二、天涯白銀
10月、榎本艦隊旗艦開陽は、遥かに江山を望んだ。ついに北の果てまで来てしまったという万感の思いが、諸人をして欣然奮躍とさせた。
旧暦10月といえばもはや真冬、山々は白銀に塗り込められた妖しい光を放っていた。
榎本以外は、蝦夷は初めてというものがほとんどだ。蝦夷では土人が穴居していると思い込んでいた大鳥圭介など、上陸してみると民家があり、主人が仙台袴で出迎えたのに驚く始末。
白銀の山に落葉樹がその裸体を林立させ、カラスが海上を飛び交う風景は異様な感じを諸人に与えていた。
ただ、一人榎本だけが再びこの地を訪れたのだという事実を実感していた。彼の脳裏にはこれからこの地で起こるであろうことの結末がどうなるかなどは浮かばず、ただ目的に向かって邁進する気力だけが充ちていた。
その日の午後には、南方に駒ケ岳がその勇姿を見せはじめた。反対の北に目をやると、水平線には薄っすらと陸地が湾曲して延びており、その右端が後の室蘭である。
もはやそこは内浦湾であった。無論、当時は内浦湾も駒ケ岳もその名称はまだない。地名はほとんどアイヌ語で呼ばれていたが、内浦湾に関してはVolcano Bayという英名がすでについており、直訳して火山湾、もしくは噴火湾と呼ばれていた。
北海の大自然、果てしない広野、それらに見守られて艦隊はいくつもの限りない希望を乗せ、Volcano Bayへと突入していく。だがそこは、目指しているはずの箱館よりも少し北になる。箱館はそこから見れば、駒ケ岳の向こうの南側なのだ。
これから始まる戦争の本質の一端が、その榎本たちの上陸地点に表れている。当時の蝦夷地は箱館と松前以外は、いわゆる和人の住む町は存在していなかった。それなのに、榎本は故意に箱館を避けたようである。
先述の通り、箱館にはすでに箱館府があって、新政府の掌中にある。もし艦隊がそんな箱館港に侵入していけば、それはそのまま宣戦布告を意味する。すでに新政府軍のものとなっている弁天砲台も、たちまち火を吹くであろう。そうなると、榎本艦隊も応戦せざるを得なくなり、そこに戦闘がたちまち開始される。榎本はそこまで読んでの迂回航路をとり、そしてそのことは、すぐに武力で箱館を落とそうということは榎本の意図するところではなかったことを如実に物語る。
はたして榎本は駒ケ岳の北方の鷲ノ木浜に上陸する。前日にこの湾に進入した時には姿を見せていた駒ケ岳もその姿は見えず、彼らを出迎えたのは猛吹雪であった。艦より下船した多くのものが生まれて初めて経験する蝦夷地の吹雪に、身を抱えて縮こまっていた。
上陸地点に加えて、武力行使が榎本軍の目的ではないことをさらに裏付けるかのように、上陸後榎本はただちに清水や箱館府知事あてに嘆願書を提出している。だがその使者の人見勝太郎、本田幸七郎は嘆願書を届ける前に官軍に襲撃され、これが箱館戦争の発端となった。榎本の意に反して、戦闘は開始されてしまったのである。
その嘆願書の内容については後に譲るが、ここで榎本が出したのはあくまで「歎願書」であった。「最後通牒」でも「宣戦布告」でもなかったのである。その嘆願書を読むどころか受け取りもせずに先に戦争を仕掛けてきたのは、新政府の側である。
榎本は、最終的には戦闘も辞さないという覚悟を腹の中に持ちながらも、先に戦争を仕掛けるつもりはなかった。つまり、榎本たちは、戦争をしに蝦夷地まで来たわけではない。これは榎本個人の考えではなく、大鳥圭介など他のメンバーにとっても共通意見であった。ここで戦闘が始まってしまったことは榎本にとって不本意のことであり、また不可抗力でもあった。
榎本らは「仕掛けられた戦い」に勝ち、清水谷府知事を箱館から追い出して五稜郭に入場した。
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