第三章 箱館軍の性質
一、北方の系譜
先に幕府と蝦夷地とのかかわりを、概略的に述べておこう。概略的にとはいったが、実は簡単に見過ごしてはならない問題もそこにはある。直接にではないにしろ、榎本武揚の意識に微妙にかかわってくるからである。
箱館が一躍時代の脚光を浴びるのは、安政元年(1854年)の日米和親条約によってであった。この条約によって下田とともに箱館が開港されることが約され、翌年の3月には実際に開港された。
これに伴って幕府は箱館奉行所を設置し、また松前藩にはわずかな領地を残してそれ以外の蝦夷島全土を上知させ、それを天領とした。また、弁天砲台と五稜郭が築かれ、さらに米・英・蘭・露・仏との通商条約、いわゆる安政五カ国条約が結ばれた安政5年(1858年)には、箱館はあらためて貿易港として生まれ変わった。
蝦夷地の軍備に関しては松前藩、および奥羽諸藩に警備を命じていた幕府だったが、安政6年(1859年)にはあらためて津軽・南部・仙台・秋田・庄内、会津の六藩に蝦夷地を分割警備させた。すなわち、蝦夷地は天領とはいえ、幕府直属の守備兵はいなかったということになる。
また、安政元年に箱館奉行堀利煕らの意見書によって旗本、御家人の二、三男を移住させて、兵農相兼のいわゆる屯田兵制度を実施したが、数は160人と高が知れていた。
さて、王政復古の大号令が出されるや新政府も蝦夷地経営に着眼し、慶応4年(1868年)四月には箱館奉行所を廃止して箱館裁判所を設置、公家の清水谷
かつて幕府の箱館奉行所が廃止されて新政府の箱館裁判所に移行する再に引継ぎ業務が行われたがそれはかなりスムーズなものだったし、奉行所の役人の幕臣でも希望者はそのまま箱館裁判所で勤務できた。
さらには、箱館奉行配下の戌兵も引き継がれている。その後、新たな徴兵も行われたが、それでも箱館府の兵力は500にも満たなかった。
前に蝦夷島を防衛していたのが奥羽諸藩の兵であったことは述べた。これらの諸藩のうち秋田藩を除いてすべて奥羽列藩同盟の成員であって新政府に楯突いた者たちだから箱館府の指揮下で蝦夷島の防衛の任に就くはずもなく、よって箱館府は500未満の兵数の、いわば裸同然の防衛状況であった。
幕府が蝦夷防衛の直属の兵を持たず、それを奥羽列藩に任せたことは幕府の北方防衛に対する認識不足からだろうが、結果としてそのことが逆に新政府には災い、榎本たちにとっては幸いとなったのである。そういった実体を、榎本はどうとらえていただろうか。
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