家臣の生活を守るために蝦夷地がほしい。旧徳川家臣をして蝦夷地の開拓および北門警護に当たらせたいというのが真意であり、朝廷に対して敵愾心など全くない。しかし、自分の要求が入れられない時は、抗戦もやむを得ない」といったものである。抗戦といっても、再三述べてきたように、相手は朝廷ではなくあくまで薩長だという意識である。

 かつて幕閣内でも抗戦派として有名だった榎本のことだから、この清水谷府知事宛ての「歎願書」はその場逃れの、また時間稼ぎの言い逃れなのかというと、そうでもない。

 榎本の蝦夷地開拓の意図というのが、この場の思い付きの出まかせではない証拠に、前に述べたように既に江戸開城前から榎本は、勝海舟に対して盛んに蝦夷地のことを話題にしていたからだ。蝦夷地の徳川旧臣による開拓は、早くから幕閣内での懸案事項であった。榎本はそれを、実力で実行しようとしただけである。

 そもそも榎本が蝦夷地に目をつけたきっかけは、彼が一度来たことがあるということからだった。榎本は安政元年(1859年)に、後に箱館奉行となる堀正煕とともに蝦夷地や北蝦夷地(樺太)を巡察した経験を持ち、またオランダ留学により最新の開拓技術を身につけているなどの自信があったからだ。

 それに、榎本を抗戦派と位置づけはしたがその基準もまた曖昧であり、抗戦派というのがあくまで「徳川幕府の存続を武力で守ろう」と主張する小栗忠順のような人のことであるとするなら、榎本はそれには該当しない。

 しかし、徳川慶喜や勝海舟のような恭順派とも明らかに違う。だがその違いは武力で官軍に抗する抗さないの次元ではなく、勝海舟のように日本全体を見るか、あくまで徳川家の家臣ということに重きを置くかの違いである。

 その点が勝とは違うので抗戦派としただけであって、だから蝦夷地でのいきなりの武力行使を避け、先端が開かれたことを不本意に思っていることと抗戦派であるということが矛盾するなどということはない。

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