二、総野から会津へ

 先に述べた江戸開城時の江戸脱走組のうち、市川に集結した大鳥軍がこの奥羽列藩同盟に加わるわけだが、同盟の中で彼らはどのような位置づけとなるのだろうか。

 彼らが直接かかわったのは会津藩と仙台藩のみである。だが、市川を出発して彼らがとりあえず目指したのは、日光であった。

 大鳥軍は市川集結の時点では、奥羽列藩同盟に参画することははっきりと決まっていたわけではなさそうである。宇都宮城を落とし、日光にたてこもった後、閏4月になってから会津に行くかどうかの議論がなされているからだ。それも、日光にて玉砕を主張する一派もあって、すんなり決したわけではない。

 彼らの中で最初に会津に入ったのは、土方歳三であった。土方は宇都宮城攻略の戦いで足の指を負傷している。そして、4月末に宇都宮以来の病人が多いので怪我人だけは会津へ送ることになったのだが、その中に土方もいた。

 土方とともに全軍を指揮していた会津藩の秋月登之助も途中の会津田島まで同行している。会津田島は日光から会津若松までのほぼ直線のルートの六分目くらいに位置する。

 その後も土方は単身ではなく、島田魁、中島登、沢忠助など新選組の同志も土方と行動を共にしている。彼らは四月下旬には会津若松城下に入っており、流山で散りぢりになっていた同志たちも再び土方のもとに参集し始めた。

 その直前に、流山で官軍に捕らえられていたかつての朋友であり盟主である近藤勇は、板橋で斬首に処せられている。

 先ほど、市川に集結した時点で大鳥圭介は、会津へ往くことを決定していたわけではなかったようだと述べたが、どうも土方とその一派だけはすでにそのつもりだったらしい。彼らの綾瀬や流山での駐屯が会津に行くための道筋だったとするなら、それが計画倒れになった今や、会津へ往く最も手っ取り早い手段が大鳥圭介の一団との合流であったのだ。

 さらには、その大鳥軍の全軍の指揮を土方と会津藩士の秋月が任されたのだから、この二人はいやでも軍全体を会津に誘致しようとするだろう。だが、日光において会津に行くか否かの議論がなされていた頃には、土方はすでに日光にはいない。それが閏四月に入ってすぐだったから、土方はその時点ではもう会津若松にいた。

 会津藩と新選組の切っても切れない縁については、前に述べた。

「会津侯御預かり、新選組のものである。役儀により連行する。屯所までご同行願いたい」

 ドラマなどで京都で市中見回り中に不逞浪士に出くわしたときの、新選組の定番の文句である。

 そんな新選組だから、大鳥軍中にあっても会津では新選組のみ際立った行動に出る。会津若松で土方をはじめとする新選組隊士は藩主松平容保に拝謁し、軍資金までもらっている。

 土方は若松城下で傷の療養に専念する一方で、新選組は白河城攻防戦に参戦する。その時の大将は山口二郎と名乗ってはいたが、実は新選組の京都時代に副長助勤、三番隊組長を務めた斎藤一その人である。

 彼は謎の多い人物で出生は不明だが、会津藩士の娘を妻に娶っている。彼は流山で土方と別れて、先に会津入りしていたようだ。

 ちなみに上野戦争で敗北した彰義隊の残党で土方と合流し、箱館までともに行っている斎藤一諾斎は全くの別人である。


 市川脱走組の本体である大鳥軍は閏四月中旬にようやく会津田島に至り、今市や藤原方面で官軍と戦ったりしている。大鳥は五月に初めて若松城に登城しており、その後会津藩兵と合流、先に会津入りしていた土方ら新選組も大鳥軍に復帰して8月には母成峠で官軍と戦ったが、敗走した。

 その翌日の十六橋での戦いでも敗走。藩主松平容保自らの出陣を仰いでも虚しく、それから後は会津藩は鶴ヶ城にたてこもっての籠城戦に入る。

 だが、大鳥軍の半分は城に入りそびれ、塩川に布陣した。


 その頃、藩主容保の弟で桑名藩主の松平定敬は容保の命で米沢や庄内藩に援軍を求めに行ったが、それに土方も同行している。だが、土方が米沢に入ったらしい形跡はなく、その足で仙台へと直行した。

 大鳥軍も米沢に向かったが庄内藩領に入ることはできず、9月には大鳥軍本体も仙台へと向かった。そのうち第一、第三大隊は塩川に残ったが、官軍の来襲を受けて壊滅状態となった。

 山口二郎もこの時戦死したと一時は伝えられたが、当の本人は藤田五郎と名を変えて、大正四年まで存命している。


 仙台に向かった大鳥の名分は会津救済の援軍を求めにということだったが、仙台に着いた大鳥が漏らした言葉は、「奥羽の諸藩はどこも全くあてにならぬな」ということだった。会津への援軍のことなど、どこ吹く風である。

 もちろんそこには、仙台藩内の事情も関係しているが、はっきり言ってしまうと大鳥圭介は会津藩を見捨てたのである。彼は真に奥羽列藩同盟に合力しようとしたのではなく、自らが薩長に徹底抗戦するその足掛かりを奥羽列藩に求めたにすぎなかった。

 そのへんが、会津と縁の深い新選組とは違う。新選組こそが真に会津のために会津に至り、会津のために戦ったのである。

 大鳥軍が江戸を脱走して北上してきたのは奥羽列藩をよりどころにして官軍と戦うためではあったが、奥羽列藩に合流するのが最終目的ではなかった。だから、会津藩の旗色が悪くなるとさっさと見捨てるのである。

 土方や新選組はさすがにそのような意識は全くなかったが、それでも結果的には会津藩を見捨てるという形になってしまった。

 かくして大鳥軍は仙台で、江戸を再脱走してきた榎本艦隊と合流する。

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