五、品海出帆(榎本武揚)
さて話は前後するが、先にも述べた通り、これまで述べた各脱走諸隊と同じ4月12日に、榎本艦隊は軍艦八艘を率いて品川沖を脱走した。
海軍は総裁が八田堀鴻、副総裁が榎本武揚であった。その正副総裁で意見が合わず、八田堀が官軍に軍艦の引き渡しの手続きをしているすきに、榎本が艦隊を出航させてしまった。遊撃隊の伊庭や人見を乗せていたと前に言ったのは、この時のことである。
この艦隊脱走は、これまでのように抗戦派が脱走したのとはわけが違う。問題は榎本個人の脱走ではなく艦隊を率いての脱走だったということで、このことが勝海舟の背筋を寒くさせた。
と、いうのは、官軍が江戸総攻撃を中止する条件の江戸城無血開城に付随して、軍艦の総引き渡しということがあったからだ。これは例の勝・西郷会談では官軍側が譲歩して、引き渡した軍艦のうち若干は返還もあり得るとされていた。しかしそれはあくまで一度引き渡してから後の話であって、引き渡す前に軍艦が暴走者によって持ち逃げされたなどというのでは、引き渡し後の一部返還を官軍に懇願して認めてもらった勝の、官軍に対する面目が丸つぶれである。
そこで勝は艦隊が停泊しているという館山に自ら赴き、開陽丸上で榎本と会見した。その勝のさんざんの説得の末の「だから、およしよ」の一言で榎本は脱走を断念、艦隊は無事に江戸に戻ってきた。
これが先に話題に出た榎本の脱走未遂である。艦隊は約定どおり官軍に引き渡されたが、これもまた約束通り一部が返還された。すなわち、開陽、回天、蟠龍、千代田の四艦である。
榎本はその後も江戸で、抗戦派諸隊の援助を続けていた。先の遊撃隊を箱根に軍艦で送り届けたというのもその一環でといえる。つまり榎本は、一度は脱走を断念したものの決してあきらめてはいなかったのだ。彼の薩長への徹底抗戦の意志は消えない。
そうして虎視眈々と再脱走の機会をうかがっていた榎本は、主家の徳川家が水戸から駿府へ移り、奥羽での戦況も思わしくなくなった頃を見計らって、ついに再び脱走を決行した。すでに最初の脱走から4カ月が経過した8月、先に述べた4艦にプラスして、輸送艦の咸臨、神速、長鯨、美加保の四艘を加えた計8艘は、羽田沖で抜錨した。
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