四、艦隊北上
大鳥軍が江戸を脱走する際は、その行き先について明瞭に決定がなされていなかったことについてはすでに述べた。
それに対して榎本武揚の場合、先に引用した脱走時の勝海舟に宛てた書簡などからも分かるように、蝦夷の開拓というのが早くから視野にあったことも述べた。すなわち、江戸を脱走した時点ですでに榎本の頭の中にあった行き先は蝦夷だったのである。
その背景と、榎本が蝦夷地に目をつけた経緯だが、王政復古の大号令が出て徳川家の所領はすべて官軍に召し上げられた。
慶応4年の4月に勝海舟が総督府へ建言書を出しているが、そこには何とか召し上げられた知行地を返還してもらいたい旨が記されており、また6月にも慶喜から徳川家の家督を継いだ家達も蝦夷地返還の要求を新政府に出している。
榎本もこの考えの流れだったが、彼の場合は建言や嘆願などというのは生ぬるく、実力行使あるのみと、とにかく蝦夷地へ向かうという行動に出たのである。もし返還されないのなら、実力で奪い返そうという考えである。
一方、奥羽列藩同盟の場合、彼らの意識の中に徳川家の復興などということは全くなかった。あくまで自藩の存続と、朝廷への忠誠心からくる薩摩や長州に対する藩レベルでの怨恨がその行動のモチーフであった。
これは5月の時点で列藩同盟が太政官に提出した建白書に尽くされている。そこには、朝廷に刃向かうつもりは全くないが、薩摩や長州は許すことはできないという旨が切々とつづられている。
同盟の中でもとりわけ会津藩と薩長両藩との怨恨関係は古く、文久3年すなわち4年前の1963年にまでさかのぼる。
その当時、会津藩と薩摩藩は協力関係にあり、この会薩連合勢力を中心に、八・一八の政変が行われ、尊王攘夷派の公家や長州藩が排斥された。
その翌年の池田屋事件から禁門の乱で長州藩は会津と薩摩にこっぴどくやられる。長州の会津と薩摩に対する恨みはこの時から始まった。
ところが、坂本龍馬の周旋によって、あれほど憎み合っていた長州と薩摩が怨恨を超えて手を結ぶ。いわゆる、薩長同盟である。
しかしこの同盟は、会津から見ればそれまで友藩だった薩摩藩の、会津藩に対する裏切り行為に他ならない。会津藩の中で、薩摩に対する怨恨は燃え上がる。
さらには、あの禁門の乱で長州は御所の中に向かってまで発砲したのにその罪は王政復古の大号令とともに許された。だが、会津藩は意識の上では薩摩藩と戦ったに過ぎない鳥羽伏見の戦いで、薩摩に錦の御旗が下ったというだけで朝敵とされ、その汚名は慶応4年の5月のこの時点でも消えていない。
会津藩としては、そのことも我慢ならない。しかも、そのすべてのことを仕組んだのは、長州藩である。
そもそも、会津藩ほど勤皇の藩はなかった。孝明天皇も会津藩主松平容保の、朝廷への忠誠を高く評価しておられる。
繰り返すが、列藩同盟の意識は、自分たちが戦っている相手は官軍などではなく、列藩同盟と同じ次元の薩長同盟にすぎなかったのである。薩長は、朝廷を神輿くらいの感覚で担ぎ出しているだけで、勤皇会津藩から見ればそのこと自体が朝廷への最高の不敬であるとなるのである。
だから彼らは徳川幕府などどうでもよく、薩長同盟を倒して、薩長に代わって奥羽列藩藩閥政府を作るのが目的だった。そうなると、あくまで旧幕臣である榎本や大鳥とは相容れないものがそこにはある。
また、箱館軍中に、奥羽列藩同盟から加わったものはそれほど多くはない。目立った活躍をしたのは仙台額兵隊の星旬太郎くらいで、箱館軍の要職はすべて旧幕臣で占められていた。つまり、箱館戦争は決して、奥羽戦争の延長線上にあるのではない。
勝海舟に言わせれば、会津藩の忠誠心は偽忠誠心だということだが、榎本は列藩同盟を義挙とした。榎本は一応列藩同盟を少しはあてにしてみた。しかしそれは、自己の目的達成のための手段としての利用価値しかなかった。それが仙台藩も降伏してその利用価値がなくなると榎本は奥羽列藩同盟に見切りをつけ、仙台を去って本来の目的地の蝦夷へと向かう。
10月、榎本艦隊は大鳥軍をもそこに乗せ、ついに仙台を抜錨して北へと向かった。
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